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モンターグの貸出票

返却期限を過ぎました。

ワイン農家の娘と風車小屋の住人

創作

 あの風車小屋には誰かが住んでいて、その誰かはとても頭のおかしな人だから、わたしと弟は両親から決して近づかないようにと子供の頃から言われてきた。

 わたしの家はワイン農家で、この時期は収穫を終えた葡萄をいよいよお酒に加工していくのだ。今は衛生上の理由だといって機械が全部やってくれる。ワインを作るための機械をわたしと弟で《ベニー》と読んでいた。ベニーは葡萄の実を皮ごと潰して大きな音を立てながら水蒸気を吐いた。ベニーは随分と旧式の製造機で一度動かなくなってしまったことがある。お父さんは悪態を吐きながらベニーを修理するために畑の三分の一を手放した。おかげでベニーはまだわたしたちの家族だった。

 ベニーが休んでいた頃はワイン造りも昔のやり方で行った。わたしと弟は樽に詰まった葡萄の山をわくわくしながら踏み潰した。よりによってお母さんが着せてくれたのは白のワンピースで、お父さんはカンカンだったけれど、わたしは着替える間が我慢できなくて葡萄に飛び込んだ。ワンピースは裾のあたりから肩の方まで紫色のしみを作ってわたしはそれがまた嬉しかった。いたずらな足踏みが果実をお酒に変えていく。その年は出荷量も少なくて、殆どが地元の人に振る舞われた。いやらしい眼差しの大人達は甘い不道徳に酔い痴れて、わたしも弟もそれを見たときにはあんなに楽しかったワイン造りのことなんて忘れてベニーの快復を心待ちに思ったのだった。風車小屋に住む誰かについて頭のおかしな人だと言っていた大人達の言葉をわたしは大人達自身に見ていた。

 

「ベニー、今日も元気?」

 弟はこの田舎町を出て船を造る仕事に就いた。お父さんも後継には期待していなかったみたいで弟がその道を選んだことに反対はしなかった。お母さんも反対しなかった。お母さんの場合は反対しなかったというより出来なかったのだけれど。わたしは反対した。弟が出て行ったら誰がうちのワインを造っていくのか。「姉さんがやればいいだろ」弟はぶっきらぼうにそう言う。たしかにそうだ。覚悟のいる仕事だ。興味がなければ続かない。弟のそれは褪せてしまって、また別の色で塗り替えられようとしていた。わたしだけがあの日のしみを落とせずにいた。お父さんも出来るだけ手伝ってくれて、わたしの造ったワインが初めて出荷されるまではずっとそばで見守ってくれた。

 

 

 葡萄畑にひとり。わたしはいつものようにベニーに挨拶をすませてから工房を点検して回った。ひと息つくと視線の先には風車小屋。いつかの悪戯な気持ちが息を吹き返した。白の布地が葡萄色に染まる。

 風車小屋の扉はあっさりと開いた。埃と黴の匂いがあたりを包んでいた。壁伝いに走った階段は人ひとりがやっとの幅で、段や手摺の一部は朽ちていた。わたしはおそるおそる足を運びながらようやく最上段の近くにやって来て、天井扉に手をやった。こちらはさっきの入り口扉と違って随分とかたくなっていた。力を目一杯込めて押し上げるのを二、三度繰り返したけれどそれでも開かないので一旦下まで降りてバールを持って戻った。二回目に登った壁伝いの階段は踏み込んだ拍子に朽ち落ちて途中がごっそりと無くなって、それがちょうど中間のあたりだったので高さ的にもどうやって戻ろうか思案した。考えたところで仕方もなくわたしは天井扉を目掛けてバールを振った。最早開けるというよりは腐った木片を剥いでいるような感じだったがようやくそれは開いた。天井裏に上ると一脚のロッキンチェアが揺れていた。まるで誰かが座っているかのように小刻みに。わたしは椅子に近づこうとして足を踏み出すと、やはり彼方此方が腐った、先ほどまで天井だった、床はわたしの体重で抜け落ちて、わたしの体はロッキンチェアを目前にして腰から下が宙ぶらりんになって埋まってしまった。わたしは焦った。このまま床板がわたしの重さに耐えられなくなってしまえば、わたしはこの風車の高さから地面に叩きつけられることになる。そうなればただではすまないだろう。あれ以来元気なベニーは機械だけれど人工知能の自立型ロボットではない。いくら元気だからといってそれを動かす者がいなければどうしようもないのだ。先ずはベニーに謝った。ワインが造れなくなれば、いよいよ葡萄畑も工房も手放さなければならない。それらは誰かが引き継いで新しい味を作るのかもしれない。すっかり更地にされてしまって全く関係のない施設が建つのかもしれない。なんにせよわたし達家族の歴史はそこで終わるのだ。次はお父さんとお母さんに謝った。そこで両親の言葉を思い出す。ここには頭のおかしな住人が居たのではなかったか?随分と昔の言いつけだ。そう言っていた両親も他界してしまった。こんなボロボロの風車小屋だ。その住人だって……けれど何もしないままよりはマシだ。頭がおかしくたって構わない。一握の希望がまだあるのならわたしはそれに賭けてみたいと思った。床板を浮輪のようにして腰が挟まれたままのマヌケな恰好でわたしは叫んだ。誰か、助けてと。

「お嬢さん」

 声はロッキンチェアのあたりから聞こえた。さっきまで無人だった椅子の上には誰かが座っていた。声は老人のようにも聞こえたが背を向けたままで顔は窺えずにいた。

「お嬢さん、どうしましたか? お嬢さん」

「お願いします。挟まって動けないの! 引き上げてもらえませんか?」

「お嬢さん、私がそこまで歩いたら途中で床が抜けるでしょう。お嬢さん、万が一辿り着けても貴女を引き抜こうとした途端床は朽ちてしまうでしょう」

「そう……かも知れません。それなら誰か助けを呼んできてもらえませんか?」

「お嬢さん、私は町の人に嫌われています。お嬢さん、私は知っています。貴女もまた私を忌む者であると」

 両親はわたしと弟が悪さしないようにそう言っていたのだとわたしは思っていた。夜中に笛を吹けば蛇が出る。食後すぐに寝たら牛になる。そんなものと同じ子供騙しの戒めであると。しかし風車小屋の住人は今こうしてハッキリとわたしに身の上まで語って聞かせた。彼が狂人であるならわたしはいよいよ覚悟せねばならない。わたしは最後に弟へと謝った。彼が疲れて帰ってくる場所をわたしは残してやることができないのだ。言えばそれだけの為にわたしはワインを造り続けた。ベニーとはよく話していたのだ。弟は次にいつ帰ってくるだろう?すっかり立派になっているのだろうか?慣れない暮らしに困ってはいないだろうか?贈ったわたしのワインは飲んでくれたろうか? ベニーはいつもガチャンとかプシューとしか言わなかったけれど何となく「心配するな」と励ましてくれているような気がした。もう一度だけ弟に会いたかった。椅子の上の男が立ち上がる。ギシギシと音を立てて近づいてくる。床は辛うじて抜けない。どんどん近づいてくる。さて、わたしは叩き落されるのだろうか? 不快な侵入者には制裁を。住人はわたしのそばまで寄るとジッと顔を覗き込んだ。

「お嬢さん、私の素顔はどうご覧です?」

「え、どうして、だってお前は、わたしの、わたしの弟は事故で、だって、もう二度と、もう、会えないって、あの時、もう目を覚まさなくて、だって」

「姉さん、ごめんね」

 住人の声はすっかり弟だった。声だけではない。姿かたちもあの日、わたしが最後に見た元気な姿の弟のままだった。弟はわたしの体を見事に引き上げると寂しく微笑んだ。わたしはずっと後悔していた。わたしがもっと必死に止めていれば、弟にこの農家を継がせていれば、少なくともあんなに早くいなくなってしまうことはなかったはずだ。

 弟が乗った船は試運転中に岩礁に衝突して難破した。助けを呼ぶにも通信機器は完全に故障してしまい何日も遭難状態が続いた。ようやく救助の報せが届いた時、わたしとお父さんは弟のもとへ駆けつけた。弟は既に瀕死だった。肩から先の腕がなかった。ワケは聞かなかった。彼の最後の言葉は……

「姉さん、ごめんね」

「どうして?」

「僕は姉さんを置いて行ってしまった。自分の人生に悔いはない。けれど姉さんを一人にしてしまったのは申し訳ないと思ってる。あの葡萄畑は一人で暮らすには寂しすぎる」

「わたしは貴方が元気なら一人でも寂しくなかった。わたしは貴方が何処かで頑張っていると思えればどれだけ遠くだって寂しくはなかった! いつか会えるから……寂しいなんて思わなかった」

「姉さん、僕は姉さんに伝えなくてはいけないことがあるんだ。僕は姉さんがこれ以上寂しい顔をしているのが耐えられない。あっちなら父さんも母さんも居るんだ……姉さん、姉さんは十分にあの家を守ったよ。だからそろそろ一緒に行こう」

 わたしは唖然とした。そうすることがどれだけ楽なことかは理解できた。わたしは両親や弟に謝ったけれど彼らはそんなこと毛頭気にしていないようだ。それよりも家族仲良く暮らそうと弟は言う。彼は人生に悔いはないと言いながら彼なりに後悔しているのだろうか。彼は、弟はどうしてそんなことを言うのだろうか。わたしだけを連れて行って彼は満足なのか? 少なくともわたしはそうは思わない。何せその家族はわたしにすれば弟よりも長く共に過ごしたのだ。彼なくして、ベニーなくしての家族とはわたしの中では成り得ないのだった。わたしは途端弟の言葉が胡散臭く思えてきた。

「貴方、誰?」

 夢は幻、露わになるは骨の醜さ。住人は発狂してわたしを力づくで異界へと引きずり寄せようとした。小屋の内壁はベリベリと剥がれて住人の背後に現れた真っ黒な穴へと吸い込まれていく。

「お嬢さん!お嬢さん!此方へ!此方へ!」

 わたしは必死にしがみついて彼の名を叫んだ。いつだってそばに居てはなしを聞いてくれたのはベニーだ。わたしの寂しさを埋めてくれたのはベニーだ。彼の造り出したワインは最高なのだ。わたしにはまだベニーのワインを広めていかなければならない使命がある。だからお願い。助けて。ベニー。

「ガコン!ガコン!プシューッ!ガチャンガチャン!」

 ベニーは来てくれた。ワイン製造機が意思を持って動く姿は異様だったけれど、わたしにはベニーだけが英雄だった。ベニーは全てを吸い込む穴の中へとその身を投じた。ガコン、ガコン、プシューッ、ガチャンガチャン。すっかり姿が見えなくなっても機械音はけたたましく鳴り続けた。わたしはずっとしがみついていた。しばらくすると小屋の住人は絶叫して自らも穴へと吸い込まれてしまった。住人が姿を消すと穴も塞がってボロボロの風車小屋だけが残っていた。わたしは安堵感で気を失った。

 

 目が覚めると元通りだった。風車小屋はまだ丘の上に建っていた。お父さんもお母さんも弟もどこにもいなかった。少し違ったのはベニーが壊れてしまっていたことだ。それも仕方ないと思った。わたしを守ってくれたのだ。わたしは葡萄畑をもう半分売ってベニーの修理費にあてた。修理工のおじさんが最新式の製造機を勧めてくれたけれどわたしは断った。すっかり取れる葡萄が少なくなってしまったけれどベニーがなおるまで、わたしが踏んで造るには適量だった。わたしは敢えて白い生地の服を選んだ。一人で楽しくなっているのが少し莫迦莫迦しい。笑い疲れてベニーに目をやると彼はうんともすんとも言わなかったけれどわたしには彼の言いたげなことが伝わった。わたしは笑みを湛えて返す。

「こちらこそこれからもよろしくね」

 

ジョイスノート:2「ある出会い」

ジョイスノート

アメリカ西部劇の世界をぼくらに紹介したのは、ジョー・ディロンだった。彼はわずかながら蔵書を持っており、《ユニオン・ジャック》や《勇気》や《半ペニーの脅威》の古い号の雑誌類である。毎夕放課後、ぼくらは彼の家の裏庭に集まり、インディアン戦争ごっこの手はずを決めた。

 さて、続く二篇目『ある出会い』の主人公も「ぼく」を語る少年です。ジョイスはこの『ダブリンの人びと』という作品を十五の短篇で書きました。そしてそれらの短篇を〈少年期〉、〈青年期〉、〈成年期〉、〈社会生活〉の四つの相に分類し順序立てて並べています。各短篇は「ダブリンの日常」の切り抜きといった以上に関わりはありませんが全体を通して見た時、それは人間の生涯、とりわけ精神の移り変わりを描いていることに気づきます。

 そしてこの「ある出会い」は先の「姉妹」同様に少年から見た大人の世界、憧憬から始まる心の変遷を描写しています。主人公の「ぼく」たちは神学校に通う生徒です。彼らもまた「姉妹」の「ぼく」と似て抑圧された世界で暮らしています。西部劇は彼らの教えからすると悪しきものであります。ジョー・ディロンの弟、レオは授業中に西部劇雑誌の所持を神父に発見され叱責を受けます。この光景を「ぼく」は「ぐずなレオ」と表現しますがもう一回りコミュニティの規模を拡げればインディアン戦争ごっこでジョー・ディロンにいつも優位を取られる「ぼく」もまたレオと同じ側の敗北者なのです。レオが叱責されるのは彼の愚鈍さから発生したとはいえ同じ遊び仲間である「ぼく」にもその罪自体は心理的に共有されるのです。

夏休みが近づくころ、ぼくは、たとえ一日でもいい、退屈な学校生活から抜けだそうと決心した。

そこで「ぼく」はレオと、もう一人の友人マーニーを誘い冒険を計画します。これには抑圧された世界からの逃避の試みと、強者としての自分を獲得するための割礼といった意味合いが含まれます。彼らは互いに六ペンスずつ貯金し《鳩の家》と呼ばれる防波堤の先にある発電所を目指します。冒険の前に「ぼく」は二人から六ペンスを徴収し、彼らには自分の六ペンスを見せて確認させます。ここにも「ぼく」の優位に対する渇望が垣間見れます。

 さて計画実行の日、約束の時間になってもレオは現れません。待ちきれない二人は彼を置いて出発を決めます。ここで面白いのがそれを決定したのがマーニーだという部分です。マーニーは「もう行こう。あのでぶ公、思ったとおり、びびりやがったぜ。」と促しますが、優位性を取りたいはずの「ぼく」は「で、あいつの六ペンスは……?」とあまりに現実的な心配事に関心を寄せます。そこに「ぼく」の本来の資質というものが現れていますが彼は気づきません。

マーニーは未練がましくパチンコを眺めており、そこで汽車で帰ろうと持ちかけてみたら、彼はとたんに元気をとりもどした。太陽が雲の陰に入ってしまい、ぼくらに残されたのは、へとへとに疲れた思いと食べ物のくずだった。

 意気揚々と始まった冒険は彼らに変化を齎すはずでした。しかしそれは幻想で、現実は彼らをトムソーヤにはしてくれません。自由の獲得は門限への心配を前に崩れ去り、結局子供であることから逃れられない彼らには保護下という首輪を外すことは出来ないのです。

 意気消沈した彼らの冒険が終わりを迎えようとした時、第三者の登場によって息を吹き返します。彼らのもとにやって来たのは奇妙な年老いた男性でした。男は彼らに対して天気について、子供時代、学校や本のこと、などを一方的に語り始め、次いで「ぼく」とマーニーのどちらに恋人が多いかと尋ねます。

一人もいないとぼくは答えた。彼は信用しようとせず、きっと一人はいるに違いないと言った。ぼくは黙っていた。

ーーじゃあ、とマーニーは生意気にも男に言った、おっさんは何人いるのさ?

 三者の会話の中で「ぼく」だけが消極的です。得体の知れない男に対しての不安が「ぼく」を萎縮させます。男の言動は徐々に異質さを増し始めて、彼が少し離れた隙に「ぼく」はマーニーに、もし名を聞かれたら「おまえはマーフィーでおれはスミスだからな。」と偽名を名乗るように促します。このことは不信感の高まりに現実を許容出来なくなってきている自分からの逃避というふうにも見れます。

 再び戻った男は、猫に石を投げるマーニーの様子を見て「鞭で打たれるべきだ」と「ぼく」に告げます。しかし聞いていくとそれは折檻だけの意味合いではないことに気づきます。

男は、自分だったらそういう少年に鞭でどんなふうに打つかをぼくに向かって述べた、まるで複雑に込み入った謎を解き明かしでもしているかのように。それが好きなんだ、と彼は言った、この世でなによりも。

 男の変態的な性癖が露わになると、もはや「ぼく」には醜い現実から逃避したいという気持ちしかありません。逃避から始まった冒険の終点でもまた逃避を望むのはなんとも皮肉ですが「ぼく」はその場を抜け出そうとマーニーに助けを求めます。

ーーマーフィー!

ぼくの声にはわざと強がっているような口調があり、自分のつまらぬ策略が恥ずかしかった。もう一度その名前で呼ばねばならず、やっとマーニーがぼくを見て、おおい、と答えてくれた。彼が原っぱを突っ走ってぼくの方へと駆けて来るときに、ぼくの心臓はどんなに高鳴ったことか!彼はまるでぼくを助け出しに来るかのように走ってきた。そこでぼくは深く悔いた。というのは心のなかで今までずっと彼を少し軽蔑していたから。

 男(=外界の現実)に絶望し、ちっぽけなプライドもずたずたにされた「ぼく」は紛れもなく敗北者でした。かつては下に見ていた同級生にすがりながら己の愚かさに気づいていきます。「ぼく」と変質者の男、形は違えど人間の醜さを浮き彫りにする物語。しかし私はこの物語に清々しさを覚えます。それは「ぼく」が気づく形で物語に結末を置いているからで、憧憬と理想を片手に虚勢を張っていた「ぼく」がこれから真に受けいれていかねばならない大切なことを知ったという意味ではこの夏の冒険も無意味なことではなく変質者でさえもその助力を成しているからです。〈少年期〉に分類される話の中では、この「ある出会い」がとりわけ未来への期待が向いている気がして好きなのです。

 

ダブリンの人びと (ちくま文庫)

ダブリンの人びと (ちくま文庫)

 

 

 

ジョイスノート:1「姉妹」

ジョイスノート

 故あってジェイムズ・ジョイス『ダブリンの人びと』(ちくま文庫 米本義孝訳)を再読しています。これはいつだかの誕生日に友人が贈ってくれた一冊で、今一度手に取ってみると表紙は擦れて帯は一部破れてしまっています。なぜ今ジョイスかといえば最初に申し上げたように一応理由はあるのですがここで敢えて説明することでもありません。ただこうして再び向き合う機会に以前は残さなかった感想を置いておこうかと思いました。一度読み終えてから六年ばかりが経ちます。気付かぬうちに何か自分の中で変化があったことを期待して一篇ずつ読んでいきたいと思います。

こんどこそあの人はだめだ、三度目の卒中だから。

 冒頭を飾るのは「姉妹」という一篇です。物語は少年の視点を軸として、その目に映る外界の様子と彼の内的心情を描いています。引用部分の「あの人」というのは少年と交流のある老神父を指し、少年の言葉はその死を仄めかしています。

毎夜、その窓を見上げるたびに、ぼくがそっとつぶやくのは〈パラリシス〉という言葉だった。それはいつもぼくの耳によそよそしく響いていた、まるでユークリッド幾何学の〈ノーモン〉という言葉や、教義問答集にでてくる〈シモニー〉という言葉のように。しかし今では、それはまるでなにか邪悪で罪深いものの名前のように、ぼくには響いてくる。それはぼくを恐怖でいっぱいにするが、それでもそのそばに寄っていって、命を奪うようなそいつの仕業をみてみたくてたまらない。

 この一文の流れから、少年の信仰心、つまり神父に対する尊敬の念が少しずつ失われつつあることに察しがつきます。

ぼくは口にオートミールをいっぱい詰め込んだ、怒りの言葉が口をついて出そうだったので。小うるさい赤っ鼻じじいが!

ただそれでも他の大人から神父について「彼の教えは子供によくない影響を齎す」などと悪く言われることには我慢がならないようで心の内では神父を悪く言うコッターじいを罵倒し認めたくないという少年の意地と幼稚さが見え隠れします。そうやってどこかでは神父を擁護しながら神父の死を希求している節さえ見られる少年の感覚は、まさに引用部にもあるように少年自身が夜空につぶやいた(ここでは神父に向けられた言葉ですが)〈パラリシス paralysis〉という言葉、つまり麻痺を表しています。自己の神父に対する態度とコッターじいの漠然とした考えがほぼ同一線上にあることに少年は気づきません。何にせよ神父は病魔によって肉体的な死に向かうのと同様に少年の中でもその神秘性や畏敬の念が薄れて精神的においても死につつあるのです。

日なたを歩いていきながら、ぼくはコッターじいの言葉を思いだし、夢の中であのあと何が起こったのかを思いだそうとした。思いだしてみると、長いビロードのカーテンと吊り下がった古風なランプがあった。はるか遠い、風習が一風変わったどこかの国にいたような気がしたーーペルシャにいたのだ、とぼくは思った……。

 少年はやがて神父の死を現実のものとして納得するに至り、同時に戸惑いをおぼえます。これまで師事してきた神父は少年の中ではすっかり神秘性を取り払われたみじめな存在でしたが、それでもその喪失は、まだ成長の途上にある少年にとって葬り去ることが出来ないでいるのでした。少年は夢の中でそのもやもやから逃げ出すように「はるか遠い、風習の一風変わったどこかの国」へと自らを導きます。この描写はフランソワ・トリュフォー大人は判ってくれない』の終盤になんとなく似ています。母親から見放された少年が鑑別所を脱走し海を目指す姿に。

 神父もまたコッターじいとは別の方向から少年を抑圧する存在でした。神父が少年に教えた様々な知識、そこには知的強者の性癖としての善意といった側面があり、それに気づきだした少年は次第に神父への態度を信頼から疎ましさへと変化させていくのです。精神的支柱の喪失による少年の知的覚醒、超自我の形成。その完成を促すのがいよいよ登場する「姉妹」です。神父を世話していたイライザとナニー。イライザは神父の死に際が如何にみじめなものであったかを語り始めます。対して妹のナニーは無言です。ナニーには今にも眠り落ちそうな雰囲気の描写がありますが、どことなく死に行く神父の姿と重なります。ナニーが演じ、イライザがドラマとして語る。神父の最後という演目に対して観客である少年は、神父がもはや越えるべき存在でしかないことを確信するのです。

ぼくにはわかっていた、あの老司祭は、ぼくたちがさっき見たとおり、ひっそりと棺の中で、おごそかで獰猛な死に顔をして、胸には空っぽの聖杯を載せて、横たわってるってことを。

 

ダブリンの人びと (ちくま文庫)

ダブリンの人びと (ちくま文庫)

 

 

 

 

 

墨流し

随筆

 もう日が経つけれど、万年筆を洗った。どうやら万年筆は折にふれて洗わないといけないということでやってみようと思った。洗う万年筆は二本。誕生日に買ったペリカンと、その前から持っていたエルバンの安いやつ。ペリカンは吸入式といって尻のノブを回してインクボトルに浸したペン先からインクを吸い上げるのだけれど、洗う際も同じ要領でインクの代わりに水を吸い上げては吐き出しといった感じでやる。

 早速コップに入れた水にペン先を浸すとそこにインクが溶け出してマーブル模様を作った。それがどうにも綺麗である。水の中で静かに流動するインクは原生生物のようだ。しばらく眺めた後、それをかき回すと水は一気に苔色に染まる。それを何度か繰り返してあらかたインクを吐き出したペンに付着している水滴を布で拭き取ってみればなるほどと頷くものがある。そこに芽生えた愛着について。単に文具の一本ととどまらない何かを感じる。言ってしまえばペン一本を洗うなど面倒この上ない手間だろうと感じていた。ところが実際にやってみるとただただその作業に没頭する自分がいて、そのことより他に考えなど過ぎらなかった。ペンを水洗いするという感覚が新鮮だったのかもしれない。いつかはそれも忘れて飽いてしまうのかもしれない。もう一本も洗ってみては、いまだそこに興味が残っているのを確かめていた。

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ドーナツ化船長

創作

「もう一度確認します。あなたはキャプテン…….なのですね!」

「なんど言えば分かってくれる?私は紛れもなくこの船のキャプテンだ。少なくともここから半径10メートル以内で私ほどキャプテンなキャプテンはいない」

「生年月日」

「3069年4月26日。同じ誕生日の有名人は風間杜夫

「好きな食べ物」

「しば漬けとフルーツポンチ」

「自慢できること」

「カラオケの採点機能でDA PUMPの『Rhapsody in Blue』100点獲得。おわらあないなーあつきみがわらっ」

「キャプテン!!」

「隊員!!」

「しかし何故キャプテンがこんな姿に……」

「思うにワープトンネルを抜ける際、ハッキングにあった可能性がある。不覚だ。こんな19世紀から存在するオールドファッション……」

「どちらかというとエンゼルフレンチですけどね。しかしキャプテンがドーナツになってしまってはこれからの探索活動はどうしていけば……」

「臆するな隊員。たとえ私がドーナツの姿形をしていようと何だと言うんだ」

「銭湯とかは入れませんね」

「……。OH!ホォリィシッー!ファクファクファクファクマザファーー!サノバビッ!サノバビッ!スカムスカムスカムォーニング娘カムヒィア!キスマイアァス!サックマイキィス!アッチムイテホォイ!リアリィ?ハアン?アスホー?アスホー!アスホアスホアスホアスホアスホーーーール!」

「落ち着いてくださいキャプテン!お気を確かに!」

「す、すまない。やはり何とかして元の姿に戻らねばな。……奴に頼むか」

 私はキャプテンの命令を受けて船内のコンピューター制御室に来た。ドアを開くとツンと鼻を刺すような刺激臭を感じる。制御室には担当者が一人常駐している。もともとは白いティーシャツが完全に黄ばみ終え、他の船員から「チャリティー」とか「地球を救わなかった方の愛」と呼ばれている彼はサイバー管理の専門家だ。

「やあニコラ。今日もキレイだね」

「それはどうも。ところでチャリティー、キャプテンのことなんだけれど」

「ああ、ドーナツになっちゃったらしいね」

「話が早いわ。おそらくウイルスによる攻撃みたいなんだけどプログラム修正で元に戻せないかしら?」

「どうして僕がそんなことをしなくちゃならないんだ?」

「どうしてって、あなたこの船の乗組員でしょう?船長の大事にどうもこうもないんじゃない?」

「僕はあいつが嫌いだ。いい気味だよ」

「そう」

 私はチャリティーのデスクを蹴飛ばした。女性を象ったフィギュアが落下した。

「ああああ!ぼぼぼ僕のサマンサがアアア!!」

 サマンサ・ドルフィニカ・アンジェリーク。人気アニメのヒロインであり、私にしてみれば何の価値もない人形。

「ニコラ、その汚い足を退けろよ!僕は君を許さない!」

「あなたがキャプテンを助けないなら私はこのままサマンサの頭を踏み潰す。選ぶのはあなたよ、チャリティー」

「……分かった。けれど時間をくれ。中々に厄介なウイルスだ。何せ実存する肉体を書き換えるほどだぜ。僕でも正直どれだけ手段があるか」

「なるほど。じゃあそれまでサマンサは預かっておくわ。……逃げんなよ」

「……」

 私は背中に殺意を感じながら制御室を後にした。

「やあ、ニコラ。ん?なんだい、その胸ポケットの……人形?」

「気にしないでジェファーソン。それよりキャプテンのことだけど」

「聞いたよ。ドーナツになっちまったなんて。戻せそうなのかい?」

「チャリティーが全力で頑張るそうよ。ところで誰から聞いたの?キャプテンのこと」

「え?ああ、食堂でセスの坊やがみんなに話してたんだ」

「セスが?……そう、ありがとう」

「そうだ、俺、今回の調査活動が終わったら結婚するんだ」

「へえ、おめでとう」

「それで、その……ニコラにも式に出てもらえないかなって」

「そうね、生きて帰れたら是非」

「縁起でもないこと言うなよ」

「私たちの任務は命懸けよ。他国だって未開拓領域の獲得に必死なんだから。キャプテンがドーナツにされたのだって妨害工作だわ。結婚、大いに結構だけれど今は気を引き締めてちょうだいね」

「ニコラにもいい相手が見つか」

「それ以上何も言うじゃねえ。いいか?てめえのへそ下三寸、虚無空間にされたくなけりゃ黙って配置に戻れ」

「……ああ、悪かった」

 私はセスを探した。キャプテンのドーナツ化を知っているのは秘書の私だけのはずだったからである。チャリティーと会話したときも疑問だったけれど彼の場合は船内カメラを盗撮出来る気色悪さがあったから流した。でも他の船員にまで情報が伝わっているのはおかしい。情報源と思しきセスのことを私は疑った。キャプテンのドーナツ化は果たして他国からの攻撃だったのだろうかと。

「こんにちは、セス」

「……ハーイ、ニコラ。何か用?」

「二、三質問よろしいかしら?」

「今、手が離せないんだ。後でもいいかな?」

「二、三質問よろしいかしら?」

「や、だから今は」

「二、三質問」

「……」

「二、三、四、五……」

「なんのカウントだい?」

「十数えたらあなたの意識を消そうと思っているわ」

「よし、用事は終わった!終わったなう!なんでも聞いてくれ。ニコラの質問には答えなくちゃね」

「先ず、キャプテンのことどうして知っていたの?」

「キャプテンがどうしたんだい?」

「六、七、八」

「待って待って!」

「ジェファーソンがあなたから聞いたと言っていたわ」

「チッ!誰にも言うなってったのに……メールが届いてたんだ」

「メール?」

「これだよ」

「この度は『マネージャー -戦慄!夜の部活動-』をご注文いただき誠にありがとうございます。発送手続きが完了次第、追ってご連絡差し上げます。……何これ?」

「ちち違うよ!その下のファイルだよ!」

 差出人の欄にはペンデルトンと書かれていた。本文にはキャプテンがドーナツ化したこととそれは警告であり、即刻探査活動を中止するようにとあった。

「どうしてこのことをすぐに報告しなかったの?」

「イタズラだと思ったんだ。ドーナツ?莫迦莫迦しいってね。でも君が動いてるってことはまさかと思って動揺した。もしかして本当にキャプテンがドーナツになっちゃったの?」

「ええ、エンゼルフレンチ

「オマイガ!何てことだ!」

「このペンデルトンって奴に心当たりは?」

「さあね」

「じゃあ夜の部活動に心当たりは?」

「本当に知らないんだ!」

 セスは知っていること、それから性癖について洗いざらい吐いたけれど今回の犯人については本当に知らないようだった。しかし分かったことがある。セスのアドレスは船内に持ち込まれたセス個人のコンピュータのものである。ペンデルトンはセス以外にもメールを送信していたことがその後の調査で分かった。けれど個人のアドレスに送られていたのはセスの一件のみ。たとえ他国の妨害工作としてもさすがに乗組員の個人情報まで特定してピンポイントに送信したとは考えにくい。これはおそらくペンデルトンのミスだ。そしてペンデルトンはこの船の中にいる。セスの顔見知りである可能性は高く、延いては私も知り得る人物と推測した。

「もしもし、僕だ」

「ハイ、チャリティー。何か分かったの?」

「ウイルスにはまだ手をこまねいているけれど、メールの件は特定できたよ。ウイルス同様に難解なブロッキングが施されていた上にいくつもサーバーが経由されていて、まあ僕には及ばないけれどこんな技術を持ったやつがこの船の中にいたなんてね。けれど僕ほどになればこの程度の障壁を突破す」

「御託はいいから早く言え!……そう、分かった。ありがとう。ウイルスの方もよろしくね」

「サマンサは無事なんだろうね!?もしもし!もしも」

 切った。私はペンデルトンのところへ急いだ。

「あなた、だったのね」

「やあ、また会ったねニコラ」

「どういうつもりだ?このクソが」

「何がだい?」

「とぼけても無駄よ。チャリティーがあなたをペンデルトンだと特定したわ。ジェファーソン」

 私がその名を言い終えると同時にジェファーソンの脚は私の背後の壁を貫いた。

「脚が延びるのね。J・ペンデルトン。あしながおじさん

「昔から興奮するとね。おっと動くなよ。おかしな真似は止せ。これは何かな?」

 ジェファーソンは片手にエンゼルフレンチを携えていた。

「卑怯ね。弱いものいじめ、愉しい?」

「先に侮辱してきやがったのはこのドーナツ野郎だ!俺が結婚するって言ったら生まれてくるのは俺みたいにノッポの元気な子だといいなだと?ふざけるんじゃあねえ!俺がガキの頃からどれだけこの体質でひでえ目にあってきたか知りもしねえで!親のように思ってきた。何でも打ち明けた。それがこのザマだ!だがそんなクソッタレも今じゃあミスタードーナツよ!あっははははは!」

 たぶんジェファーソンは凄く興奮していた。嘲笑を浮かべながらどんどん伸びる脚のせいで頭は天井に達し、通路に不自然な柱となった彼を側から見ると滑稽だった。

「あなたがただの勘違いクソ野郎だったってだけでしょ」

「何だと!もっぺん言ってみろ!」

「あなたがただの勘違いクソ野郎だったってだけでしょ」

 際限はないのだろうか。血は頭に上っているのか脚に流れているのか、ジェファーソンはなおも興奮し続け首を曲げなければ姿勢を維持出来なくなっていた。

「殺してやる!殺してやる!」

「あなたなんかと結婚するお嫁さんが可哀想。本当に。まあ同じ知能指数だからお似合いなのかしらね」

「ウガアアアア!ガッ!」

 伸びに伸び続けた脚のせいでジェファーソンの首は鈍い音を上げた。やがて彼の肉体は萎えていった。

「可哀想な人。腰を曲げればいいものを。ドーナツ化、恐ろしい技術だけどある意味才能があったのに気づけなかったのね」

 私は床に落ちたエンゼルフレンチを拾い上げた。

「キャプテン、大丈夫ですか?」

 エンゼルフレンチは反応しない。

「キャプテン!キャプテン!しっかりして!」

「隊員、私なら大丈夫だよ」

 後ろを振り返るとキャプテンは元の姿で立っていた。セスとチャリティーもいる。

「きっとジェファーソンがドー……キャプテンを奪いにくると思ってね。すり替えておいたんだ」

「ほら!ウイルスも排除したよ。サマンサはどこ!?」

「キャプテン!」

「隊員!」

 私とキャプテンが抱き合った衝撃で胸元で何かが曲がってはいけない方向に曲がる音がした。けれどそんなことはどうだっていい。私は世界からたとえ争いがなくならなくてもキャプテンがいてくれたならそれでいい。私はキャプテンが好きだ。スペースシップの窓には煌めく星々に混じってうっすらと私たちが反射している。私とキャプテン、巨大なチーズバーガーの形をしたキャプテン。

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鳥獣保護区

創作

「ですね。ここは鳥獣保護法に守られた鳥獣保護区でありますから、鳥獣は保護されています」

ダンッ!

「今何か大きな音が」

「大したことじゃありませんよ。なにせ鳥獣保護法によって守られた鳥獣たちのための鳥獣保護区ですよ。鳥獣が銃撃されるわけもなければ鳥獣ポリスが黙っちゃいませんよ」

「や、何も銃声とまでは、この段階では断言できないのもあり一応濁したわけなんですが……鳥獣ポリスとは?」

鳥獣保護法によって守られるこの鳥獣保護区において物理的な観点で違法者から鳥獣を保護する権限が与えられた組織です。多少なり武装も施しておりますので安心してください先生。ここは鳥獣保護に対するセキュリティは万全です。安心して社会見学を実施していただけます」

ダンッ!ダンダンダンッ!お前が悪いんだぞ!

「すみません。確かに四発、それから諍いの様相が」

「先生、何度も申し上げるようですがここは鳥獣保護法によって守られた鳥獣保護区なんですよ。もう少し肩の力を抜いてください」

なんでだ!なんであんな男と!

「……見に行かれたほうが良いのではないですか?」

「いえいえ、それよりもう少し園内をご案内させてください。子供達の好奇心をくすぐる鳥獣達が沢山いますので、特に我々がおすすめさせていただいている保護対象をお見せしたいと思います」

「保護に優劣があるのですか?」

ダンダンダンダンダンッ!

「いえいえ、優劣は全くありませんよ。ただやはりそれぞれ情がありますからね。保護は前提、その中で愛情の度合いに多少の差はありますから」

ダンッ!ダンッ!

「人情の問題があるんじゃないですか?やはり様子を見に行ったほうが」

「やれやれ、仕方ありませんね。あっちはニューギニアヒメテングフルーツコウモリの保護区か……箸本のボケ……」

「箸本?ボケ?」

「いえいえ、では参りましょうか」

 

「あんなクソッたれと!どうして!?どうしてだサユリ!?」

「何やっとんじゃ箸本!」

「麻野部長!これは、こいつがライラックブレステッドローラー担当の新人と浮気して」

「じゃかあしいわーーー!ドグサレゲス(≧∇≦ピーーー)のカス金(^з^ピーーー)!!」

ダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダ!!!

 

「……」

「ふぅ、先生。もう十分おわかりいただいたと思いますが、ここは鳥獣保護法によって守られた鳥獣のための鳥獣保護区なんですよ」

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Strange banana & Monkey’s magic

創作

 祖父はとにかく目新しい電化製品が発売されると年金の大半を注ぎ込んで購入するのが趣味というか癖みたいな感じだった。祖父の自室は彼の玩具箱で踏み場もないのにルンバがあり、ダイソンの掃除機と扇風機があり、電子辞書、ハンドミキサー、スチームアイロン、美顔器、加湿器、除湿器。珍しいものでは胡麻をするための機械や西瓜だけを冷やす機械なども置いてあった。しかし祖父がそれらを使っているところを見たことはなかった。普段の祖父は朝、目が覚めると近所のパン屋に出かけて表のベンチでクリームパンを食べコーヒー牛乳を飲む。そのまま河川敷沿いをしばらく自転車で走った後、昼食をとりに家に戻ってくる。食べたら夕方までぐっすりと眠りにつき、夜はいつも何も食べず、水と錠剤(鮫の軟骨)だけを口にし、再び朝まで就寝した。家電が届く日だけは昼寝を控えて待機していた。僕か、母か、それとも本人が受け取って本人がそれを自室に運んだ。僕も母もほとんど祖父の部屋には入ったことがなく、こうして亡くなった今、その有り様を知ることになった。

 祖父の死因はよくわからなかった。持病の患いはなかったし、いつもの河川敷で倒れているのを発見された時も特に外傷は見当たらず、突然老衰したのではと誰かが言ったがそんなことがあるのだろうかと僕は思った。何しろ寡黙な祖父の背中はその日もいつもと同じように自転車でパン屋の方へ運ばれていったのだ。家族も、それに彼自身さえその身の変化には気付けなかったろうと思った。

 葬儀も終わり何だかんだとひと段落した頃、母と二人で祖父の部屋を片付けるため、秘境とされてきた家の一画に立ち入った。埃っぽいその部屋は近未来の骨董屋という感じがして、もう少し僕も幼ければ目を輝かせたかもしれない。しかし今となっては「汚い」と一言切り捨てた母に概ね同意した。祖父の部屋から無用と思えるものは全て捨てることにした。部屋から二階の祖父の部屋から運び出すのは苦労したが、近所で欲しがる人がいれば勝手に持って言ってくれという旨を記した貼り紙をしておくと忽ち家電の山は消え失せ、祖父には悪いような、しかしながら物は誰かのためになったなら幸いという気持ちだった。ただ、いつまで経ってもその一点だけは引き取り手が現れなかった。

「俺も運び出した時は何だろうなと思ったんだけどさ……何だと思う」

「あたしが分かるわけないでしょ。それだけ箱も説明書も残ってないんだから」

 それだけは祖父も使用したのか開封済みで、けれどどういう方法で使用するものなのかは見当もつかない妙な人形だった。ロボット、という呼び名が相応しいかもしれないその人型の機械にはスイッチやリモコンらしきものもなく、ただ静かに停止したままでいた。形が形だけに気味悪く、母はさっさと捨てたがっていたが、せめて一点くらいは祖父の形見にと、なんの縁だかこうして残った機械を僕が引き取ることにした。それを部屋まで抱えていくときは妙な感じがした。犯罪に手が染むような。祖父とはうって変わって物のない僕の部屋で祖父の形見はその存在感を遺憾なく発揮した。部屋に戻って灯りを点ける度に心臓が縮こまる感覚がした。

 週末に控えた中間試験。前向きに勉強する気など全く起きず、ふと目の前に映った形見のロボットを弄ることにした。にしても表に出すときも部屋に運び戻すときも腰と腕が砕け散るかというくらいに重い機械だった。頭を叩いたりすると硬くて、かえってこちらの手がじんじんとした。かえってこちらの……などとさもそのロボットに生命でも宿っていて、おまけに痛覚の心配までしている自分はなんだか莫迦らしくなった。ただ頭を叩いた反動か、頸の辺りのカバーみたいなものが開いて、カバーの内側にはおもちゃのシールメーカーで作ったと思しきシールが貼られてある。そこには《パスワード:熊田曜子》と記されていた。

「クマダ……ヨーコ?」

 機械は忽ち僕の言葉に呼応し両目を緑色に発光させた。いかにも起動しましたという感触を見せつけるとともに言葉を発した。

「オハコンバンチワ、私ハ《ヨセイ》。アナタノ先ヲ生キ続ケルモノデス」

 僕はただ唖然としながら、このヨセイと名乗るロボットを見つけてから今日までたったの一度も「熊田曜子」を発音していない自分に気づいた。

「なんなんだよお前!」

「ヨセイ、ニツイテ。ヨセイトハ契約ユーザーノ認証ニ基ヅキ、ユーザーガオ亡クナリニナラレタ後ヲユーザートシテ生キルモノデス。ナウローディング、シバシオ待チヲ……」

 ヨセイはそう告げると二十分くらいうんともすんとも言わなくなった。二十分後、ヨセイは祖父の声で喋った。

「久しぶりだな。ムネヲ」

「爺さん……なのか?」

 自分で聞きながらひどく莫迦莫迦しいのだった。なにせ見てくれはまるで祖父ではなかった。しかし声や口調は祖父そのもので、齢を重ねるごとに口数の減った祖父が亡くなる前の一年くらいは一切というほどその声を聞かなかったので懐かしさみたいなものを感じたあまり間抜けな質問が出た。

「そうだ」

 全然違うだろという思いはこの際無視して僕は問うた。

「なんで熊田曜子なんだ?」

「……」

「……」

 都合の悪いことは答えないらしい。よく出来ている。僕は祖父が何を思って暮らしていたかを全然知らなかった。幼い頃にたった一度きり、あの自転車の荷台に乗せてもらいながら河川敷沿いを走ったのが唯一祖父との通いだった。祖父が亡くなったとき、僕の感情は殆んど揺れなかった。ムネヲ、そう呼ばれたのもいつ以来か。僕は祖父のことを知りたいと感じた。今更な思いだが目の前の機械は祖父の余生だというなら僕はこいつと関わることで少しでも祖父との隙間みたいなものを埋められるのではないかと思ったのだ。

 翌日、僕はヨセイに服を着せ、グラサンとマスクをなんとか装着し、祖父のいきつけだったパン屋まで一緒に出かけた。ヨセイは祖父と違い、僕が質問したことには大抵返事をした。それで祖父が昔は国鉄の職員だったことを知り、クリームパンは祖母との思い出の味だと知った。相変わらず熊田曜子については無言を貫いたが、僕は祖父の人間性に興味を膨らませた。

「何やってんだよ爺さん!」

「え?」

「あ、いや、こいつのあだ名で……」

 機械なので当然口に出来ないクリームパンをマスクに擦り付けたヨセイを思わず爺さんと呼んでしまう僕はパン屋のおばさんの前で取り繕った。急いでパン屋を後にするとそのまま河川敷沿いを歩いて昼には帰宅した。

「爺さん、寝るのか?」

「そうだな」

「機械のくせに……」

「ムネヲ」

「なに?」

「ムネヲと話すのは久しぶりやな」

 向こうから話してきたのはそれが二回目だった。起動時と今。

「なんだよ急に」

「いや、久しぶりやなと思ってな」

「わけわからん。だけど俺もなんか爺さんのこと誤解してたわ。俺とか母さんのこと嫌いなんかと思ってた」

 祖父は父方で、僕の父は僕が生まれる前に亡くなったと聞いている。母は実家に帰らず父の家、つまり祖父の暮らしたこの家から離れなかった。その理由は僕も聞かなかったが謂わば他人の祖父と母があまり会話もなく同じ屋根の下で暮らす様は幼ながらに居心地が悪かった。

「ムネヲ、お前の母さんには感謝しとるんや。俺はお前の父さんに似て不器用やからたぶん一人暮らしは無理やった。そういうのを察して面倒見てくれたんやから嫌いなわけないやろ」

 これは本音なのだろうか。そういうのは生きてるときに言えばもっと救われたんじゃないかと思った。

「母さん、もうすぐ帰ってくるからさ。直接言ってやってよ」

「……」

「寝るなよ」

 夜になっても爺さんは起きて来なかった。耳元で「熊田曜子」と囁いても動かなかった。いいタイミングで充電切れか。あいにく充電器は見当たらない。

「母さん、あのさ」

「ちょっと!あんた何泣いてんの!?」

 

 僕の中間試験、結果は散々だった。