モンターグの貸出票

返却期限を過ぎました。

巨匠と薄まな板

 オランウータンの面倒を見だして早三年。私の社会人生活は巨匠と呼ばれるハゲ猿との格闘の日々であった。

「キョショー?」

「最初はキヨシだったんだけどね。なんていうかあの風格だろ?みんな巨匠って呼んでる」

「はあ……」

「大変だと思うけどさ。まあある意味巨匠は新人の登竜門なんだ」

 そう先輩に教わる最中、巨匠は私に食いかけの林檎を投げつけてきた。果汁なのかクソ猿の唾なのかそれは私の顔に糸引いて、キッと睨み付けると巨匠はニヤニヤと笑っていた。その時から私と巨匠の戦いは始まったのである。

 巨匠は全くといって協調性がなく、キヨシだった頃に同じ檻のオランウータン、マサハルを半殺しにしたため園から個別の檻を充てがわれた。不自然な二箇所のオランウータンコーナーに園長は「まあ、そういうのもありでしょう」と気楽なものだった。朝、私の仕事は巨匠の檻を清掃だった。クソ猿はそれに備えてか前夜から糞便を我慢して、私が清掃を終える頃に解き放った。私の殺意は三日目で頂点に達し、朝、檻に入って巨匠の便意が限界に達するまでメンチを切り続けた。今にも破裂しそうな肛門を必死に押さえて呻く猿の歪んだ表情に私は至上の喜びをもって睨みつけた。すると先輩がやって来て「早く仕事にかかれ!」と一喝され、私は畜生めと巨匠に目を戻すと奴の姿はそこになく、しまったと思った矢先に生暖かさがうなじを包んだ。一日中、匂いはとれなかった。

 巨匠の前を通る子供達はふてぶてしい猿に「起きて!こっち向いて!」と声をかける。しかし巨匠は微動だにしない。諦めの悪い子供には「プゥ……」と屁をこいて返事する始末だ。けれどそれは案外子供ウケがよく、巨匠は名物屁こき猿としてエンターテイナー化していた。当の巨匠には自覚がないようなので、私は巨匠に「屁こき猿として笑われてる哀れなオランウータン」であることを教えてやると巨匠は私の胸に手を充てていやらしく撫でると一呼吸置いてから「プゥ……」と情けない音を立てた。憤怒。圧倒的憤怒!このクソ猿は私のコンプレックスにずかずかと踏み込んでビーマイベイベーしたあげくに屁を吹きかけやがった。幼き私が夢見憧れた職業はこんなクソ猿になめられる仕事だったのか。冗談じゃない!私は「このままでは猿を殺ってしまう」と一筆したためた辞表を手に先輩に掛け合った。その日の仕事終わりに居酒屋で散々説教された私はまた翌日も巨匠の檻を二回掃除していた。

 

 あれから三年。最近巨匠の元気がない。私が罵っても屁をこかなくなった。新人の登竜門だった巨匠の面倒を私は自ら先輩に願い出て今もやらさせてもらっている。なあ、キヨシ。私から仕事を奪ってくれるなよ。何回だって掃除してやるからさ。その日はすっかり綺麗な林檎がそのまま寂しく隅に転がっていた。

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墓地のあの人

 通りの向こうに墓地がある。来る日も来る日もあの人はそこにいた。伸びた髪、無精髭。背は高くがっちりとした肩が逞しい。一度も目を合わせたことがなかった。一度も口を聞いたことがなかった。あの人はいつも足下の、誰かきっとあの人の大切な人が眠る場所を見ていた。

 

 わたしが通っていた学校は田舎の小さな学校で、六歳から十八歳までみんな同じ学校に通っていた。クレア、カイン、ライオネル、ミリアルド、マキナ、変わり者のランチェスでさえ誰も仲間はずれにされなかった。わたし達は遊ぶ時はみんな一緒でが鉄則で、一番年上のミリアルドはきっと面白くなかっただろうけど一番年下のマキナにあわせてくれていた。ミリアルドの本心はわからない。彼はいつも笑ってくれていたから。決して自分を前に出さなかったから。だからミリアルドが町を出て飛行士になると言った時、わたしは辛かった。いつまでもみんなのお兄ちゃんでいてくれるはずのミリアルド。それはわたしが描いた幻想でしかなくて、やっぱりミリアルドにもやりたいことがあるのを祝福できるほどわたしは大人ではなかった。町の大通りの真上の空を飛行機が飛んで行った。ミリアルドの輝く目をわたしは切なさをもって見ていた。ミリアルドの体の向こうへと目を逸らしたわたしの視界には墓地とあの人が映っていた。その場にいた子供達ーー無論わたしだってそうだったわけだけれどーーが飛行機に見惚れる中であの人はずっと足下を見つめていた。わたしはあの人のそんな姿にどこかしら自分の面影を見ていた。わたしの切なさはあの人のそれに似ている気がしたのだ。あの人が失った大切な人。わたしがこれから失ってしまうであろう大切な人。わたしはずっとあの人を見ていたけれど、あの人はずっとわたしには気がつかなかった。

 

 日曜日。礼拝を終えたわたしは牧師様にあの人について尋ねた。

「ああ、ベスターさんのことかな?」

「毎日来ていますよね?どなたのお墓まいり?」

「イヨカ。そういうことは他人の口から誰かに話すべきことではない。そう思わないかい?」

「わたし、あの人……そのベスターさんのことが他人事に思えないの」

「イヨカには秘密にしたいことがあるかい?」

 わたしは無意識にミリアルドの顔を浮かべていた。

「ベスターさんにだって秘密にしたいことはきっと一つ二つあるはずさ。それを暴こうとするのはイヨカだって良い気はしないだろう?」

「でも……」

「さあ、そろそろお帰んなさい。お母さんはもう先に戻ってしまったよ」

 わたしは牧師様と別れた後、裏手の墓地にまわって、あの人がいつも立っている場所を探した。日曜の朝、あの人はまだいない。あの人が墓地を訪ねるのはいつも夕方だ。わたしは墓の主の名前を読み上げた。《Mia Autumnleaves》と書かれたその人とベスターさんとの関係はわからない。わたしはただ綺麗な名前だと思った。

 

 ミリアルドが町を出る日。ランチェスを除いてわたし達学舎の仲間は別れ惜しさに皆涙を零した。ランチェスだってきっと悲しかったのだと思う。他の子より少しだけ感情表現が苦手なランチェスのことは皆よく分かっていた。マキナはミリアルドのズボンを必死に抑え付けて逃げないように捕まえている。ミリアルドにしてみれば他愛のない抵抗だ。弱い力でも出来うる限り引き留めていたいとするマキナの想いは他の子も同じだった。 クレア、カイン、ライオネルの同級三人組はミリアルドと二つ違い。流石は少し大人なだけあって寂しさこそあれどミリアルドの成功を祈っていた。わたしは……わたしは……。

「イヨカ?どうした?あまり顔色が良くないみたいだ」

 いっそミリアルドがどうしようもなく悪であればわたしはきっとこんなに痛みを感じたりはしなかっただろう。此の期に及んでわたしの心配などしているミリアルドにわたしは歯痒さを覚える。もう何も残さないでほしい。もう何も与えないでほしい。もう何も奪わないでほしい。わたしはミリアルドから目を逸らしたまま押し黙ってしまった。ミリアルドのお父さんが運転する車が走り出す。ミリアルドは窓から身を乗り出し、わたし達から見えなくなるまで手を振っていた。ランチェスはそうなってはじめて泣きだすのでわたしはランチェスを抱きしめて、わたし自身の正直になれない気持ちを合わせるように共に泣くのだった。

 

 ミリアルドが町を出てからわたし達の関係は少しずつ綻んだ。クレア、カイン、ライオネルは自分達だけで遊びを発明して自分達だけで楽しむようになる。マキナもランチェスも一人で何かができるほどではなかったから仕方なくわたしが二人の面倒を見るようになった。わたしは少しだけ、年長三人組のことを嫌いになった。彼らが身勝手だとかそういうのはどうだっていい。ミリアルドがいないことが彼らの中で当たり前になっていくのが我慢ならなかった。

 わたしはマキナとランチェスを連れて川までやって来た。河原に咲くシロツメクサを摘むためだ。マキナが花冠を欲しがっていたので作ろうと考えた。ランチェスは興味なさげだったけれど一人には出来ないので連れていった。この時、わたしは先生に同行してもらうべきだった。いつもならミリアルドがいてくれたから思いつかなかった。わたしはミリアルドほど気配りが出来なかった。マキナと夢中で花を摘む間、ランチェスが川の中へ入っていったのを見逃した。気づいた時にはランチェスの姿が見つからず、大人達がやっとの思いで探し当てたランチェスはもう息をしなかった。

 ランチェスの葬儀の日は雨だった。全てを洗い流してはくれないかと願った。クレアもカインもライオネルも両親も他の大人もランチェスのお父さんやお母さんだって誰もわたしを責めなかった。けれどわたしは自責の念に耐えられずランチェスの墓前から逃げ出してしまった。わたしは下を向いたまま雨の中を走った。向かいから来る人影に気がつかずそのまま衝突して後ろに転んだ。黒のワンピースが泥だらけになってわたしは泣いた。差し伸べられた手は大きくて、握り返すと温かった。あの人とはじめて目が合った。大柄のその人はわたしを一瞬怯ませたけれど、その目の奥に見えた柔和さがわたしを安心させた。

「大丈夫かい?」

「ベスターさん、ですよね?」

「どうして僕の名を?」

「牧師様に聞きました。わたし……わたしは……」

 悲しさはいつしか嗚咽になってわたしの中からはみ出した。見ず知らずのわたしをベスターさんはただ黙って何も聞かずに抱きしめてくれた。道端に落ちた傘の代わりにわたしを雨から守ってくれていた。

 

 ランチェスが亡くなってからわたしは周囲に壁を作ってしまった。誰とも話さず誰にも自分を見せなくなった。マキナもクレア達に懐いて、いよいよわたしは一人だった。一人になったわたしにベスターさんだけは話し相手になってくれた。ベスターさんにだけは自分の話をした。といってもわたし自身孤独の中でこれといった出来事もなく、半ば妄想のような語りだったと思う。それでもベスターさんはわたしの相手をしてくれていた。わたしはベスターさんのことが知りたかった。ベスターさんはこの町の人ではない。なのに何故こうして毎日墓地を訪ねてやって来るのだろうか。

「ミアさんってベスターさんにとってどんな人だったの?」

 いつも穏やかなベスターさんの表情が一瞬曇った気がした。やはり気に触る部分なんだろうか。それでもわたしは聞かずにはいられなかった。もうわたしにはベスターさんしかいなかったから。もしベスターさんがこのことでわたしを拒絶したならわたしにはもう何も残らない。だからわたしには賭けだった。

「ミアも僕もここから随分と遠くの町で生まれた。そこもここと同じくらい小さな町で、よく似ていた。山があって川が流れていて、春になれば山女魚がよく釣れた。ミアは幼い頃から優秀で勉強がよく出来た。僕の知らない花の名前を知っていて、たくさんの言葉を知っていた。子供達は皆ミアに憧れたんだ。そのまま僕らは大人になった。大人になったミアも皆の憧れだった。僕は当然のように彼女に恋をした。ただの友達から一人の女性として彼女を見ていた。それは僕だけじゃない。同じ年頃の男友達はほとんどそんな感じだったんだ。その中でミアが選んだのは僕じゃなかった。ユヴァルっていってね、とてもいい奴だった。あいつなら仕方ないと僕も他の連中も諦めがつくほどにね。ユヴァルとミアを傍目で見ているのは正直辛かったけれど、僕はミアの幸せを祈っていた。ずっと幸せであってくれたなら僕はそれでよかった。そんな時だった。あたりで大きな戦争が起こったのは。町の男手はみんな駆り出された。僕もユヴァルも。戦争は長く続いた。振り返ってみれば三年くらいが僕らには永遠のように気が遠く感じられた。ようやく終わった時には皆ぼろぼろだった。けれど僕も、それにユヴァルだってなんとか生き残れたんだ。ユヴァルを出迎えたミアの嬉しそうな顔を見た時、それが僕のためだったらどんなによかったろうかなんて思っていた。その時は戦争ってやつの本当の恐ろしさに僕らは気づいていなかったんだ。ユヴァルの様子がおかしくなり始めたのはそれからすぐだった。ミアの綺麗な顔に痣が浮かんでいるのに気づいた時、僕は彼女を問い詰めた。誰にやられたんだってね。ミアは何も言わなかった。僕は気づいていた。隣町で仲間と飲み耽っていたユヴァルのもとへ向かっていた。僕はユヴァルの胸ぐらを掴んで、ミアにしたことを謝れと言った。あいつはヘラヘラしながら、僕にミアをくれてやると言った。その時僕の中で糸が切れた。何も聞こえない暗闇の中で僕はミアの姿を探していた。微かな光が差し込んで、その先に彼女がいるのだと思った。そこに辿り着いた時、目の前に広がったのは血だらけで倒れていたユヴァルと僕の血にまみれた拳だった。ユヴァルは一滴も酒の飲めない奴だった。あの目も背けたくなる惨状からユヴァルを救ったのが酒だった。だがそれはかつてのユヴァルをも奪っていった。僕はもっと酷い。人を殺めることに躊躇をなくしてしまっていた。僕は自分が恐ろしくなった。刑期を終えると僕は町を出た。しばらくして昔の知り合いが訪ねてきた。ミアがユヴァルの後を追ったと聞いた。彼女の両親はミアにとって悲しみを帯びた町からミアを遠ざけたかったのかもしれない。もう僕を許してくれる人は誰もいないんだ。許されたいとも思わない。どこで間違ったのか今でも時々考えるんだ。答えは出なくて、僕はただ自分が死ぬまでミアとユヴァルに謝り続けるしかないんだ。僕にできるのはそれだけだから」

 わたしは言葉を返せなかった。後悔がなかったと言えば嘘になる。ベスターさんの過去を知って、それでもどこかわたしと似ていると感じる自分の心を恥じた。わたしはどうにかしてこの大きな友人を救ってあげたかった。けれどわたしには言葉一つ投げかけるさえできなかった。ベスターさんはわたしの涙をぬぐって何かを訴えるような目で微笑んでいた。町にはあらたに草花が芽吹き始めて、少しばかり冷たい風が吹き抜けるとそこは穏やかな陽の光に照らされて、何とはなく全てのものを祝福していた。

 

 わたしはランチェスのお墓に花を添える。目を閉じて彼の幸福を祈った。再び立ち上がり振り返る。クレアが手招きしてくれていた。今日は久しぶりにミリアルドが帰ってくるのだ。わたしはうまく笑えるだろうか。わたしは笑顔でミリアルドを迎えて良いのだろうか。未だにわたし自身を許しきれていない自分がいる。

「何してんだよイヨカ!早く来いよ!」

 ライオネルがわたしを急かす。

「すぐ行く!」

 

 通りの向こうに墓地がある。あの人は今日もそこにいた。短く切り揃えられた枯れ草色の髪が陽の光で輝くその人のことを、わたしは少しだけ知っていた。

 

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放たれざる生

 私には花粉症の人間の気持ちがわからなかった。私は花粉症ではなかったから。この時期はスギがすごいらしい。けれどスギに悩む人間も、人間悩ませのスギ花粉の気持ちも私にはわからなかったのである。

 早朝。私はたまたま通りかかった山道で、一匹の猿が飛び出てくるのに気がついて急ブレーキを踏んだ。それでも止まれずハンドルを切った先が崖のガードレールで、そのまま突っ込んだ私の車はフロントがぐしゃぐしゃになり、生きているのが奇跡だと思える様だった。私はなんとか車体から這い出ると、目の合う猿が鼻を垂らしていた。私は額から血を流し、猿は鼻から水を垂らしていた。垂らし者同士の縁とでも言おうか、私は左ポケットからハンカチを取り出し額をおさえ、右ポケットから取り出したティッシュを猿にくれてやった。猿は一瞬私が投げたティッシュに怯んで後ろに飛び退くと、鼻水だけは慣性の法則に従ってびーんと糸を引いた。鼻垂れ猿はおそるおそるティッシュを触ったり嗅いだりしながら、鼻詰まりを忘れて無臭のそれを安全だと判断すると器用に鼻をかんでみせたのである。

 私はいつだか河川敷で狸が歯を磨いていたのを思い出した。どこで拾ったのか歯ブラシを使ってせっせと歯を磨いていたのである。私はそのことを友人たちに話すことで友人と呼べる者を失った。あれ以来、人付き合いがうまくいかず、緑のたぬきを食べれなくなった。

 私の出血は思ったよりひどく、ハンカチはもはや血を吸えないほどに真っ赤に染まっていた。薄れゆく意識の中で私は鼻かみ猿のことを墓場まで持っていく決心を固めた。叶うことならもう少し生きて、狸が歯を磨き、猿が鼻をかむのが当たり前の時代を過ごしてみたかった。その時私を見放した友人たちにほれみたことかと見返してやりたかった。私は気づくと悔し涙をぼろぼろ流していた。命が惜しいのではない。私は嘘つき呼ばわりされたまま、それをトラウマに引きずって死んでいくのが虚しかった。あと緑のたぬきをもう一度だけ食べたかった。そんな私を哀れんでか鼻垂れ猿は私に近づいて私の血だらけの顔にそっと触れた。ベトベトの鼻水とティッシュのカスにまみれた汚い小さな手は温かく、私は「なんだこれ? めっちゃあったけえ……」と呟いていた。私の死因かもしれないその鼻垂れ猿を私は恨めなかった。猿肌の温もりに包まれて私はそのまま意識を失った。

 

 目が醒めるとベッドの上だった。医者が言った。私の額にはティッシュが押し当てられてあり、それが生死の分け目だったと。第一発見者のハイカーの夫婦は血まみれの私に気が動転してしまい応急処置どころではなかったという。ならば私を救ったのは……。そんなことを考えていると思い切りくしゃみが出た。私は鼻を垂らした。山で大量の花粉を吸い込んだ私はついぞ花粉症となった。私はあの鼻垂れ猿を思い出して彼の功績をそっと胸にしまった。花粉症の人間数あれど、それら万別の生である。あの鼻垂れ猿は私にもそんな特別があるのだと教えてくれていた。

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春になったら

  私の祖父は腹話術師だった。町内の幼稚園なんかに呼ばれたりしてそれを披露した。私もまだ園児だった頃、祖父の腹話術を園で見ることがあった。私はひょうきんな演技で子供達を笑わせる祖父が誇らしくもあり恥ずかしくもあるという自我の芽生えの最中で、家に帰ると何だか祖父に対してよそよそしく接していたように思う。

 祖父が寝たきりになってからというもののすっかり静かになってしまった相棒の人形。彼はジョナサンといってなぜか外国人だった。私はジョナサンの目つきが幼い頃から怖くて近寄りがたかった。けれど一度祖父が魂を吹き込むとジョナサンはまるで別人で、その時のジョナサンだけは私も愛することが出来たのである。ジョナサンは園児に愛されていた。次はいつ来るのか?祖父は子供にまとわりつかれて次回を期待されていた。私は家に帰ればいつも祖父とジョナサンがいて、それは他の子供達に対しての自慢でもあった。

 祖父は一度だけ私のためにジョナサンに魂を吹き込んでくれた。私がジョナサンを怖れて泣くあまりに、そうではないよと優しく教えようとしたのである。この時、祖父は少しひねりを利かせた。ジョナサンが祖父の声で、祖父はジョナサンの声で話し始めたのである。幼い私はそれが不可思議で最初は驚きの眼差しが、どこかで寂しさを募らせて、何だか祖父が遠くへ行ってしまったような気持ちから余計に泣きじゃくってしまったのだ。祖父は慌てて私を抱きしめると「どこにもいかないよ」と祖父の声で私に言った。

 祖父はどこにも行けなくなってしまった。持病から足を悪くしてしまい歩くのもままならず、それは彼から気力を奪い去り、いつしか私のことも思い出せなくなっていた。祖父の声は久しく聞いていない。何人もの声色を使い分けた子供達のスーパースターは今やおとなしい一人の老人だった。当時の私の同級生で彼のことを覚えている者が何人いるだろう。たとえ思い出しても過去の人。そんな人がいたのだと誰かに語って聞かせるのが関の山だろう。誰も腹話術師の行く末など想像したりしない。けれど私は違う。今なおその腹話術師が目の前のベッドに横たわって、かつての栄光を剥ぎ取られた寂しげな姿で存在しているのだ。同様にジョナサンも瞼を閉じたまま、捨てるに捨てられず行き場だけを失った幽霊のように部屋の片隅で揺蕩うのだった。

 私は祖父のベッドの隣で文庫本を開いた。とても静かなその部屋はひどく落ち着いた。かつては怖れた人形の眼差し。それも私は克服して落ち着きのひとつの要素としていた。私はこの部屋で園児だった。最後の最後の一人になっても祖父の腹話術を期待している園児だった。私は帰ってきてほしかった。祖父は紛れもなくまだ私の祖父だったけれど、あの頃の華やかな私の自慢のおじいちゃんに帰ってきてほしかった。私は文庫本を閉じると、出来心からジョナサンを太ももに乗せた。口を閉じながら祖父がやってみせたようにジョナサンの言葉を吐いてみる。どうも口もとがまごついて上手く言葉にならない。私は下手だねとジョナサンに言ってみたりして、ジョナサンは拙い言葉でそれを否定した。ふと祖父の顔を見遣ると彼は穏やかな笑みを浮かべていた。どこにもいかないよ、そう言ってくれたあの時の祖父の顔だった。私はジョナサンの言葉で嬉しさを吐き出した。それが途中からよく分からなくなって結局自分の言葉で感謝や寂しさを、祖父への想いをすべて告げていた私は泣いていた。それが落ち着くと祖父は音になるかならないかの弱々しい手つきで拍手した。

 

 子供達は笑顔で私にすがりついて「次はいつ来るの?」と聞いてくる。私は「春になったらね」と答える。それまでにはもう少し上手くなっていたい。

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トスィーエと待つ

 私は帰りを待っていた。あの人の帰りを。だけれどあの人は帰らなかった。今のところは。そう思えど「帰らなかった」と過去形の過ぎ去りし日々は私にもう希望を持たせないように一匹の犬を置いていった。名前はトスィーエ。変な名前だがあの人がつけた名前だからこの犬はトスィーエと呼ぶことにした。トスィーエはあの人に似ていた。犬に似た人、あの人に似た犬。私はそうやって拠り所を作った。本当はあの人もトスィーエも似ているところなんてなかった。犬と人が似るところなんて何もなかったのだ。トスィーエは一言だってあの人と同じ台詞を吐いたことはなかったし、あの人は鼻の頭を濡らしたりしなかった。それでもトスィーエを見ているとあの人が帰ってくると信じたくなる。トスィーエを見ているとあの人がそこにいる気がする。トスィーエがあの人を想起させるから私はトスィーエを愛せなかった。

 隣人の子供がトスィーエを可愛がってくれていた。私がトスィーエを愛せない分、少年はトスィーエに愛を教えてくれていた。動物は正直だ。トスィーエは少年に懐いた。私はそれがあの人と重なって、怒りの矛先をトスィーエに向けてしまう。どんどんとトスィーエは私の家族ではなくなった。私は飼主の責任を放棄してトスィーエを隣人の家族に譲った。その日からは一人であの人の帰りを待った。トスィーエのいない部屋は静かで広かった。トスィーエのいない部屋には私しかいなかった。あの人は帰らなかった。

 私は頭を下げるために隣家へ向かった。少年は駄々をこねた。すっかり隣人のトスィーエだったからトスィーエ自身もひどく吠えた。少年の母親が彼をなだめてくれてトスィーエは我が家に帰ってきた。

 近くの大型食料品店でトスィーエのために買ったドッグフード。有名なブランドのもので値段もそれなりにした。けれどトスィーエはそれを全く口にしなかった。トスィーエは意地を張っているのだと思った。身勝手な飼主に好きなように振り回されて怒っているのだと。しかし私にはトスィーエの愛し方がわからなかった。少年にはいとも簡単に懐いた犬は私にはまるで愛想がなかった。それでも同じ轍は踏むまいと私なりに試行錯誤を繰り返したがトスィーエの気は私には向かなかった。

 そんな日々を過ごす中で、ある日我が家に尋ね人。私はあの人ではないかと期待していた。ドアを開けると隣人の少年だった。少年は怪訝な顔つきで私を睨んでいた。挨拶もなしに少年は私の家にあがり込んでトスィーエを見つけるとその顔を撫でた。放ったらかしのままのドッグフードのパッケージに目をやると少年は私に告げた。

「お姉さん、サミュエルはあんなの食べないよ」

「サミュエル?」

「この子の名前」

「違うわ。この犬は……」

 私はトスィーエの名前を呼ぼうとして気がついた。私は一度だってトスィーエをトスィーエと呼んだことがないことに。少年はトスィーエをサミュエルと呼び「この子」と呼んだ。私にはトスィーエは「この犬」だった。少年がポケットからキャットフードを取り出すとトスィーエは心なしか目を輝かせてそれを口にした。肉の味を、噛み応えを覚えた犬。そんなことも知らない私は置き去りにされたことにも気づかず、ずっと振り向いてくれるのを待っていた。やはり私にはトスィーエの飼主たる資格はないのかもしれないと思った。

「お姉さん、また来ていい?」

「え?」

「またサミュエルを触りに来てもいい?」

 少年は少年なりに自らの分を弁えていた。それでも何とかして希望を叶えたいと私に願ったのだ。それと同時に少年は私を許していた。呆れや諦めと言えたかもしれないが私はそれを許しだと思うことにした。私は少年に言った。

「もちろん」

 

 私は帰りを待っていた。チャイムが鳴る。トスィーエはそそくさと玄関口へ走り出す。ドアの向こうには学校帰りの少年。嬉しそうな犬に嫉妬してしまう。けれどそれも一瞬の感情だ。少年の嬉しそうな顔を見るとかき消されてしまう程度のつまらない感情。

「紅茶でいい?」

「ありがとう、お姉さん」

「どういたしまして」

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ジョン・コナーの初恋

 従姉妹のシュワちゃんが結婚する。シュワちゃんとは年も六つ違いで、俺からしたら大人のお姉さんという印象があった。それでも実家同士が近所だったので子供の頃は一緒になって遊んでいたこともある。水鉄砲を撃ちながら屈託のない笑顔をしていたシュワちゃんを俺は今でも覚えていた。

 上京が決まり実家で荷物をまとめていたところにシュワちゃんが訪ねてきて「寂しかなるね」と俺に言った。俺は「シュワちゃんもたまには遊びに来んと?」と誘ってみた。シュワちゃんはニコッと笑って、その時は案内よろしくみたいなことを言った。俺はこの時、シュワちゃんが近くにいない生活を想像して、引越しも終わらないうちからホームシックを感じていた。兄弟のいなかった俺にとって、シュワちゃんは実の姉のような立ち位置にいて、でも家族とはまた違った距離感があって、つまり俺はシュワちゃんが好きだった。

 どうにもならない、ということを何時間も考えて悶々としながら過ごした時期を越えて、すっかりシュワちゃんの影がちらつかない生活も当たり前になってきた今日この頃、俺はシュワちゃんの結婚式に参加する。民子姉ちゃんがターミネーターになって最終的にシュワちゃんになった。今考えるとバカバカしくてかえって可笑しくなるけれど、シュワちゃんはやっぱりシュワちゃんだった。控え室に案内してもらった俺は花嫁姿のシュワちゃんをみてちょっと悔しくなった。

「たっくん、おかえり」

「あいるびーばっく」

「なに言いおっと?もう帰っちるじゃなか」

 シュワちゃんは笑った。確かにそうだ。だけど俺が言いたかったのはそういう意味合いにおいてではなくて、でもそんなことどうでもいいくらいにシュワちゃんの笑顔が、あの水鉄砲振り回してた頃、初恋の俺が見たそれとおんなじだった。

 

 

loss an angel

「わたしここでドロンします、シュシュシュ」

 そう言って長澤まさみは僕らの前から姿を消した。あれから幾年もの時が過ぎて、その間に様々な出来事が起きた。山は噴火を繰り返し、雷鳴は延々轟いて、暴風勢い鳴り止まず、大地はひび割れ邪神は復活を遂げた。それでも僕の気がかりは長澤まさみロスに尽きた。彼女はどうしてドロンしてしまったのか。僕は飲み会の最中、この時が永遠に続くことを願った。だってあの長澤まさみだぜ。僕はただその場にいられるだけで幸せだった。しかし一抹の我欲を覗かせてワンチャンアオォーンンを期待したのがよくなかったのか長澤まさみはドロンしてしまった。あの時、僕がもっと必死に引き止めていたなら、世界はこんなにも荒廃しなかったのではないか。そんな後悔が尽きなかった。人類は邪神一派の奴隷として来る日も来る日も奴らの棲まう城の外壁にサンリオのキャラクターの似顔絵を描かさせれた。各々担当が決まっていて僕は「ハンギョドン」ブロックの班長になっていた。先日「バッドばつ丸」ブロックの一人がばつ丸の絵を描かなくてはならないのに途中で精神かゲシュタルトが崩壊を起こし伊集院パンダバを描き始めてしまった。邪神はその辺律儀でばつ丸の発注に対して伊集院パンダバを描くとは何事かとし、ばつ丸ブロックのそいつは紫の雷に打たれて髪の毛ひとつ残されなかった。僕たちハンギョドンブロックも作業を途中で中断し、みんなで伊集院パンダバの絵を拭き落とす作業を手伝った。

「班長!俺もう嫌です!なんでこんなこと続けなきゃならないんだ!実家に帰って井村屋のあずきバーが食いてえ!助けてください!誰か!助けてくださいぃ!」

 同班の後輩が荒廃した大地の中心で愛を叫んだ。よく分かる。それは人類の総意だ。しかし僕には彼を救ってやれない。

「実家なんて、もうねえだろ」

「……助けてください!誰か助けてくださいぃ!」

 黙れ小僧!それ以上僕に森山未來×長澤まさみのインスピレーションを与えるんじゃねえ!僕は長澤まさみロスを意識してしまった。そうだ。このくだらない終末世界に長澤まさみはいない。ドロンしたから。なんでドロンしちまったんだよ!どうして!どうして……

 僕は伊集院パンダバを消していた雑巾で涙を拭った。頬に塗料が付着する。でも良かったんだ。こんなクソみたいな世界で長澤まさみはその不幸を知らない。僕は長澤まさみがどこかで幸せならそれで構わない。いくらだってハンギョドンを描いてやる。いくらだって。いくらだって。

 

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