モンターグの貸出票

返却期限を過ぎました。

優等生

病的になったり、思い出して悲しみにくれたりしないでいても、人生に悲しいものがあるということを告白しなければなりません。それがなんであるかは申しあげることはむずかしいのです。

(マンスフィールド「カナリヤ」)

  

 中瀬秋は図書室で封筒に入った一枚の便箋を見つけた。それは秋が手に取った一冊の本に挟まれていた。眼鏡をかけ髭を蓄えた老人の顔写真が表紙のその本の真ん中の頁あたりに挟まれていた封筒を秋は好奇心から開封してしまう。読んでしまった今、それは後悔になった。それを書き記した主が誰かは分からなかった。封筒にも便箋にも名は連ねられてはいなかったので。ただ綺麗な字であった。それでいてワープロで記したような無機質さのない温かみのある手書きの字であった。ゆえに手紙の内容がまさしく遺書であることが秋にはいたたまれなく思えた。既に夕暮れた校舎の窓には夕陽が差して物哀しさを助長する。秋は便箋を内ポケットへ隠すように忍ばせると本を棚へと戻して図書室を出た。

 秋は自室の机で再び遺書を開いた。あまりに短い文章に書き手の人生が集約されていた。憂いの言葉はない。寧ろどれだけ素晴らしい生き様であったか、そしてそれが周囲の人に救われる形で齎されていたかということが記されている。それでもこれを紡いだ筆者は死を選ぶ。秋にはどうにも理解し難い感覚であった。果たしてどのような人物だったのか。秋は遺書の主を想像した。字が表す人物像は清廉な女性を思わせた。自分が男子であることが余計にそう思わせた。

 秋は考えた。果たしてこの遺書の主は決意のままにこの世を去ったのか。それとも今もどこかでそれを躊躇いながら生きているのだろうか。どちらにせよ手がかりはこの遺書以外になく、秋の推理は途方に暮れた。

 

「ちょっと!中瀬ってば!」

「……」

「もしもーし!シカトすか!?」

「……あ、美作さん。どうかした?」

「どうかした?じゃないわよ!あんたが言ったんでしょう?銀島先生から頼まれてる新入生オリエンテーションに向けての資料整理!暇だから手伝うって!」

「あ、そうだったね。ごめん」

「何?なんか上の空なんですけど」

「いや、なんでもないよ」

「ならいいけど。しっかりしてよね!」

 秋は考えていた。遺書の主は目の前の美作キミカのような女性とはかけ離れた人物なのだと。最初は同じ年頃かとも思ったが何かの偶然で図書室の本にそれが挟まれていただけで、実は学校関係者とかではない大人びた女性ではないかと。遺書の主は文章の中で自分がこの学校の生徒であるとは明言していない。ならばその人はいったいどこの誰なのかを考えると何も手がつかなくなっていた。美作キミカに何度も注意されながら資料整理を終える頃にはすっかり陽も落ちて辺りは暗く、街灯が帰り途を照らしていた。

「中瀬、あんたのせいですっかり遅くなっちゃったよ」

「すまん」

「素っ気な」

「ごめん」

「あんたさ、何か悩んでんの?」

 秋は思った。自分と遺書の主にだけ共有されている秘密を美作キミカに打ち明けるべきだろうかと。確証はなくとも死を自らに付随させているような今の状態が少しずつ心苦しくなっていた。何か背徳の思いがあり、それに自らも飲み込まれてしまいそうな予感が秋には重荷に感じられた。

「あのさ」

「何よ?」

「……いや、なんでもない」

「……」

 美作キミカの溜息はまだ少し肌寒い夜の空気に色こそ着けはしなかったものの、生者のそれとして溶け出すと、やがて何事もなかったように混ざって消えた。

 

 中瀬秋は出来るだけ高い場所を目指した。それは港と埋め立ての人工島を繋ぐ巨大な橋の丁度真ん中あたり。秋は真下の海を見つめた。背後では車の往来が続いて、時折大型のトラックがけたたましいエンジン音と共に風圧を起こして、その勢いに飛ばされそうになるあの遺書を秋はしっかりと握りしめていた。か細い声で、けれど言葉として、秋は今一度遺書の中身を読み上げた。走行音に邪魔されて殆ど誰にも聞こえなかった音読は最後の一行を言い終えると役目を果たしたかのように秋の手から離れ宙を舞った。しまったと思いはしたが、次の瞬間には後悔はなかった。秋は呪縛から解き放たれる思いで体が軽くなるのを感じた。風に撒かれて小さくなる一枚の紙は徐々に海の方へと吸い込まれ、秋の視力では視認できないほどのところまで飛んでいってしまった。街へ引き返すため自転車のスタンドを上げる。一度だけ海の方に視線を戻した。ずれた眼鏡を整えたところでそれはやはりもう見えなかった。

 

 

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でんせつの剣

 私がそこに到着した時には真壁琴美が地面に突き刺さった、おそらく剣のようなものの前で立っていた。私の自転車がたてたブレーキ音と地面とタイヤの擦れる音に気がついた真壁はこちらに振り返るなりこう言った。

「でんせつの剣になります」

「真壁、よく考えよう。この時代にでんせつの剣は要らない」

「あれば引き抜くのが勇者。そう思わんかブリュセルヴァリシュよ」

「私はブリュセルヴァリシュではない。美作キミカその人です」

「おまえがミマサカでもブリュセルでもそんなことはどっちだっていい。これがでんせつの剣である以上、そして私の中に流るる竜の血がそれを引き抜けと……そう言うんだな」

「真壁、おまえには父達雄、母絹江の血が流れているだけだ。達雄がせめて辰雄だったらな……」

「キミカ!能書きはもういい!とりあえずこいつを引き抜くのを手伝いなさい!」

 おまえがな、そう思いながらも私はでんせつの剣らしきもののグリップ部分を両手で握り締め、引力に逆らう形で全ての力を解放した。迸る汗は春先ながら夏の始まりを予感させる。

「無理だ」

「待て!諦めるのはまだ早い!ネバーロボコップ!」

「いや、無理だ。かたすぎる。錆びたジャム瓶の蓋くらいのかたさだ。朝食はバターでいこう」

「バキャヤロー!こんなチャンスめったんないぜ!でんせつの……剣!」

 私は真壁の真剣な表情を前にこいつを嫌いになれないなと思った。でんせつの剣を諦めさせる方法を考える方が引き抜くことより一万光年速くとも、私は真壁の想いと共にありたいと感じるのだった。

「わかった。あいつに頼んでみる」

 私たちは待った。その間に真壁が近くのコンビニで買ってきてくれたモナ王を二人で分け合った。ひとつだったモナ王はちょうど半分のところで袂を別つと中から少し黄味がかった白い顔を見せて私たちを誘惑した。春に合わせて下ろした黄緑のカーディガンを脱ぎ捨てて剥き出しになった私の二の腕あたりにカメムシが張り付いた。

「うわ!くっせ!う、うわー!キミカくっせ!」

「ちょ!取って!勇者!勇者とれよ!」

「鎮まれ!」

 私たちがカメムシで騒いでいる最中に喜多森市子は登場した。

 「ちゃあ。琴美もキミちゃんも久しぶり」

 そう言ったのは市子の兄、玲司である。

「で、こやつがでんせつの剣とな。なるほど、面白い!兄者、やっちゃってくれ!」

 市子の号令に従って玲司はでんせつの剣のグリップ部分を両手で握り締めて、引力に逆らう形で全ての力を解放した。玲司の整った顔立ちがピカソ分析的キュビスム時代の如く分解され始めるも、でんせつの剣はピクリともしなかった。

「無理や」

「男手でもダメか……」

「出席番号五番!喜多森市子、いい案がありまあす!」

「よし、喜多森言ってみろ」

「とりあえずスーパー銭湯で汗流そうぜ!」

 市子のサム(親指)の先に「ほのぼのの湯」という大きな看板が見えた。

 

 私たちが風呂から上がると玲司はマッサージチェアーに揉まれながら漫画『孔雀王』に読み耽っていた。

「お、女湯はいい塩梅でしたか?おっせえから八百円も使っちまったや」

 十分百円のマッサージチェアーの表示に私たちは一時間以上も風呂に浸かっていたのかと自覚した。

「真壁、もういいよね?」

「何が?」

「でんせつの剣」

「うん……もういいかな」

 

 これがあと十年してアラサーになった私たちはでんせつの剣について語り合うのだろうか。なんだったんだろうね?かたかったねー、とか何とか言ってる私たちの誰かは結婚しちゃったりして子供までいたりしちゃうんだろうか。何もわからないけれど私たちは今この十代を生きていて、その先を想像してみたりする。いつかは過去になるその全ての中にでんせつの剣を引き抜こうとした今日が刻まれていた。

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シールの世界

 シールが好きです。幼き日より壁にシールを貼りまくって叱られていた私はその情熱を静かに、しかし絶やすことなく灯し続けてまいりました。

 私が小学校低学年の頃、級友の間ではシールの交換が流行していました。各々シール帳なるコレクションノートのようなものを持っており、各自持ち寄ったシールを交換するのです。

「わあ!○○ちゃんのケーキのシールんんぎゃわ愛いい!あたしの椎茸のシールと交換しお!」

「なんで椎茸やねん!」

といった具合にシールを制すもの校内を制すみたいな文化が根付いていたのです。私はシールが好きでしたがシール帳は持っていませんでした。どこかそのシール交換という事象を斜に構えて眺めていた気がします。なぜなら交換されるシールとは謂わばそれを媒介としたコミニュケーションツールであってシール自体への愛は交換されたその刹那より消失している気がしてなりませんでした。んんぎゃわ愛いいケーキのシールもなんでやねん椎茸のシールも一度シール帳に収まってしまえばコレクションの一つとして埋もれ、いつか再び交換されるまで日の目を見ないと。このようなものはいずれ興味の消失とともに捨て去られる運命を避けることが出来ないのだろうと。

 今考えれば嫌な子供でした。素直さに欠ける点は今でも残っている気がします。ですが、それでも私はやはりシールは貼られてなんぼではないかと言いたい!貼られてなんぼではないかと!シール帳に貼るというのではなく!何か自分の持っている物のワンポイントとして貼ったらんかいと!

 ここで一つ、シールが危機を救った話をしましょう。私は田舎の出身で、我々の十代といえばろくなものではなかったように思います(それでも楽しかったと胸を張る)。地元の不良に絡まれた友人達は先ず携帯電話の電池カバーを剥がれました。そこに彼女とのプリクラ(プリント倶楽部ってやつですね)なんて貼ってた日には制裁みたいな具合に理不尽な世界でした。その中の一人はプリクラこそ貼ってはいなかったのですがとあるシールを貼っていました。

「お前……なんで上戸彩のシール貼ってんねん?」

「ぼ、僕の彼女です……」

「お前なんやねん!おもろい!免除!」

 倫理を語れば許されるもへったくれもない罪なき友人達なわけですが場を掌握している不良少年が絶対の中、一筋の光明は上戸彩でした。それを僕の彼女と言った彼の胆力が理不尽な暴力を制した瞬間でありました。私は他人事のように笑いながらも、シールの持つ力に妙な感動すら覚えたと記憶します。

 

 ともあれ、シールが好きな私は当時当時の他の興味にそれを貼り付けてやることでシール欲を満たしてきました。

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 学生時代に買ったギター(愛称:風呂のタイルダンディ)にもロフトかヴィレバンで買ったペンギンのステッカーに雑誌のオマケでついていたホグロフスのシールをくっつけて貼っています。昔はもっとベタベタ貼ったり落書きもしてましたが今はこれだけ。

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 プライバシーとしてのブックカバーが逆に恥ずかしみを帯びていく具合にシールの貼り場と化しています。

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あとどうでもいいけど実家のミルタンク

 

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新しい朝

新しい朝が来た 希望の朝だ
喜びに胸を開け 大空あおげ
ラジオの声に 健やかな胸を
この香る風に 開けよ
それ 一 二 三

(「ラジオ体操の歌」)

 

 昨晩から妹が私の部屋に転がり込んで来ていた。妹は旦那と喧嘩したらしく、家出して私にしばらく泊めてほしいと言った。私はマンションに一人暮らしで、それにしては広い部屋だったから妹ひとり泊めてやるくらいはどうということはない。けれど私達は幼い頃から仲良し姉妹というわけでもなく、一言目は「なんで?」それに対して妹も「関係ないでしょ」そのままなし崩しに私は妹を泊めることになった。私はその夜、妹の愚痴を聞かされる。その日の朝ごはんは旦那の当番だったらしいのだが、食卓に納豆とバナナが並んだことにひどく怒っていた。私はわりと無頓着なので何方かと言えば妹の旦那の肩をもってやらないでもなかったが、少し大人になった私は妹の話を黙って聞いた。

 納豆とバナナは引き鉄。妹の話を聞いていくうちにそう思った。それまでに溜まっていたストレスがはち切れた。主な理由はそんなところだ。旦那の母親、つまりは姑からご世継ぎ問題でだいぶ圧がかかっていたらしい。いつになったら孫に会えるのか、そんなことを遠回しに言われるという。私たちの親はその辺うるさくない。孫どころか結婚すら気にならないらしく、おかげで私は未だに独身でいる。だから妹の悩みも正直なところよくわからない。たしかに日々そのような小言がまとわりつくのは私だって真っ平御免だが当事者ではないから苦痛は分かり得ない。妹が一通り文句を言い終えた様子のところで私は「バナナ納豆くらい許してやれよ」と言った。妹は再び眉を吊り上げて「お姉ちゃんは何も分かってない!昔からいっつもそう!」と涙ぐんだ。

 たしかに私は妹の悩みがわからない。けれど昔とは何の話だ。私は妙なところで引っかかった。なら既に旦那がいる妹に独身の私の気持ちが分かるというのだろうか。はてさて悩みなどとは人それぞれの抱えたその人の業のようなものではないのか。私は妹こそ身勝手に思えてくると、些か冷静さを欠いて言い放った。

「あんたが幼稚なだけでしょが」

 妹は私のこめかみを凄まじい握力で抑え込んできた。私とてふざけるなと妹の頬に思いきり張り手をくれてやる。するとエスカレートした妹の怒りは私の肩を掴んで関節技を決めてきやがる。私はすぐさま体制を変えて妹の顎を掴み、引っ張り上げて背骨を逆海老反りにしてやると妹は「ウッ」と静かな呻きをあげた。私が流石にやりすぎたかと刹那緩めた力の隙をついて妹は私の顔面に頭突きを見舞った。

「てめ!嫁入り前ぞ!」

「一生いけるか!クソタコ南京虫!」

 幼き日、私たちの激情を鎮めたのは両親の叱りだった。しかし今や私たちは老いの申し子であり、体力の渇望から息絶え絶えの二人である。私も妹もゼェゼェと息を吐きながら二の句が告げないでいた。そのあとは終始会話もなく私たちは別々の部屋で眠った。はじめて広い部屋を借りてよかったと思った。

 

 今朝、目が覚めると妹はもういなかった。テーブルの上にはおにぎりが二つ。わざわざ炊いて握ったらしい。案外主婦をやっているのだなと少しばかり感心した。おにぎりの隣にはメモ代わりだろう。納豆とバナナが置いてある。たしかうちには納豆もバナナもなかったはずなので買ってきたのかと思えばいろいろと莫迦莫迦しくなってきた。妹はあれで旦那が好きらしい。私は結婚も悪くはないなとちょっと強がったりした。新たな一日の始まりに私たち姉妹は今日も少しだけ前進した。

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巨匠と薄まな板

 オランウータンの面倒を見だして早三年。私の社会人生活は巨匠と呼ばれるハゲ猿との格闘の日々であった。

「キョショー?」

「最初はキヨシだったんだけどね。なんていうかあの風格だろ?みんな巨匠って呼んでる」

「はあ……」

「大変だと思うけどさ。まあある意味巨匠は新人の登竜門なんだ」

 そう先輩に教わる最中、巨匠は私に食いかけの林檎を投げつけてきた。果汁なのかクソ猿の唾なのかそれは私の顔に糸引いて、キッと睨み付けると巨匠はニヤニヤと笑っていた。その時から私と巨匠の戦いは始まったのである。

 巨匠は全くといって協調性がなく、キヨシだった頃に同じ檻のオランウータン、マサハルを半殺しにしたため園から個別の檻を充てがわれた。不自然な二箇所のオランウータンコーナーに園長は「まあ、そういうのもありでしょう」と気楽なものだった。朝、私の仕事は巨匠の檻を清掃だった。クソ猿はそれに備えてか前夜から糞便を我慢して、私が清掃を終える頃に解き放った。私の殺意は三日目で頂点に達し、朝、檻に入って巨匠の便意が限界に達するまでメンチを切り続けた。今にも破裂しそうな肛門を必死に押さえて呻く猿の歪んだ表情に私は至上の喜びをもって睨みつけた。すると先輩がやって来て「早く仕事にかかれ!」と一喝され、私は畜生めと巨匠に目を戻すと奴の姿はそこになく、しまったと思った矢先に生暖かさがうなじを包んだ。一日中、匂いはとれなかった。

 巨匠の前を通る子供達はふてぶてしい猿に「起きて!こっち向いて!」と声をかける。しかし巨匠は微動だにしない。諦めの悪い子供には「プゥ……」と屁をこいて返事する始末だ。けれどそれは案外子供ウケがよく、巨匠は名物屁こき猿としてエンターテイナー化していた。当の巨匠には自覚がないようなので、私は巨匠に「屁こき猿として笑われてる哀れなオランウータン」であることを教えてやると巨匠は私の胸に手を充てていやらしく撫でると一呼吸置いてから「プゥ……」と情けない音を立てた。憤怒。圧倒的憤怒!このクソ猿は私のコンプレックスにずかずかと踏み込んでビーマイベイベーしたあげくに屁を吹きかけやがった。幼き私が夢見憧れた職業はこんなクソ猿になめられる仕事だったのか。冗談じゃない!私は「このままでは猿を殺ってしまう」と一筆したためた辞表を手に先輩に掛け合った。その日の仕事終わりに居酒屋で散々説教された私はまた翌日も巨匠の檻を二回掃除していた。

 

 あれから三年。最近巨匠の元気がない。私が罵っても屁をこかなくなった。新人の登竜門だった巨匠の面倒を私は自ら先輩に願い出て今もやらさせてもらっている。なあ、キヨシ。私から仕事を奪ってくれるなよ。何回だって掃除してやるからさ。その日はすっかり綺麗な林檎がそのまま寂しく隅に転がっていた。

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墓地のあの人

 通りの向こうに墓地がある。来る日も来る日もあの人はそこにいた。伸びた髪、無精髭。背は高くがっちりとした肩が逞しい。一度も目を合わせたことがなかった。一度も口を聞いたことがなかった。あの人はいつも足下の、誰かきっとあの人の大切な人が眠る場所を見ていた。

 

 わたしが通っていた学校は田舎の小さな学校で、六歳から十八歳までみんな同じ学校に通っていた。クレア、カイン、ライオネル、ミリアルド、マキナ、変わり者のランチェスでさえ誰も仲間はずれにされなかった。わたし達は遊ぶ時はみんな一緒でが鉄則で、一番年上のミリアルドはきっと面白くなかっただろうけど一番年下のマキナにあわせてくれていた。ミリアルドの本心はわからない。彼はいつも笑ってくれていたから。決して自分を前に出さなかったから。だからミリアルドが町を出て飛行士になると言った時、わたしは辛かった。いつまでもみんなのお兄ちゃんでいてくれるはずのミリアルド。それはわたしが描いた幻想でしかなくて、やっぱりミリアルドにもやりたいことがあるのを祝福できるほどわたしは大人ではなかった。町の大通りの真上の空を飛行機が飛んで行った。ミリアルドの輝く目をわたしは切なさをもって見ていた。ミリアルドの体の向こうへと目を逸らしたわたしの視界には墓地とあの人が映っていた。その場にいた子供達ーー無論わたしだってそうだったわけだけれどーーが飛行機に見惚れる中であの人はずっと足下を見つめていた。わたしはあの人のそんな姿にどこかしら自分の面影を見ていた。わたしの切なさはあの人のそれに似ている気がしたのだ。あの人が失った大切な人。わたしがこれから失ってしまうであろう大切な人。わたしはずっとあの人を見ていたけれど、あの人はずっとわたしには気がつかなかった。

 

 日曜日。礼拝を終えたわたしは牧師様にあの人について尋ねた。

「ああ、ベスターさんのことかな?」

「毎日来ていますよね?どなたのお墓まいり?」

「イヨカ。そういうことは他人の口から誰かに話すべきことではない。そう思わないかい?」

「わたし、あの人……そのベスターさんのことが他人事に思えないの」

「イヨカには秘密にしたいことがあるかい?」

 わたしは無意識にミリアルドの顔を浮かべていた。

「ベスターさんにだって秘密にしたいことはきっと一つ二つあるはずさ。それを暴こうとするのはイヨカだって良い気はしないだろう?」

「でも……」

「さあ、そろそろお帰んなさい。お母さんはもう先に戻ってしまったよ」

 わたしは牧師様と別れた後、裏手の墓地にまわって、あの人がいつも立っている場所を探した。日曜の朝、あの人はまだいない。あの人が墓地を訪ねるのはいつも夕方だ。わたしは墓の主の名前を読み上げた。《Mia Autumnleaves》と書かれたその人とベスターさんとの関係はわからない。わたしはただ綺麗な名前だと思った。

 

 ミリアルドが町を出る日。ランチェスを除いてわたし達学舎の仲間は別れ惜しさに皆涙を零した。ランチェスだってきっと悲しかったのだと思う。他の子より少しだけ感情表現が苦手なランチェスのことは皆よく分かっていた。マキナはミリアルドのズボンを必死に抑え付けて逃げないように捕まえている。ミリアルドにしてみれば他愛のない抵抗だ。弱い力でも出来うる限り引き留めていたいとするマキナの想いは他の子も同じだった。 クレア、カイン、ライオネルの同級三人組はミリアルドと二つ違い。流石は少し大人なだけあって寂しさこそあれどミリアルドの成功を祈っていた。わたしは……わたしは……。

「イヨカ?どうした?あまり顔色が良くないみたいだ」

 いっそミリアルドがどうしようもなく悪であればわたしはきっとこんなに痛みを感じたりはしなかっただろう。此の期に及んでわたしの心配などしているミリアルドにわたしは歯痒さを覚える。もう何も残さないでほしい。もう何も与えないでほしい。もう何も奪わないでほしい。わたしはミリアルドから目を逸らしたまま押し黙ってしまった。ミリアルドのお父さんが運転する車が走り出す。ミリアルドは窓から身を乗り出し、わたし達から見えなくなるまで手を振っていた。ランチェスはそうなってはじめて泣きだすのでわたしはランチェスを抱きしめて、わたし自身の正直になれない気持ちを合わせるように共に泣くのだった。

 

 ミリアルドが町を出てからわたし達の関係は少しずつ綻んだ。クレア、カイン、ライオネルは自分達だけで遊びを発明して自分達だけで楽しむようになる。マキナもランチェスも一人で何かができるほどではなかったから仕方なくわたしが二人の面倒を見るようになった。わたしは少しだけ、年長三人組のことを嫌いになった。彼らが身勝手だとかそういうのはどうだっていい。ミリアルドがいないことが彼らの中で当たり前になっていくのが我慢ならなかった。

 わたしはマキナとランチェスを連れて川までやって来た。河原に咲くシロツメクサを摘むためだ。マキナが花冠を欲しがっていたので作ろうと考えた。ランチェスは興味なさげだったけれど一人には出来ないので連れていった。この時、わたしは先生に同行してもらうべきだった。いつもならミリアルドがいてくれたから思いつかなかった。わたしはミリアルドほど気配りが出来なかった。マキナと夢中で花を摘む間、ランチェスが川の中へ入っていったのを見逃した。気づいた時にはランチェスの姿が見つからず、大人達がやっとの思いで探し当てたランチェスはもう息をしなかった。

 ランチェスの葬儀の日は雨だった。全てを洗い流してはくれないかと願った。クレアもカインもライオネルも両親も他の大人もランチェスのお父さんやお母さんだって誰もわたしを責めなかった。けれどわたしは自責の念に耐えられずランチェスの墓前から逃げ出してしまった。わたしは下を向いたまま雨の中を走った。向かいから来る人影に気がつかずそのまま衝突して後ろに転んだ。黒のワンピースが泥だらけになってわたしは泣いた。差し伸べられた手は大きくて、握り返すと温かった。あの人とはじめて目が合った。大柄のその人はわたしを一瞬怯ませたけれど、その目の奥に見えた柔和さがわたしを安心させた。

「大丈夫かい?」

「ベスターさん、ですよね?」

「どうして僕の名を?」

「牧師様に聞きました。わたし……わたしは……」

 悲しさはいつしか嗚咽になってわたしの中からはみ出した。見ず知らずのわたしをベスターさんはただ黙って何も聞かずに抱きしめてくれた。道端に落ちた傘の代わりにわたしを雨から守ってくれていた。

 

 ランチェスが亡くなってからわたしは周囲に壁を作ってしまった。誰とも話さず誰にも自分を見せなくなった。マキナもクレア達に懐いて、いよいよわたしは一人だった。一人になったわたしにベスターさんだけは話し相手になってくれた。ベスターさんにだけは自分の話をした。といってもわたし自身孤独の中でこれといった出来事もなく、半ば妄想のような語りだったと思う。それでもベスターさんはわたしの相手をしてくれていた。わたしはベスターさんのことが知りたかった。ベスターさんはこの町の人ではない。なのに何故こうして毎日墓地を訪ねてやって来るのだろうか。

「ミアさんってベスターさんにとってどんな人だったの?」

 いつも穏やかなベスターさんの表情が一瞬曇った気がした。やはり気に触る部分なんだろうか。それでもわたしは聞かずにはいられなかった。もうわたしにはベスターさんしかいなかったから。もしベスターさんがこのことでわたしを拒絶したならわたしにはもう何も残らない。だからわたしには賭けだった。

「ミアも僕もここから随分と遠くの町で生まれた。そこもここと同じくらい小さな町で、よく似ていた。山があって川が流れていて、春になれば山女魚がよく釣れた。ミアは幼い頃から優秀で勉強がよく出来た。僕の知らない花の名前を知っていて、たくさんの言葉を知っていた。子供達は皆ミアに憧れたんだ。そのまま僕らは大人になった。大人になったミアも皆の憧れだった。僕は当然のように彼女に恋をした。ただの友達から一人の女性として彼女を見ていた。それは僕だけじゃない。同じ年頃の男友達はほとんどそんな感じだったんだ。その中でミアが選んだのは僕じゃなかった。ユヴァルっていってね、とてもいい奴だった。あいつなら仕方ないと僕も他の連中も諦めがつくほどにね。ユヴァルとミアを傍目で見ているのは正直辛かったけれど、僕はミアの幸せを祈っていた。ずっと幸せであってくれたなら僕はそれでよかった。そんな時だった。あたりで大きな戦争が起こったのは。町の男手はみんな駆り出された。僕もユヴァルも。戦争は長く続いた。振り返ってみれば三年くらいが僕らには永遠のように気が遠く感じられた。ようやく終わった時には皆ぼろぼろだった。けれど僕も、それにユヴァルだってなんとか生き残れたんだ。ユヴァルを出迎えたミアの嬉しそうな顔を見た時、それが僕のためだったらどんなによかったろうかなんて思っていた。その時は戦争ってやつの本当の恐ろしさに僕らは気づいていなかったんだ。ユヴァルの様子がおかしくなり始めたのはそれからすぐだった。ミアの綺麗な顔に痣が浮かんでいるのに気づいた時、僕は彼女を問い詰めた。誰にやられたんだってね。ミアは何も言わなかった。僕は気づいていた。隣町で仲間と飲み耽っていたユヴァルのもとへ向かっていた。僕はユヴァルの胸ぐらを掴んで、ミアにしたことを謝れと言った。あいつはヘラヘラしながら、僕にミアをくれてやると言った。その時僕の中で糸が切れた。何も聞こえない暗闇の中で僕はミアの姿を探していた。微かな光が差し込んで、その先に彼女がいるのだと思った。そこに辿り着いた時、目の前に広がったのは血だらけで倒れていたユヴァルと僕の血にまみれた拳だった。ユヴァルは一滴も酒の飲めない奴だった。あの目も背けたくなる惨状からユヴァルを救ったのが酒だった。だがそれはかつてのユヴァルをも奪っていった。僕はもっと酷い。人を殺めることに躊躇をなくしてしまっていた。僕は自分が恐ろしくなった。刑期を終えると僕は町を出た。しばらくして昔の知り合いが訪ねてきた。ミアがユヴァルの後を追ったと聞いた。彼女の両親はミアにとって悲しみを帯びた町からミアを遠ざけたかったのかもしれない。もう僕を許してくれる人は誰もいないんだ。許されたいとも思わない。どこで間違ったのか今でも時々考えるんだ。答えは出なくて、僕はただ自分が死ぬまでミアとユヴァルに謝り続けるしかないんだ。僕にできるのはそれだけだから」

 わたしは言葉を返せなかった。後悔がなかったと言えば嘘になる。ベスターさんの過去を知って、それでもどこかわたしと似ていると感じる自分の心を恥じた。わたしはどうにかしてこの大きな友人を救ってあげたかった。けれどわたしには言葉一つ投げかけるさえできなかった。ベスターさんはわたしの涙をぬぐって何かを訴えるような目で微笑んでいた。町にはあらたに草花が芽吹き始めて、少しばかり冷たい風が吹き抜けるとそこは穏やかな陽の光に照らされて、何とはなく全てのものを祝福していた。

 

 わたしはランチェスのお墓に花を添える。目を閉じて彼の幸福を祈った。再び立ち上がり振り返る。クレアが手招きしてくれていた。今日は久しぶりにミリアルドが帰ってくるのだ。わたしはうまく笑えるだろうか。わたしは笑顔でミリアルドを迎えて良いのだろうか。未だにわたし自身を許しきれていない自分がいる。

「何してんだよイヨカ!早く来いよ!」

 ライオネルがわたしを急かす。

「すぐ行く!」

 

 通りの向こうに墓地がある。あの人は今日もそこにいた。短く切り揃えられた枯れ草色の髪が陽の光で輝くその人のことを、わたしは少しだけ知っていた。

 

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放たれざる生

 私には花粉症の人間の気持ちがわからなかった。私は花粉症ではなかったから。この時期はスギがすごいらしい。けれどスギに悩む人間も、人間悩ませのスギ花粉の気持ちも私にはわからなかったのである。

 早朝。私はたまたま通りかかった山道で、一匹の猿が飛び出てくるのに気がついて急ブレーキを踏んだ。それでも止まれずハンドルを切った先が崖のガードレールで、そのまま突っ込んだ私の車はフロントがぐしゃぐしゃになり、生きているのが奇跡だと思える様だった。私はなんとか車体から這い出ると、目の合う猿が鼻を垂らしていた。私は額から血を流し、猿は鼻から水を垂らしていた。垂らし者同士の縁とでも言おうか、私は左ポケットからハンカチを取り出し額をおさえ、右ポケットから取り出したティッシュを猿にくれてやった。猿は一瞬私が投げたティッシュに怯んで後ろに飛び退くと、鼻水だけは慣性の法則に従ってびーんと糸を引いた。鼻垂れ猿はおそるおそるティッシュを触ったり嗅いだりしながら、鼻詰まりを忘れて無臭のそれを安全だと判断すると器用に鼻をかんでみせたのである。

 私はいつだか河川敷で狸が歯を磨いていたのを思い出した。どこで拾ったのか歯ブラシを使ってせっせと歯を磨いていたのである。私はそのことを友人たちに話すことで友人と呼べる者を失った。あれ以来、人付き合いがうまくいかず、緑のたぬきを食べれなくなった。

 私の出血は思ったよりひどく、ハンカチはもはや血を吸えないほどに真っ赤に染まっていた。薄れゆく意識の中で私は鼻かみ猿のことを墓場まで持っていく決心を固めた。叶うことならもう少し生きて、狸が歯を磨き、猿が鼻をかむのが当たり前の時代を過ごしてみたかった。その時私を見放した友人たちにほれみたことかと見返してやりたかった。私は気づくと悔し涙をぼろぼろ流していた。命が惜しいのではない。私は嘘つき呼ばわりされたまま、それをトラウマに引きずって死んでいくのが虚しかった。あと緑のたぬきをもう一度だけ食べたかった。そんな私を哀れんでか鼻垂れ猿は私に近づいて私の血だらけの顔にそっと触れた。ベトベトの鼻水とティッシュのカスにまみれた汚い小さな手は温かく、私は「なんだこれ? めっちゃあったけえ……」と呟いていた。私の死因かもしれないその鼻垂れ猿を私は恨めなかった。猿肌の温もりに包まれて私はそのまま意識を失った。

 

 目が醒めるとベッドの上だった。医者が言った。私の額にはティッシュが押し当てられてあり、それが生死の分け目だったと。第一発見者のハイカーの夫婦は血まみれの私に気が動転してしまい応急処置どころではなかったという。ならば私を救ったのは……。そんなことを考えていると思い切りくしゃみが出た。私は鼻を垂らした。山で大量の花粉を吸い込んだ私はついぞ花粉症となった。私はあの鼻垂れ猿を思い出して彼の功績をそっと胸にしまった。花粉症の人間数あれど、それら万別の生である。あの鼻垂れ猿は私にもそんな特別があるのだと教えてくれていた。

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