アントーニオの肉一ポンド

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和田島イサキ『アリス・イン・ザ・金閣炎上』を読む(改訂版)

 日本国内における西洋医学浸透に多大なる貢献をした杉田玄白はこう云う。

己上手と思わば、はや下手になるの兆としるべし。

 『まんがで読破-解体新書』に書いてあった(気がする)。超訳すると「限界を自分で決めるな!クソタレめ!」という戒めである。

 

 また日本を代表する偉大な声優の一人、杉田智和はこう云う。

ここじゃない何かになりたい。めちゃくちゃな破天荒な家族と制限だらけの田舎と。そういうところじゃないところにいきたい。漫画とアニメとゲームって理想の世界だったから。モビルスーツが出てきて、こんな二足歩行のものに乗って戦うんだって(あにてれ『声優ケンユウ倶楽部』第58回 ゲスト:杉田智和 #2 )

 

 二人の杉田は諦めないことの重要性を説く。

 

 ここにとある小説作品を紹介したい。

アリス・イン・ザ・金閣炎上(和田島イサキ) - カクヨム

 

 私はこの和田島イサキなる人が書いたとする小説について何度か感想を書こうと決意し、そして諦めた。ふつふつと湧いてくる何かをどうしても上手く言葉に出来ず、言葉にならないもので水を差すくらいならばいっそ沈黙こそが堅実に思われた。しかし二人の杉田は言っている。限界を超えろと。諦めるなと。止まるんじゃねえぞと。

「もう遅えかもしんねえ。あの初めて読んだ時の気持ち、今どれだけ思い出せるかわからねえ。けどさ、和田島さん。俺は……俺は……俺はさアアアア! 今からこの『アリス・イン・ザ・金閣炎上』をターヘルアナトミアする!! するったらするんだそれでいいんだよな杉田さん これで、いいんだよな和田島さん……」

 

 というわけで真剣に、かつ真摯に『アリス・イン・ザ・金閣炎上』と向き合っていきたいと思います。ネタバレ、深読み、超訳、拡大解釈上等なのでこの先は覚悟と共にお進みください。逆に覚悟以外は何も要らない。未読でも覚悟があれば大丈夫です!

 

 先ずは物語のあらすじについて。話は語り手である「私」(名前は後述する)が自身の性について葛藤している場面から唐突に始まる。「私」は目の前で寝ている女を襲いたいと考える。男性の強みはこういった場合に本能に身を委ねることができる、つまりリビドーの赴くままに寝込みを襲える!などという極端な視点を持ち、ゆえに自らが男性であればこの葛藤は解消されるとする。つまり「私」が女性であることが明らかになるも、同時に只者ではないことが予見される。「私」はこの瞬間まさに事に及ぼうとする欲求と「私」の抗えない女性性からくる理性の狭間でトチ狂いそうになっている。対してそんな「私」の心情を知ってか知らずか野獣の本能を刺激する女は「私」の友人であった。彼女の名はアリス。「私」をもって「小さな天使」「途轍もない美人」「あっこれならOKです人生踏み外しても」と言わしめる美貌の持ち主だとされる。ここまでの僅か数行から浮き彫りになるのは女性間に生ずる恋愛感情そう(大声)ッ!! 端的に申すと「百合」である。

 

 戦前、開祖吉屋信子による少女小説を源流とした女同士の強固な絆を描く芸術的流派は時の流れに廃れる事なく今日まで受け継がれてきた。近年、その理解は深まりを見せてきたとはいえ女性が女性を愛するという行為(はたまた男性同士においても)をまだ倒錯と見る向きもある。こと創作においては現実で乗り越えにくいハードルを下げるだけでなく、その世界観の提示によって理解或いは救済を求めるための志しとも考えられた。ただそのようであるがゆえに百合には未だファンタジー、或いは広義のマジックリアリズムの側面を可能とし理想郷としてのヨスガを構築できるのだ。

 

 さて、些か話は逸れたが、「私」はミッション系女子校の出身である。補足するとミッションスクールとはキリスト教の教えを理念として運営される私学のことです。はいはいなるほど皆さんのお考えはわかります。えーえー私はこの物語を解体するとまで言いましたね。であるならばキリスト教が絡んできた今、参考図書としてそこに聖書を挙げねばならないのではないかということですね。いやー皆までDon'tセイッ!わかりますわかります。匂わせモチーフならいざ知らずミッション系女子校なんてそのものが提示されてんですから旧約から行けよ!と仰る。ですがね考えてもみてください。タピオカの流行を白亜紀まで遡って考察した学者がいますか?私は知らない。だからこのまま行きます。

 山奥の女子校で小中高とエスカレーター的に過ごした「私」。そこには無論異性の同年代は介在せず、従って恋愛感情みたいなものは身近な女子に向けられる。先述した吉屋信子よろしくのエス小説ではよく見られる場面だ。「私」の男性観もこういった環境で養われ、それはどこかで幻想に抱く憧憬のようでもある。但しまだ「私」はアリスと出会わない。「このままだと何か大事なものを踏み外したまま大人になる気がする」そう感じた「私」は都会の大学へと進学する。そこに天使がいた。ヒンチクリフ・アリス。たんぽぽの綿毛のような女。

 当時のアリスはこの大学におけるヒエラルキーの上層にあり、並の学生が近づける存在ではないものとして描かれる。そこに何やら物々しい言い回し「殺人ブルドーザー」を自称し接近を試みたのが「私」(この辺りで彼女の姓が黒岩と知らされる。以後カギかっこ付きで私と書くのがめんどいので黒岩とする)だった。黒岩にとってこの時の邂逅は黒歴史とされており何が起きたのかは明かされないがアリスは満更でもないような素振りを黒岩に対して見せたらしい。ともあれこれによって黒岩あるところにアリスありと学内に浸透し二人の距離は接近していくのだがやがて黒岩側のラインが決壊する。

特にすることもなく取り残された夕暮れの和室、安心しきった寝顔を間近に眇める私の、その胸の裡(うち)に湧き上がる未知の情動。この汚れひとつない無邪気の塊を、簡単にその身を預けてしまえる雛鳥の無垢を、でも特段の理由なく滅茶苦茶に穢(けが)してしまいたくなる、このどこまでも粗野で根源的な人間の本能。

 「やってしまうことにした」黒岩の情動が驚くべき流暢かつ流麗に描かれる。この一文には大きく「やりたい」と仮名を振ることが出来るもそうはしなかった乙女心の表記揺れと私は見た。単なる欲の動物には知り得ない詩人の魂がここにある。散らかった部屋を対比にしながらそれより汚れていると自身の心内を形容するが、そうありながらも飾り立てることを諦めない切なさに私は泣いた。そして迎える二十歳の誕生日。二人は黒岩の自宅で誕生日会を開始する。

 アリスは黒岩を玲ちゃんと呼ぶ。黒岩玲。良い名だ。だから私も以降は玲ちゃんと呼ぶことにする。玲ちゃんは「酒の力」を冷静に分析しながら酔う前に覚めてしまい二十歳の自分自身も相まって恥モードに突入してしまう。玲ちゃんはその中でアリスの言葉を思い返す。

大人は嘘つきなのではなくて、ただ間違いをするだけなのです

 いろんな意味で玲ちゃんを勇気付けたこの言葉は二十歳の夜の今の今まで彼女の信仰としてあり続けた。しかしながら後押しの魔法になるはずだったお酒は期待に応えてくれず、大人へのクラスチェンジは花と散り、結果的にアリスに踊らされてしまった玲ちゃんはそこから連なるアリスの態度や仕草の諸々を内省するうちに情念のモンスターを蘇らせてしまう。

男だった。私の、ではなく、私が、誰かの。なり損ないにせよ紛い物にせよ、でもそうあるべしと定めたのは紛れもない事実。

 かつて一人の少女が置かれた場所で咲こうとした結果それは生まれた。

でも君にならとその掌にそっと握らせてやる。そんな安いような重いような作り物のドラマが、どんな通貨より力を持つ世界だった。

 そのような場所から命からがら逃げ遂せた先に現れた天使は救済となるはずで、それは決して間違うことなく玲ちゃんが玲ちゃんであることを認めてくれていた。だからこそ正しくあるべしと本願を遂げる相手はアリスでなくてはならなかった。もうここはボロ泣き展開なのだ。欲動はその天使の犠牲によって成就する。物語はクライマックスへと向けて疾走感を友人に動き出す。振られた指揮棒に合わせてけたたましく鳴り響くフィナーレの音を目前にしてレコードの針が飛ぶ。モンスターは生まれて初めて見る景色の前で呆然と立ち尽くすこととなる。再び意識がお帰りなさいした時、玲ちゃんの情動はあらぬ方向へと向き始める。

 

私はたしかに生きるために金閣を焼こうとしているのだが、私のしていることは死の準備に似ていた。

 ここで敢えて本家(?)『金閣寺三島由紀夫が書いた一文を引用する。玲ちゃんが為そうとすることはここに全てが込められている。冷静を欠くゆえか死生渾然一体の境地に辿り着いた彼女はもう止められない。万華(修飾表現)でキャンドルサービスしてしまいました。

 金閣炎上はあらゆるトリガーになり得る。この先の二人は是非とも本文を見届けてほしい(最初の方にリンクも貼ってる親切設計)。私はここまで読んでみて敢えて言うが玲ちゃんが女で生まれてくれてよかった。そうでなければこの物語は成らなかったのだから。

 

追伸:実はこの文量をカクヨムくんのレビューとしてぶっ放そうとしたのだがどうも強度が耐えられず全文消えてしまったのでブログの方に(若干の手入れをしつつ)書き直した。私に勇気を与えてくれた二人の杉田さん。それからこの作品を産み落としてくれた和田島イサキさんには感謝してもしきれません。