モンターグの貸出票

返却期限を過ぎました。

帰り途

 ペロヲ先生は名をシアルルといって頭がカタツムリの体つきは男性だったけれど声色は女の人だった。ペロヲ先生は頭がカタツムリの顔はその殻の部分なのであっていつも視線というものを感じなかった。頭のカタツムリは時折紙みたくペラペラで子供の落書きのように見えたり、かと思うとそこに生きているかのようにひどく立体感があって、はじめて出会った頃は不思議な違和に船酔いに似たものを感じたけれど今はそういうのにも慣れてしまった。ペロヲ先生の無茶苦茶さは一見であって、付き合いの深さに比例して先生は僕の中で一般化されていった。
 ペロヲ先生は厳しい人だった。授業中に居眠りをしていたガニメデの頭を丸めたテキストでポンと叩いて起こすと冷たい声で叱責し廊下に立たせた。今どきの教師がそれをすると保護者が騒ぐとあって他の先生達はペロヲ先生を注意したが「間違いは間違い」と意に介さないので厄介者だと思われていたに違いない。ただ僕達ペロヲ学級の生徒はみんな先生が好きだった。叱られればそれは自分が悪かったと反省したし、何より厳しさ以上の優しさを持ち合わせたのがペロヲ先生という人だったから僕達はその為人にふれて尊敬というものを覚えたのである。
 あれは理科の授業で実験をした日。高学年の僕達には理科の専門にアン先生がいたけれど、アン先生は産休に入っていたためペロヲ先生が代わりに受け持った。それがなんとカタツムリの解剖で僕達はちょっといたたまれなくなり違う実験にしようと言った。けれどペロヲ先生は(たぶん)僕達の方を見て「はじめましょうか。刃物には気をつけて」と言った。僕達の気遣いなんてものは無用だったのだ。ペロヲ先生とカタツムリを同列に扱い共食いの意味を与えてしまった残酷は僕達の方であって、それは人が上だとかカタツムリが下だとかではなくて、ただ実験として、知識としてカタツムリにメスを入れることにペロヲ先生は何の躊躇もなかった。ペロヲ先生の対応を目の当たりにして僕は意味の残酷さについて考えこんでしまい翌日熱を出して学校を休んだ。
 一度は門の外に出て、家までの丁度中間で僕は教室に忘れものをしたことに気がついた。ひどく面倒に思ったけれど、それが今日の宿題プリントとあっては取りに戻らないワケにもいかず渋々来た道を戻る。この町の夜はどういうわけだか早くすっかり日暮れて辺りは暗く心細い気持ちのまま本日二度目の登校を果たした僕は一目散に教室を目指し扉の前で膝を落とした。冷静になって考えてみれば誰もいない教室が施錠されていることに気づいただろうし、そうならそうで用務員さんに鍵を借りに行けば良いのだけれど明日の提出について頭がいっぱいのくちゃくちゃで涙が溢れそうになる。すると後ろに引っ張られる感覚がありフッと力がまた緩むとパチンといって僕の背中をゴムのサスペンダーが刺した。
「イテッ!」
「何をしてるんです?」
 カタツムリ頭は紛れもなくペロヲ先生で優しい女の人の声だった。
「忘れものをしたんだ」
「そうですか。いま開けましょう」
 僕は机の中を弄ってプリントを見つけるとそそくさと鞄にしまい込んで、それじゃあと足早に去ろうとした。
「待って。先生ももう帰ります。夜道はあぶないから一緒に帰りましょう」

 夜の暗がりでペロヲ先生はちょっと不気味だった。どんなに親しんでいても見た目はやっぱり普通じゃない。ペロヲ先生のことを怖がったりはしないけれどそう思ってしまうのも素直な気持ちだった。僕はペロヲ先生に最近の学級の様子を語った。間もなく僕達は卒業で散り散りになるわけだけれど今日までペロヲ先生のもとで育んできた仲間意識みたいなものがいま一番に純度の高い誇りあるもののように思えて、それが泡のように消えてなくなるのは寂しいことだと正直な気持ちを伝えた。そしてみんなともそうだけれど何よりペロヲ先生との別れを僕は堪えることは出来ないからこのまま留まる方法を考えているんだと言ったらペロヲ先生は笑っていた。
「いいですか?君は大人になります。先生が子供だったように。君は泡のように消えるといったけれどそんなことはありません。君の気持ちはもう立派に、それは宝石の如く輝いています。たとえみんなが方々へ離ればなれになってもそれが一生の別れでしょうか?近くにいることよりも離れていたほうがその輝きは増すかもしれません。相手を思い遣ることは自分のためでもあるのです」
「うーん、そういうものかな?僕はずっといっしょに遊べたりおしゃべりできるほうがずっと楽しいと思う」
「先生が君くらいの歳の頃、君によく似た友達がいました。先生はこんな顔なのであまり友達が多くありませんでしたが彼はそういうことをあまり気にしないでくれました。それまで先生は毎日がつまらない灰色に見えていました。けれど彼と話すうちに段々と色を感じるようになったのです。それは塗り絵のようで楽しく、先生はずっと彼と話していたいと思いました。塗り絵があと少しで完成するという時、彼は遠い町に引っ越してしまいました。それからまた彼と出会う前の日と同じ生活に戻りました。けれど、何故だかもう辺りは灰色ではありませんでした。先生の中には彼との記憶がちゃんと残っていてそれはもう失われなかったのです。つい先日、彼と久しぶりに電話をしました。その時、あの日に塗り残した小さな灰色の部分に他の色が付きました。先生はずっとそれを楽しみにしていたんだなと思いました。君に残る寂しさは次の楽しみなのです」

 僕はペロヲ先生の話を聞いて納得できたようなそうでないようなモヤモヤを残した。そして僕の家の前に差し掛かるとペロヲ先生は「また明日」と手を振った。たったそれだけのことがやっぱり寂しい。永遠のように感じる。暗がりに消えていくカタツムリがもう手の届かない場所にあって、やがて姿も見えなくなるとようやく僕は家の中に入って宿題のプリントを広げた。国語の授業で読んだ話について筆者の考えを書きなさいとある。僕にはわからない。書いたものはきっと僕の考えであって筆者の考えではないだろうから。それでも正否や点数があることに不思議さがある。僕はまったく関係ないことを括弧の中に書いた。やっぱり寂しいです、と。


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