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モンターグの貸出票

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詠みと読み -榛 瑞穂の短歌に寄せて-

随筆

 榛 瑞穂さんが詠まれたこの短歌。私はこの歌を初めて目にした時、筆舌に尽くし難い良さを感じた。筆舌に尽くし難い良さなどと言ってそれはあまりに陳腐な感想で逃げに等しい。ただ初見にしてこの歌は私を黙させ、同時にやはり日本語が好きで文章が好きで詰まるところ言葉が好きであったのだと思い出させる。だからこの環状列石のような奇跡の産物を前に筆舌に尽くし難いという思いはそれで正しく素直な感想であるわけなのだ。
 それから幾日かが過ぎて、私はこの三一音の物語を読み解いてみたくなる。自己解釈である。深読みである。けれども許してほしい。言葉は放たれた瞬間から誰かのものとなり誰のものでもなくなる。しかしそれを背もたれに得る安心感は私のためである。つまりこれから私が行うことは誰彼差し置いて私自身に必要なことなのだ。

 先ず、文としてこの歌を読んだ時《この世》つまり唯一の人物である《僕》が生きる世界において《完璧》の存在が露わになる。完璧が何であるかとここでは具体的に示されてはいないのだが、とにかくその全き欠点のなさを《僕》は知るに至る。例えば自分ではない何かが完全無欠の状態でそこに在る時、その何かが物質であったり現象であったなら人は感動を覚える。私自身を例に挙げるとかつて弥勒菩薩を拝観した体験は今でもその場の空気も含めて完璧だったという感覚がある。このように完璧に対して感動を覚えるに至るはそれがカテゴライズにおいて同属にない場合である。つまり人間は物質や現象の完璧さを感動として素直に捉えることが可能なのはそれが凡そ自らの為すべき完璧さではなく及ばずの諦観に似たため息からくるものだと言える。
 これが同属の、人間同士の間に見られる完璧さであった時、それは一概に感動として受け入れ難いものがある。同属が成立させた完璧さというものを同じ人間である自分が見つめた時、プライドと嫉妬のバイアスは完璧さに暗い影を落とす。自身の不完全さが他者の完璧さによって浮き彫りにされ、その存在の疎ましさは最早感動などという前向きな捉え方にはならない。話をこの短歌に戻すと完璧を知った《僕》は砂を食む。なぜ《僕》は砂を口に運ばなければならなかったのかを考えてみるとそれは逃避の表れに思えた。「僕はひとりで砂を食べてた」という一節には《僕》の孤独さと悔しさが染む。私の思い浮かべる《僕》は砂を食みながらきっと泣いていた。誰にも見せまいとしながらそれでも一見に意味の通らない行為を続けてしまう。完璧を前にして《僕》の心情は瓦解し、かえって不完全なものへと歩みを進めるに至る。諦観しきれない存在を前に砂を食むという行為が自己保持となる。
 しかしここでもう一つ見方を変えてみよう。見方を変えるというか私自身がそう解釈したいという、先程までつらつらと宣うたものへの卓袱台返しなのだが《完璧》を為すものが他者であるとは限らない。「知った」というのが実はその《完璧》は己の中に存在しているのだという自覚だった場合《僕》が砂を食む行為には前述の説と些か意味合いの異なりが生まれる。自らが完全無欠な状態に至るというのはどのような心情を生むか。決して完璧とは言えない私の想像力の範疇で《完璧》とは終焉である。それ以上も以下もなく、ただ完璧として在るのは何も始まらないことに同じである。そして《完璧》の定義は常に完璧ではない者に委ねられる。自身の欠損を全て満たすものを完璧と呼べるからである。では《僕》はどうやって《完璧》を知るに至ったか。それは《僕》が不完全であることに憧憬を見たに他ならない。ここで完璧と欠損が一般から逆転した価値を生む。《僕》はその《完璧》さこそが自らの生において弊害であると感じたのではなかろうか。先の説と視点は違えど《完璧》は忌むべきものとして目に映る。
 不完全なものはその裏側に可能性という輝きを隠し持つ。つまりそこに開けた道があるのであって、もし自身が完璧の境地にあって、その行き止まりの壁の前で立ち尽くし続けなくてはいけない虚しさに人は堪えられるだろうか。終焉してしまったものとしてあり続けることは最早人間として生きる意味を失ってしまったのと相違ない。欠いている、足りていない、これらの感覚は生の輝きそのものであって《完璧》こそが死である。何かを食べる、それは生への執着であり死(=完璧)への反旗である。それが砂であるのは不完全さの象徴であり脆さへの憧憬である。私は後者の解釈に未来を感じる。《僕》の静かなる闘争はまさにこれからを生きようという信念に思えてならないから。そして《僕》はその意志を俯瞰するように「食べてた」と過去形で締め、物語の近い未来を生きている。

 次にこの作品が短歌である意味、つまり音の運びについて思うこと。
「完璧がこの世にあると知った日に僕はひとりで砂を食べてた」
 上手いと思ったのは「食べてた」という部分。三一音の、ただそれだけがルールとしてある短歌という行為にあって後の語句に向かうにつれて字数の調整は難しくなる。選べる言葉は次第に限られるのであって、違う見方をすればより作者自身の本心(本当に使いたい言葉)から逸脱する向きがある。というのは私の勝手な考えだが、そうだとして、であるならばそこに意図されざる、偶然性や迷いが微かに感じられる下の句(七七)にどうしても目がいく。「食べてた」はこの歌の最も後の句である。榛さんが私の言うような方法でこの「食べてた」を選んだかどうかはわからない。しかし短歌のルールゆえに「食べる」でも「食べていた」でもなく「食べてた」という言い回しが選ばれそれによって《僕》という人物の輪郭がぐっと浮かび上がる。「食べてた」はまぎれもない《僕》の言葉であると同時に《僕》は「食べてた」によってその性格を読ませる。この繋がりはとても心地好い。完璧という現象と対比されるあどけない表情の少年の姿が「食べてた」という口語によって想像される。それは完璧の存在や砂を食むことその異質さよりも奇跡的であるように思う。

 長々と語ってみたけれど私はただただ本当に良いと思った。良いと思うものに触れ、このような言葉を選んでいきたいと思った。久々に何かを書いてみたくなった。それはこの歌に宿った力によるのだ。