読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

モンターグの貸出票

返却期限を過ぎました。

四月三日

 四月三日。エドワード・ゴーリーの作品展に行った。自発的になら行かなかったろうと思う。誘っていただいて結果よかったということが多々ある。自分の視野の狭さに呆れながら塗り潰せる余白の多さは楽しみとしてたくさん残っているのだと思った。
 その日もそんな一日だと感じた。件の美術館までの道程も月並みな言葉で楽しいと思った。乗る電車を間違えて、行く方向も間違えた。土地勘のなさはかえって冒険心をくすぐる。途中道を尋ねた警備員さんがわざわざトランシーバーで他の職員の方にまで聞いてくれたその大袈裟に笑い優しさに感謝した。
 辿り着いた美術館の受付に立つ大きなパネルのおじさんの絵。
「身長が同じくらいでした」
と言った彼女の人柄を僕は素敵に思った。ゴーリーといえば大人のための残酷な絵本作家という印象があった。もちろんそういう側面も感じたがそれ以上にファニーでコミカルな印象を受けた。自虐的で頽廃的でといった感じはほとんどなく、寂しさもない。子供のような無垢さが際立ち、絵の中のキャラクターは遊びまわっていた。向かう先が生であっても死であっても同列のやり甲斐みたいなものを持っていて、何せ活き活きとした作品がそこにはあった。ゴーリーの優れた部分はその絵だけでなく言葉の選び方にもある。『アイススケートをするワニ』という題名の絵のワニはスケート靴を履いて子供を背に乗せていた。ソリの役割であるワニにはソリの自覚がないというようなタイトルである。道具的な佇まいの動物にスポットを与えてやることで途端生命が宿り動きを感じさせる。ゴーリーの絵と言葉づかいはまるで魔法じみている。創作表現は絵であれ音であれ文字であれ、一つの手段であって、絵描きに文才を用いてはならないなどという縛りを取っ払い自由に躍動するゴーリーの柔軟さを見習いたいと思った。
 そんな絵を見ながらくすくすと笑う同行人の彼女はある意味正しさを持ってゴーリーを観賞していたと思う。僕が感じたものに近い感覚だと。
 きっと何もない不毛な一日になっていた四月のその日は彼女のおかげで曇り空も気にならない素敵な一日だった。思い出はいつも曇り空。またそういうジンクスが塗られていく。
広告を非表示にする