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モンターグの貸出票

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日常と期待

 漱石は、高浜虚子『鶏頭』にて寄せた序文の中で小説内の余裕について語る。余裕のある小説というのは漱石曰く以下のようなものである。 
 “余裕のある小説と云うのは、名の示す如く逼らない小説である。「非常」と云う字を避けた小説である。不断着の小説である。此間中流行った言葉を拝借すると、ある人の所謂触れるとか触れぬとか云ううちで、触れない小説である。無論触れるとか触れないとか云う字が曖昧
であって、しかも余は世間の人の用いる通り好加減な意味で用いて居るのだから、此字に対して明かな責任は持たない積りである。只ある人々の唱える意味に於て触れない小説と云ったら一番はや分りがするだろうと思って、曖昧ながらわざわざ此字面を拝借したのである。と云うものは、まず字の定義は御互の間に黙契があるとして、ある人々は触れなければ小説にならないと考えて居る。だから余はとくに触れない小説と云う一種の範囲を拵らえて、触れない小説も亦、触れた小説と同じく存在の権利があるのみならず、同等の成功を収め得るものだと主張するのである。”
 つまりはその小説内において殊更事件性を持たない、殆ど何も起こらない小説を余裕があることしている。小説を読むということにおいて少なからず期待されているのは事件と言って過言でないと感じる。小説内で起きる事件というのは現実には凡そ密接しない不可思議さがあり、読者はその中に様々な感情の動きを期待する。ところが漱石はその期待に対して「触れる」という言葉を用い、それは余裕のないことだと論ずる。
 
“個人の身の上でも、一国の歴史でも相互の関係(利害問題にせよ、徳義問題にせよ、其他種々な問題)から死活の大事件が起ることがある。すると渾身全国悉く其事件になり切って仕舞う。普通の人間の様に行屎走尿の用は足して居るが、用を足して居るか、居らぬか気が付かぬ位に逆上せて仕舞う。先達て友人が来てこんな話をした。小田原で暴風雨があった時、村の漁船が二三杯沖へ出て居て、どうしても濤を凌いで磯へ帰る事が出来ない。村中一人残らず渚へ出て焚火をして浮きつ沈みつする船を眺めて居る許りである。此方から繩を持って波を切って、向うの船へ投げ込んで、其繩を引いて陸へ上げるのが彼等の目的である。がそう思う様に目的は達せられんので晩からかけて翌日の午後の三時頃迄は村中浜へ総出の儘風の中、雨の中を立ち尽して居た。所が其長時間のうち誰一人として口を利いたものがない又誰一人として握り飯一つ食ったものがないとの事である。こうなると行屎走尿すら便じなくなる。余裕のない極端になる。大いに触れてくる。同時に眼前焦眉の事件以外何にも眼に這入らなくなる。世界が一本筋になる。平面になる。寝返りも出来ない様に窮屈になる。なっても構わないがそれ許りが小説になると云う議論がどうして出来る。”
 
 この例の中で漱石が危惧するのは、一つの大きな事件を前にした時、視野がそこに定まってしまい、本来持ち得る余裕が失われてしまうことである。夢中になることが悪いわけではないが、それによって人生が一辺倒になり他の部分で起きているはずの情緒などを置き忘れ無視された描写は結果として口も聞かず飯も食わないという余裕の無さに通ずる。大きな事件性に頼ってしまった小説だけを小説とすると日頃見受けられる景色やその日常が(描くことにおいて)価値の無いものとなってしまう。漱石としてはそれは違うだろうというわけである。無関係さが小説の中で浅はかなものと感じられたとしてもそれが価値の有無とはまた違う話であると。
 
“護謨(ゴム)を延ばして、今少し引っ張ると切れると云う所迄構わず持って行く。悪いとは云わない。然し此所迄引っ張ってぴんとさせなくっちゃ駄目だよと云うに至っては、緊張の趣は解して居るが雍容の味は解し得ない人だと云われても仕方がない。のびない護謨もゆとりがあって面白いと云う人を屈服させる訳には行かない。”
 
 漱石はここで低徊趣味という造語を用いている。つまりは物語の流れが凡そ筋には関係の無いような描写によって中々進行しないという趣きである。そしてこれは余裕のある小説家でなくては体現できないとする。忙しい人間というのは、例えば買い物を目的とし買い物を終え目的を成し遂げる中で、その道中の描写は省かれ目的に向かって最短の距離をとる。しかし余裕のある小説家はその道中にこそ趣きがあるとしてあまり関連しなかろう出来事に面白味を見つけることができるという。そして高浜虚子こそその人とする。
 虚子は短篇の人である。限られた頁数の中でこの低徊趣味を展開するその様を余裕と呼ぶ。
 
“虚子の風流懺法には子坊主が出てくる。所が此小坊主がどうしたとか、こうしたとか云うよりも祇園の茶屋で歌をうたったり、酒を飲んだり、仲居が緋の前垂を掛けて居たり、舞子が京都風に帯を結んで居たりするのが眼につく。言葉を換えると、虚子は小坊主の運命がどう変ったとか、どうなって行くとか云う問題よりも妓楼一夕の光景に深い興味を有って、其光景を思い浮べて恋々たるのである。此光景を虚子と共に味わう気がなくっては、始から風流懺法は物にならん。”
 
 生死だけが小説の極致ではない。人の死を持って悲しみを誘うのははっきり言って容易い。至極当然、誰もが普段は目にするものから人々の感動を導き出すには鋭い着眼点を要する。言われてみればと気付いたものは普段見過ごしているわけである。しかしそれをあえて提示した時そこに大きな感動を含んでいたりする。余裕、日頃から様々な物事に対してそのような含みを感じることができれば何気無いものが輝いていく。

 日常の切り取り、それは変哲のない、例えば自分にとていつしも起こり得る風景を他者に見て感動するということがある。それは何故か。もしかすれば日常こそがじつは期待して中々手に入れれぬ非日常であったりするのかもしれない。都会の喧騒に身をやつし疲弊していく身体は何処かで田舎の牧歌的風景を追い求め、地方の何もないようで暖かい景色の記憶を呼び覚ます。いつかは何もなさを有難さと呼びただ静かに暮らしたいというのは老いの前兆などと鼻で笑えばそれまでのことだが、それでもやっぱり私はそんな日常に憧れる。そしてそれこそ余裕のなさであろう。対象に余裕があろうとなかろうと期待する自分とはそういうことだ。

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