モンターグの貸出票

返却期限を過ぎました。

ふあぶるのおもひで

 蟻の隊列行儀よく、巣穴へ向かい歩を進める。中ほどの何匹かが大きな飛蝗を背にしょって同じ歩幅で歩いた。不平を言う者はいない。どれも静かに巣に向かう。悪戯な気持ちで指を置くと律儀にそれを越えていく。それを生命の熱心とするか、機械の哀惜とするか。うつし鏡の蟻に私の顔はどう見えたか。指を退けると蟻たちは微かに迷いを見せながら暫くすれば元通りを歩いた。
 母が台所の砂糖壺に集る蟻を鬱陶しそうに払った。利害の共わぬ間柄に弱いほうが死ぬ。生きる術が悪さに捉えられ害となる。この掛け違いを法則にした者がいる。罪にとわれるどころか有難く崇められ誰の逆らいも許さない。そのような理不尽さがきっと何処かで歪みを生んで笑う者と泣く者を隔てたのだと不意に思う。指先で潰された蟻は骨を持たないのでそれが折れる音を聞いた者はいない。蟻そのものでさえ。

 自動販売機の明かりを背に蟷螂が這う。珈琲の上をぴたと張り付いて時折腕の鎌を上げたり下げたり。胴長の緑色はそこが住まいではないのだが、そういう時代に生まれてたまたま珈琲の上を歩くことになった。私はその珈琲を買うつもりなどなかったが、ひとつ邪魔してやろうかと小銭を投じてボタンを押した。ボタンを押した指先に蟷螂が乗る。指を掻かれるのではという思いがする。がたと落ちた缶を拾い上げさせまいと静かに指先を歩く。邪魔をされたのはこちらだと気づくに時間はかからなかった。敗を認めて珈琲をくれてやろうと蓋を開ければ一滴たりと飲みやらない。強者の余裕を感じる。
 もう一方の手で胴の真中を掴んでやると強者は忽ち手足をばたつかせ、放せ離せと鎌を振る。暫くその様を見て、草叢に置いた。もう夜だったので後光を失った蟷螂を再び見つけることはなかった。

 祭の帰りに見た蝉、脱皮の瞬間。かつての衣を脱ぎ捨てて乳白の肌を露わにす。俄かに蛍光緑のそこは何やら神聖に感じる。これから鳴き疲れて死ぬまでの数日間をこの蝉は何を思って過ごすだろう。
 朝のラジオ体操。会場の寺へと向かう道すがら、昨夜と同じ場所に抜け殻はあった。もう誰の物でもない古びた茶味のそれはがしりと壁に張り付いて佇む。無理に剥がして手に取ればあまりの軽さに無機の趣き。魂が輝くのを見た夜とその残り香の朝。
 あれから数年、何度となく繰り返し訪れては去る夏の中で、もうきっと生きていないだろうあの蝉が何でか未だ、季節を問わず鳴いている。