モンターグの貸出票

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寓話の新訳

 シエパドは街中を練り歩いた。誰にも聞こえるように彼は叫ぶ。
「狼が出た!狼が出たぞー!」
 街の人々は狼を怖れていた。

 狼、それはかつて国家に所属した憲兵治安介入部隊の成れの果て。事は十年を遡る。当時の国家主席タップドッグの命令によって敵対する隣国に派遣された。本来自衛的機能として組織された彼らに戦争経験はなかったものの、自衛とはいえ高い水準にある戦闘技術を備えており、隊員の中には半機械者、つまり改造人間も何名かあって、作戦は順調に突き進んだ。彼らはただ作戦に従順であった。国家に属するものとして戦争の是非を問うことなく任務を遂行した。そして彼らはそれを成し遂げることなく、隊員の多くは敵地でその生涯を閉じることとなる。自国から派遣された支援物資を積んだ別働隊と合流するために合流地点へと向かった。しかし彼が受け取ったのは無数の発砲と残酷な裏切りであった。度重なる戦闘の日々による疲弊と同志からの不意打ちに隊員達は従来のパフォーマンスを発揮出来ず、大半が無惨に死んだ。タップドッグは敵国鎮圧に加え、あまりに肥大化した暴力の温床たる狼部隊を怖れ、共々葬り去ろうと計略していた。その思惑通り隊員は多くの犠牲を払い、再び揃って自国の地を踏むこと叶わず作戦は終結を迎える。
 それから幾年かが過ぎた頃、タップドッグが暗殺される。加えてタップドッグ政権の閣僚達もむざむざと殺され、国は非常事態宣言を発令した。首謀者は明白であった。タップドッグ殺害後、マスコミに送付されたビデオテープに映っていたのはかつて国の裏切りによって滅ぼされた狼達であった。隊長だったスロウプはその映像の中で全国民抹殺を宣言し、その発言通り、狼の残党による侵略が開始される。国民は抵抗する術もなく一方的に殺された。なんの罪もない子供とて対象外とは認められず、狼は最悪のテロリストとして国中から怖れられることとなる。

 シエパドは娼婦街にまでやってきた。裏通りの暗がりで木箱の上に腰を下ろし虚ろな眼をした少女がいた。シエパドは彼女にシロツメグサで拵えた花冠を手渡そうと両手を差し出した。しかし少女にはシエパドが写らないかのように目を合わすことすらせず足をぶらつかせるだけだった。シエパドが笑わない少女と出会ったのは一年前。この通りで彼女は倒れていた。体中痣だらけで呼吸も弱々しい。シエパドはすぐさま彼女を背負って祖父の家を訪ねた。シエパド唯一の身寄りである祖父は長年町医者を営んでおり、孫の連れてきた患者を治療した。傷が癒えても彼女は一言も発さず、シエパドは今も彼女から言葉を聞いたことがない。彼女がみなしごで娼婦として生計を立てていることは彼女の娼婦仲間から聞いた。彼女達は口々に「ガキの手に負える子じゃないよ」とシエパドを諌めた。しかしシエパドはこの妙縁をどこか使命と感じ、なんとか少女を笑わせてやりたいと思った。試行錯誤は徒労に過ぎて、自分と年のそう変わらない少女の痛々しさを嘆いた。シエパドは決して諦めず根気よく話しかけた。一方的に話題を振るだけで、それは会話とは呼べなかったが、シエパドは少しずつでも少女に感情が戻ることを期待した。
 その日、シエパドはテレビから流れる《狼事件》の報道を目にした。少女が笑むことも出来ないこんな世界ならいっそのこと彼らに滅ぼされてしまえばいい、そんなことを思った。

「狼が出た!狼が出たぞー!」
 シエパドが初めて嘘をついた日だった。事件を知る街の人達はシエパドの喚起に慌てふためいた。どうして良いのか分からない人々は落ち着かずよくわからない行動を繰り返し混乱した。シエパドが嘘をついた日は少女が初めて笑った日だった。街全体が不穏なサーカスとして戯けるのが少女には可笑しかった。シエパドは初めて見る少女の笑みに救われた気がした。だから彼は度々嘘を吐くようになってしまった。

 街の人はシエパドを懲らしめてやろうと大広場の天使像に縄できつく縛り付け「feed wolfs」と書かれた紙を貼り付けた。シエパドの祖父も街を混乱させた罪は重いとして反省するまでこのままだと叱りつけた。シエパドは何より少女の元に行けないことが辛かった。自分が顔を見せない間に彼女の感情はまた死んでしまうのではと案じた。必死にもがくも縄はきつく縛られており解けそうにもない。絶望するシエパドの前に一人の男がやってきた。
「狼に餌をやる、か。おもしろいガキだな」
 不敵に笑う男が着ている臙脂色の軍服は何処かで見た覚えがある。男は身を翻し街中に消えていく。シエパドは身を震わせた。
「狼……!!狼だ!狼が出たぞー!」
 シエパドの声は誰にも届かない。今まで幾度となく少女の為に吐き続けてきた嘘は、この期に及んでも嘘としかならなかった。
「本当なんだ!嘘じゃない!今度こそ本当なんだってば!」
 シエパドは泣き叫んだ。一発の銃声が響く。そこから瞬く間に街に火が上がった。もし自分があの時嘘をつかなければ、街の人は死なずに済んだかもしれない。そう思うとシエパドは死にたくなった。しかし今の自分にはそれすら許されない。祖父のこと、そして少女の身が気がかりだった。大広場に人が逃げてきた。目が合う。それは級友だった。彼はこんな中でもシエパドをそのままにしておけないと感じたのか近くに寄って縄を解こうとした。
「ごめんなシエパド」
「ぼくが悪いんだ」
「俺たちこれからどうすればいい?」
「わからない、ごめん」
 縄が緩みかかったとき級友の体が前のめりに倒れかかった。崩れ去る級友の背後に狼が一匹、禍々しい銃口から白煙を上げていた。シエパドは縄を振りほどき、友人に充分な別れも告げれぬままその場から逃げた。後ろに涙が流れる。
 シエパドの家は燃え盛っていた。玄関口で倒れた祖父はシエパドを助けに行こうとしていたのだろうか。もうその答えも聞ける日はこない。力ない祖父の身を抱きかかえ何度も謝った。シエパドにはまだ残したままのことがある。娼婦街に向かって走った。
 裏通りを出たところに彼女はいた。その前に狼もいた。シエパドは叫んだ。
「逃げろー!!」
 ところが少女は狼の方へと歩み寄る。
「何してる!逃げろってば!」
 少女は微かな声量で言った。
「おと……さん」
 銃声が響く。少女はそのまま背から倒れた。シエパドには飲み込めない。ただどれだけ流しても目から流れ続ける熱いものの勢いが増す。
「うああああああああ……!!」
 シエパドは狼に向かって突進した。体が勝手に反応する。
「クソガッ!」
 二人は揉み合いになり、やがて発砲音が鳴った。地面に滴る血は狼のものだろう。シエパドの手には重い鉄の塊があった。震える。もう一発、狼に向けて放つ。ビクンと跳ねてそれ以上は動かなくなった。次に自分に向けて引鉄に指を据える。動かない。情けなかった。シエパドは鉄塊を捨て少女の元に寄った。
「どうして?どうして?」
 少女は何も言わない。どこか安らかでさえあった。
「どうして?どうして?」
 シエパドは問い続けた。諦めなければ返事が聞ける気がした。あの日、笑ってくれたように。
 シエパドは再び銃を拾いあげると、まだ燃え尽きない街中に向かって歩き出した。

 未だに狼の侵略は各地で起きていた。しかしそれは一方的な殺戮ではなくなっていた。彼らは何度かの侵攻を失敗した。その渦中に一人の若い男が目撃されている。彼に助けられた者達の証言によれば「別にあんたらのためじゃない」と言ってすぐに姿を消してしまったという。それが本心かはさておき、狼による被害は年々減少の傾向を辿っている。

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