モンターグの貸出票

返却期限を過ぎました。

六月二六日

 はじめての読書会。一応何回か読んでノートにまとめたり、持参した件の課題本や同作者の別作品も一度と取り出すことなく終了しました。この「はじめて感!」。

 読書会一割、身の上話九割。これは友達とお酒を飲んだだけでは?という問いに対して私はこう答えねばなりません。

「そうです!」

 調子に乗って会の後ラーメンに行ったところ最初の二口で満足、あとは佳境のフードファイトで胃もたれと向き合いながら最後の海苔二枚が食べきれず「許してほしい」と唱えた私でした。

 

 ともあれ折角読んだ作品について雑感を残しておこうと思います。以下ネタバレを含みますので未読の方はご注意ください。

 此度読んだのは今村夏子の『あひる』。『こちらあみ子』で作家となった今村夏子の待望の新作です。彼女は『こちらあみ子』を書いた後、半引退状態となられていましたが二年ぶりに活動を再開し、書肆侃侃房発刊の文学ムック『たべるのがおそい』収録作の一つとして発表されたのが『あひる』です。

 物語は主人公の「わたし」の視点から飼っているあひるを中心にその周囲で起きる事柄を描写しています。

 「のりたま」は知り合いから譲り受けたあひるで、名付け親もその以前の飼主である知り合いです。のりたまを飼うようになってから家にはあひるを見るために子供が集まるようになります。「わたし」の母親は子供達からあひるの名前を聞かれて思い出せず、のりたまはその場で「ガッちゃん」と命名されてしまいます。その様子を見ていた「わたし」はあひるの小屋に名前を書いてやるのですが、この描写はあひるの「のりたま」がそれまで家族というよりかはどことなく物として認知されていたことを思わせます。他人の付けた名前、それを思い出せない。母よりはあひるに対して関心のある「わたし」もそんなことがあってはじめて名前として「のりたま」を意識するのです。

 この家族の背景として「わたし」の父母は孫の存在を希求しています。「わたし」は未婚で、離れて暮らす弟も結婚していますが子供はいません。そんな時にやって来たあひるが子供達を呼び寄せるようになり、父母はどことなくその子達に孫というキャラクターを投影し、空いた穴を埋めるようになります。この時から家族にとって「のりたま」はなくてはならない存在となるのです。

 ある日、のりたまは姿を消します。母に聞けば父が病院に連れて行ったとのことでした。のりたまが不在となると比例して子供も姿を見せなくなります。しばらくしてのりたまが家に戻るとまた元のように子供達も戻ってくるのですが、この時「わたし」はのりたまに対して違和を覚えます。戻ってきたあひるは入院以前ののりたまとは違う特徴の見られるあひるだったのです。しかしながらそれを気に留めている者は誰もおらず、のりたまを見にやってくる子供達を迎合するという様子が当たり前のように繰り返されます。

 次第に子供達は別の部分に関心を寄せるようになります。家族の家を勉強する場として使用するようになり父母もそのことに対してやぶさかではありません。なので再びのりたまが入院することになっても勉強する為に家を利用していた子供達は離れていくことはありませんでした。さらに父母は子供達を繋ぎ止めることに執心し、お菓子やゲームを用意するようになります。「誕生日会」を開くと言ってどこの誰かも知らない子供のためにせっせと料理を準備する母親には子供達に固執する狂気さえ感じられます。三度戻ってきたのりたまはまた「別ののりたま」でした。

 家族にとって、子供を呼び集められるのであれば、それはどんな手段でも良かったのです。きっかけとしてあひるがそれを呼び込んだわけですが、子供達の関心が別のものへと移り変われば家族がそちらに合わせるような努力を見せます。次第にあひるへの焦点はずらされて子供達のために奮闘する家族の狂気じみた執着が浮き彫りにされます。しかし子供達はその努力などつゆ知らず単純に居心地の良い場所として家族の家を利用し、奇妙な利害の一致は一般的な視点から見て不穏を醸し出し始めるのです。行き過ぎた母の努力は徒労に終わり誰も来なかった誕生日会、膜の張ったカレー鍋は寂しさの象徴として大人の見栄を丸裸にしています。

 そんな夜、深夜を迎えた家族の元へ一人の子供が訪ねてきます。子供は家の鍵をここで失くしたといい、探させてほしいと頼みます。しかし鍵はどうしても見つかりません。けれど子供はもうそのことは良いとして、残飯のカレーとケーキを食べたいと言います。父母は喜んでそれを与えると子供は嬉しそうにたいらげて足早に去っていくのです。この奇妙な子供を「わたし」は「のりたまだったのではないか?」と考えます。これは読者の立場からも想像できるのですが、翌朝あひる小屋にそれを確かめにいく「わたし」は確信こそ得られないものの、のりたまに感謝を述べます。この時はじめてのりたまがただの客寄せ装置ではなく血の通った生き物であるのだと認めを受けるのです。やがてのりたまは死を迎えるのですが、それはもう挿げ替えられるのではなく生命の終わりとして弔われることとなります。しかしかつての罪を今村夏子は簡単に許しません。のりたまの墓に手を合わせる家族のもとへ小さな女の子がやって来て「その墓の下には三ひきののりたまがいるのか?」と確信を突くのです。父母も「わたし」も少女の問いに答えることができません。どれだけ見栄を剥がされようとも大人は簡単に恥を認めることが出来ない。それはのりたまの死を受け入れても変わりませんでした。少女の純粋さはどことなく『こちらあみ子』のあみ子を彷彿させます。あみ子という少女は生まれつきちょっとだけ頭が弱く、それゆえに物事に純粋な子供でした。そしてその純粋さから来る都合の悪い正義を彼らは無視して生きてしまうのです。そんな罪はあひるが不在となってもシコリを残し、家族の家はいつしか不良のたまり場として利用されていました。そこに弟が帰ってきて彼らを追い出し、赤ちゃんが出来たことを報告します。父母はもう得体の知れない子供達に期待する必要がなくなり恍惚とした表情を浮かべます。家は改築され同時にのりたまの小屋は取り壊されます。家族の態度は最後まで変わることはありません。自己の欲求が満たされるならば自身の疲労さえ省みず、不要と判断されたものは排他される。こうなってくるとあの深夜に現れたのりたまだったかもしれない子供がどうも報われない気もするのですが、自分達にとって何が大切か、そのことに優先順位がつくのは実際罪でもなんでもなく、現実でも当たり前のように行われているのです。読者は全ての背景を知っているからこそこの家族に対して抱く思いはあるでしょうが、家族にしてみれば何の悪意もなく、むしろそれこそが家族の幸福であるのです。これを裁くことが可能な者は存在しません。のりたまの想いもあみ子に似た少女の指摘も今となっては取り壊されたあひるの小屋と同じように消え去る宿命なのです。あひるが暮らした場所にはブランコが建ち、そこでは生まれてくる赤ちゃんが遊ぶことになるでしょう。家族同様それまでの背景を知る者としてそう出来る立場にありながら、その微笑ましい光景を前にあえて命の平等さを問うのは愚かだと感じるならば、我々もまたこの家族同様に人間なのです。

 

 

こちらあみ子 (ちくま文庫)

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文学ムック たべるのがおそい vol.1

文学ムック たべるのがおそい vol.1

 

 

 

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