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モンターグの貸出票

返却期限を過ぎました。

ジョイスノート:1「姉妹」

ジョイスノート

 故あってジェイムズ・ジョイス『ダブリンの人びと』(ちくま文庫 米本義孝訳)を再読しています。これはいつだかの誕生日に友人が贈ってくれた一冊で、今一度手に取ってみると表紙は擦れて帯は一部破れてしまっています。なぜ今ジョイスかといえば最初に申し上げたように一応理由はあるのですがここで敢えて説明することでもありません。ただこうして再び向き合う機会に以前は残さなかった感想を置いておこうかと思いました。一度読み終えてから六年ばかりが経ちます。気付かぬうちに何か自分の中で変化があったことを期待して一篇ずつ読んでいきたいと思います。

こんどこそあの人はだめだ、三度目の卒中だから。

 冒頭を飾るのは「姉妹」という一篇です。物語は少年の視点を軸として、その目に映る外界の様子と彼の内的心情を描いています。引用部分の「あの人」というのは少年と交流のある老神父を指し、少年の言葉はその死を仄めかしています。

毎夜、その窓を見上げるたびに、ぼくがそっとつぶやくのは〈パラリシス〉という言葉だった。それはいつもぼくの耳によそよそしく響いていた、まるでユークリッド幾何学の〈ノーモン〉という言葉や、教義問答集にでてくる〈シモニー〉という言葉のように。しかし今では、それはまるでなにか邪悪で罪深いものの名前のように、ぼくには響いてくる。それはぼくを恐怖でいっぱいにするが、それでもそのそばに寄っていって、命を奪うようなそいつの仕業をみてみたくてたまらない。

 この一文の流れから、少年の信仰心、つまり神父に対する尊敬の念が少しずつ失われつつあることに察しがつきます。

ぼくは口にオートミールをいっぱい詰め込んだ、怒りの言葉が口をついて出そうだったので。小うるさい赤っ鼻じじいが!

ただそれでも他の大人から神父について「彼の教えは子供によくない影響を齎す」などと悪く言われることには我慢がならないようで心の内では神父を悪く言うコッターじいを罵倒し認めたくないという少年の意地と幼稚さが見え隠れします。そうやってどこかでは神父を擁護しながら神父の死を希求している節さえ見られる少年の感覚は、まさに引用部にもあるように少年自身が夜空につぶやいた(ここでは神父に向けられた言葉ですが)〈パラリシス paralysis〉という言葉、つまり麻痺を表しています。自己の神父に対する態度とコッターじいの漠然とした考えがほぼ同一線上にあることに少年は気づきません。何にせよ神父は病魔によって肉体的な死に向かうのと同様に少年の中でもその神秘性や畏敬の念が薄れて精神的においても死につつあるのです。

日なたを歩いていきながら、ぼくはコッターじいの言葉を思いだし、夢の中であのあと何が起こったのかを思いだそうとした。思いだしてみると、長いビロードのカーテンと吊り下がった古風なランプがあった。はるか遠い、風習が一風変わったどこかの国にいたような気がしたーーペルシャにいたのだ、とぼくは思った……。

 少年はやがて神父の死を現実のものとして納得するに至り、同時に戸惑いをおぼえます。これまで師事してきた神父は少年の中ではすっかり神秘性を取り払われたみじめな存在でしたが、それでもその喪失は、まだ成長の途上にある少年にとって葬り去ることが出来ないでいるのでした。少年は夢の中でそのもやもやから逃げ出すように「はるか遠い、風習の一風変わったどこかの国」へと自らを導きます。この描写はフランソワ・トリュフォー大人は判ってくれない』の終盤になんとなく似ています。母親から見放された少年が鑑別所を脱走し海を目指す姿に。

 神父もまたコッターじいとは別の方向から少年を抑圧する存在でした。神父が少年に教えた様々な知識、そこには知的強者の性癖としての善意といった側面があり、それに気づきだした少年は次第に神父への態度を信頼から疎ましさへと変化させていくのです。精神的支柱の喪失による少年の知的覚醒、超自我の形成。その完成を促すのがいよいよ登場する「姉妹」です。神父を世話していたイライザとナニー。イライザは神父の死に際が如何にみじめなものであったかを語り始めます。対して妹のナニーは無言です。ナニーには今にも眠り落ちそうな雰囲気の描写がありますが、どことなく死に行く神父の姿と重なります。ナニーが演じ、イライザがドラマとして語る。神父の最後という演目に対して観客である少年は、神父がもはや越えるべき存在でしかないことを確信するのです。

ぼくにはわかっていた、あの老司祭は、ぼくたちがさっき見たとおり、ひっそりと棺の中で、おごそかで獰猛な死に顔をして、胸には空っぽの聖杯を載せて、横たわってるってことを。

 

ダブリンの人びと (ちくま文庫)

ダブリンの人びと (ちくま文庫)