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モンターグの貸出票

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ジョイスノート:2「ある出会い」

アメリカ西部劇の世界をぼくらに紹介したのは、ジョー・ディロンだった。彼はわずかながら蔵書を持っており、《ユニオン・ジャック》や《勇気》や《半ペニーの脅威》の古い号の雑誌類である。毎夕放課後、ぼくらは彼の家の裏庭に集まり、インディアン戦争ごっこの手はずを決めた。

 さて、続く二篇目『ある出会い』の主人公も「ぼく」を語る少年です。ジョイスはこの『ダブリンの人びと』という作品を十五の短篇で書きました。そしてそれらの短篇を〈少年期〉、〈青年期〉、〈成年期〉、〈社会生活〉の四つの相に分類し順序立てて並べています。各短篇は「ダブリンの日常」の切り抜きといった以上に関わりはありませんが全体を通して見た時、それは人間の生涯、とりわけ精神の移り変わりを描いていることに気づきます。

 そしてこの「ある出会い」は先の「姉妹」同様に少年から見た大人の世界、憧憬から始まる心の変遷を描写しています。主人公の「ぼく」たちは神学校に通う生徒です。彼らもまた「姉妹」の「ぼく」と似て抑圧された世界で暮らしています。西部劇は彼らの教えからすると悪しきものであります。ジョー・ディロンの弟、レオは授業中に西部劇雑誌の所持を神父に発見され叱責を受けます。この光景を「ぼく」は「ぐずなレオ」と表現しますがもう一回りコミュニティの規模を拡げればインディアン戦争ごっこでジョー・ディロンにいつも優位を取られる「ぼく」もまたレオと同じ側の敗北者なのです。レオが叱責されるのは彼の愚鈍さから発生したとはいえ同じ遊び仲間である「ぼく」にもその罪自体は心理的に共有されるのです。

夏休みが近づくころ、ぼくは、たとえ一日でもいい、退屈な学校生活から抜けだそうと決心した。

そこで「ぼく」はレオと、もう一人の友人マーニーを誘い冒険を計画します。これには抑圧された世界からの逃避の試みと、強者としての自分を獲得するための割礼といった意味合いが含まれます。彼らは互いに六ペンスずつ貯金し《鳩の家》と呼ばれる防波堤の先にある発電所を目指します。冒険の前に「ぼく」は二人から六ペンスを徴収し、彼らには自分の六ペンスを見せて確認させます。ここにも「ぼく」の優位に対する渇望が垣間見れます。

 さて計画実行の日、約束の時間になってもレオは現れません。待ちきれない二人は彼を置いて出発を決めます。ここで面白いのがそれを決定したのがマーニーだという部分です。マーニーは「もう行こう。あのでぶ公、思ったとおり、びびりやがったぜ。」と促しますが、優位性を取りたいはずの「ぼく」は「で、あいつの六ペンスは……?」とあまりに現実的な心配事に関心を寄せます。そこに「ぼく」の本来の資質というものが現れていますが彼は気づきません。

マーニーは未練がましくパチンコを眺めており、そこで汽車で帰ろうと持ちかけてみたら、彼はとたんに元気をとりもどした。太陽が雲の陰に入ってしまい、ぼくらに残されたのは、へとへとに疲れた思いと食べ物のくずだった。

 意気揚々と始まった冒険は彼らに変化を齎すはずでした。しかしそれは幻想で、現実は彼らをトムソーヤにはしてくれません。自由の獲得は門限への心配を前に崩れ去り、結局子供であることから逃れられない彼らには保護下という首輪を外すことは出来ないのです。

 意気消沈した彼らの冒険が終わりを迎えようとした時、第三者の登場によって息を吹き返します。彼らのもとにやって来たのは奇妙な年老いた男性でした。男は彼らに対して天気について、子供時代、学校や本のこと、などを一方的に語り始め、次いで「ぼく」とマーニーのどちらに恋人が多いかと尋ねます。

一人もいないとぼくは答えた。彼は信用しようとせず、きっと一人はいるに違いないと言った。ぼくは黙っていた。

ーーじゃあ、とマーニーは生意気にも男に言った、おっさんは何人いるのさ?

 三者の会話の中で「ぼく」だけが消極的です。得体の知れない男に対しての不安が「ぼく」を萎縮させます。男の言動は徐々に異質さを増し始めて、彼が少し離れた隙に「ぼく」はマーニーに、もし名を聞かれたら「おまえはマーフィーでおれはスミスだからな。」と偽名を名乗るように促します。このことは不信感の高まりに現実を許容出来なくなってきている自分からの逃避というふうにも見れます。

 再び戻った男は、猫に石を投げるマーニーの様子を見て「鞭で打たれるべきだ」と「ぼく」に告げます。しかし聞いていくとそれは折檻だけの意味合いではないことに気づきます。

男は、自分だったらそういう少年に鞭でどんなふうに打つかをぼくに向かって述べた、まるで複雑に込み入った謎を解き明かしでもしているかのように。それが好きなんだ、と彼は言った、この世でなによりも。

 男の変態的な性癖が露わになると、もはや「ぼく」には醜い現実から逃避したいという気持ちしかありません。逃避から始まった冒険の終点でもまた逃避を望むのはなんとも皮肉ですが「ぼく」はその場を抜け出そうとマーニーに助けを求めます。

ーーマーフィー!

ぼくの声にはわざと強がっているような口調があり、自分のつまらぬ策略が恥ずかしかった。もう一度その名前で呼ばねばならず、やっとマーニーがぼくを見て、おおい、と答えてくれた。彼が原っぱを突っ走ってぼくの方へと駆けて来るときに、ぼくの心臓はどんなに高鳴ったことか!彼はまるでぼくを助け出しに来るかのように走ってきた。そこでぼくは深く悔いた。というのは心のなかで今までずっと彼を少し軽蔑していたから。

 男(=外界の現実)に絶望し、ちっぽけなプライドもずたずたにされた「ぼく」は紛れもなく敗北者でした。かつては下に見ていた同級生にすがりながら己の愚かさに気づいていきます。「ぼく」と変質者の男、形は違えど人間の醜さを浮き彫りにする物語。しかし私はこの物語に清々しさを覚えます。それは「ぼく」が気づく形で物語に結末を置いているからで、憧憬と理想を片手に虚勢を張っていた「ぼく」がこれから真に受けいれていかねばならない大切なことを知ったという意味ではこの夏の冒険も無意味なことではなく変質者でさえもその助力を成しているからです。〈少年期〉に分類される話の中では、この「ある出会い」がとりわけ未来への期待が向いている気がして好きなのです。

 

ダブリンの人びと (ちくま文庫)

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