モンターグの貸出票

返却期限を過ぎました。

ワイン農家の娘と風車小屋の住人

 あの風車小屋には誰かが住んでいて、その誰かはとても頭のおかしな人だから、わたしと弟は両親から決して近づかないようにと子供の頃から言われてきた。

 わたしの家はワイン農家で、この時期は収穫を終えた葡萄をいよいよお酒に加工していくのだ。今は衛生上の理由だといって機械が全部やってくれる。ワインを作るための機械をわたしと弟で《ベニー》と読んでいた。ベニーは葡萄の実を皮ごと潰して大きな音を立てながら水蒸気を吐いた。ベニーは随分と旧式の製造機で一度動かなくなってしまったことがある。お父さんは悪態を吐きながらベニーを修理するために畑の三分の一を手放した。おかげでベニーはまだわたしたちの家族だった。

 ベニーが休んでいた頃はワイン造りも昔のやり方で行った。わたしと弟は樽に詰まった葡萄の山をわくわくしながら踏み潰した。よりによってお母さんが着せてくれたのは白のワンピースで、お父さんはカンカンだったけれど、わたしは着替える間が我慢できなくて葡萄に飛び込んだ。ワンピースは裾のあたりから肩の方まで紫色のしみを作ってわたしはそれがまた嬉しかった。いたずらな足踏みが果実をお酒に変えていく。その年は出荷量も少なくて、殆どが地元の人に振る舞われた。いやらしい眼差しの大人達は甘い不道徳に酔い痴れて、わたしも弟もそれを見たときにはあんなに楽しかったワイン造りのことなんて忘れてベニーの快復を心待ちに思ったのだった。風車小屋に住む誰かについて頭のおかしな人だと言っていた大人達の言葉をわたしは大人達自身に見ていた。

 

「ベニー、今日も元気?」

 弟はこの田舎町を出て船を造る仕事に就いた。お父さんも後継には期待していなかったみたいで弟がその道を選んだことに反対はしなかった。お母さんも反対しなかった。お母さんの場合は反対しなかったというより出来なかったのだけれど。わたしは反対した。弟が出て行ったら誰がうちのワインを造っていくのか。「姉さんがやればいいだろ」弟はぶっきらぼうにそう言う。たしかにそうだ。覚悟のいる仕事だ。興味がなければ続かない。弟のそれは褪せてしまって、また別の色で塗り替えられようとしていた。わたしだけがあの日のしみを落とせずにいた。お父さんも出来るだけ手伝ってくれて、わたしの造ったワインが初めて出荷されるまではずっとそばで見守ってくれた。

 

 

 葡萄畑にひとり。わたしはいつものようにベニーに挨拶をすませてから工房を点検して回った。ひと息つくと視線の先には風車小屋。いつかの悪戯な気持ちが息を吹き返した。白の布地が葡萄色に染まる。

 風車小屋の扉はあっさりと開いた。埃と黴の匂いがあたりを包んでいた。壁伝いに走った階段は人ひとりがやっとの幅で、段や手摺の一部は朽ちていた。わたしはおそるおそる足を運びながらようやく最上段の近くにやって来て、天井扉に手をやった。こちらはさっきの入り口扉と違って随分とかたくなっていた。力を目一杯込めて押し上げるのを二、三度繰り返したけれどそれでも開かないので一旦下まで降りてバールを持って戻った。二回目に登った壁伝いの階段は踏み込んだ拍子に朽ち落ちて途中がごっそりと無くなって、それがちょうど中間のあたりだったので高さ的にもどうやって戻ろうか思案した。考えたところで仕方もなくわたしは天井扉を目掛けてバールを振った。最早開けるというよりは腐った木片を剥いでいるような感じだったがようやくそれは開いた。天井裏に上ると一脚のロッキンチェアが揺れていた。まるで誰かが座っているかのように小刻みに。わたしは椅子に近づこうとして足を踏み出すと、やはり彼方此方が腐った、先ほどまで天井だった、床はわたしの体重で抜け落ちて、わたしの体はロッキンチェアを目前にして腰から下が宙ぶらりんになって埋まってしまった。わたしは焦った。このまま床板がわたしの重さに耐えられなくなってしまえば、わたしはこの風車の高さから地面に叩きつけられることになる。そうなればただではすまないだろう。あれ以来元気なベニーは機械だけれど人工知能の自立型ロボットではない。いくら元気だからといってそれを動かす者がいなければどうしようもないのだ。先ずはベニーに謝った。ワインが造れなくなれば、いよいよ葡萄畑も工房も手放さなければならない。それらは誰かが引き継いで新しい味を作るのかもしれない。すっかり更地にされてしまって全く関係のない施設が建つのかもしれない。なんにせよわたし達家族の歴史はそこで終わるのだ。次はお父さんとお母さんに謝った。そこで両親の言葉を思い出す。ここには頭のおかしな住人が居たのではなかったか?随分と昔の言いつけだ。そう言っていた両親も他界してしまった。こんなボロボロの風車小屋だ。その住人だって……けれど何もしないままよりはマシだ。頭がおかしくたって構わない。一握の希望がまだあるのならわたしはそれに賭けてみたいと思った。床板を浮輪のようにして腰が挟まれたままのマヌケな恰好でわたしは叫んだ。誰か、助けてと。

「お嬢さん」

 声はロッキンチェアのあたりから聞こえた。さっきまで無人だった椅子の上には誰かが座っていた。声は老人のようにも聞こえたが背を向けたままで顔は窺えずにいた。

「お嬢さん、どうしましたか? お嬢さん」

「お願いします。挟まって動けないの! 引き上げてもらえませんか?」

「お嬢さん、私がそこまで歩いたら途中で床が抜けるでしょう。お嬢さん、万が一辿り着けても貴女を引き抜こうとした途端床は朽ちてしまうでしょう」

「そう……かも知れません。それなら誰か助けを呼んできてもらえませんか?」

「お嬢さん、私は町の人に嫌われています。お嬢さん、私は知っています。貴女もまた私を忌む者であると」

 両親はわたしと弟が悪さしないようにそう言っていたのだとわたしは思っていた。夜中に笛を吹けば蛇が出る。食後すぐに寝たら牛になる。そんなものと同じ子供騙しの戒めであると。しかし風車小屋の住人は今こうしてハッキリとわたしに身の上まで語って聞かせた。彼が狂人であるならわたしはいよいよ覚悟せねばならない。わたしは最後に弟へと謝った。彼が疲れて帰ってくる場所をわたしは残してやることができないのだ。言えばそれだけの為にわたしはワインを造り続けた。ベニーとはよく話していたのだ。弟は次にいつ帰ってくるだろう?すっかり立派になっているのだろうか?慣れない暮らしに困ってはいないだろうか?贈ったわたしのワインは飲んでくれたろうか? ベニーはいつもガチャンとかプシューとしか言わなかったけれど何となく「心配するな」と励ましてくれているような気がした。もう一度だけ弟に会いたかった。椅子の上の男が立ち上がる。ギシギシと音を立てて近づいてくる。床は辛うじて抜けない。どんどん近づいてくる。さて、わたしは叩き落されるのだろうか? 不快な侵入者には制裁を。住人はわたしのそばまで寄るとジッと顔を覗き込んだ。

「お嬢さん、私の素顔はどうご覧です?」

「え、どうして、だってお前は、わたしの、わたしの弟は事故で、だって、もう二度と、もう、会えないって、あの時、もう目を覚まさなくて、だって」

「姉さん、ごめんね」

 住人の声はすっかり弟だった。声だけではない。姿かたちもあの日、わたしが最後に見た元気な姿の弟のままだった。弟はわたしの体を見事に引き上げると寂しく微笑んだ。わたしはずっと後悔していた。わたしがもっと必死に止めていれば、弟にこの農家を継がせていれば、少なくともあんなに早くいなくなってしまうことはなかったはずだ。

 弟が乗った船は試運転中に岩礁に衝突して難破した。助けを呼ぶにも通信機器は完全に故障してしまい何日も遭難状態が続いた。ようやく救助の報せが届いた時、わたしとお父さんは弟のもとへ駆けつけた。弟は既に瀕死だった。肩から先の腕がなかった。ワケは聞かなかった。彼の最後の言葉は……

「姉さん、ごめんね」

「どうして?」

「僕は姉さんを置いて行ってしまった。自分の人生に悔いはない。けれど姉さんを一人にしてしまったのは申し訳ないと思ってる。あの葡萄畑は一人で暮らすには寂しすぎる」

「わたしは貴方が元気なら一人でも寂しくなかった。わたしは貴方が何処かで頑張っていると思えればどれだけ遠くだって寂しくはなかった! いつか会えるから……寂しいなんて思わなかった」

「姉さん、僕は姉さんに伝えなくてはいけないことがあるんだ。僕は姉さんがこれ以上寂しい顔をしているのが耐えられない。あっちなら父さんも母さんも居るんだ……姉さん、姉さんは十分にあの家を守ったよ。だからそろそろ一緒に行こう」

 わたしは唖然とした。そうすることがどれだけ楽なことかは理解できた。わたしは両親や弟に謝ったけれど彼らはそんなこと毛頭気にしていないようだ。それよりも家族仲良く暮らそうと弟は言う。彼は人生に悔いはないと言いながら彼なりに後悔しているのだろうか。彼は、弟はどうしてそんなことを言うのだろうか。わたしだけを連れて行って彼は満足なのか? 少なくともわたしはそうは思わない。何せその家族はわたしにすれば弟よりも長く共に過ごしたのだ。彼なくして、ベニーなくしての家族とはわたしの中では成り得ないのだった。わたしは途端弟の言葉が胡散臭く思えてきた。

「貴方、誰?」

 夢は幻、露わになるは骨の醜さ。住人は発狂してわたしを力づくで異界へと引きずり寄せようとした。小屋の内壁はベリベリと剥がれて住人の背後に現れた真っ黒な穴へと吸い込まれていく。

「お嬢さん!お嬢さん!此方へ!此方へ!」

 わたしは必死にしがみついて彼の名を叫んだ。いつだってそばに居てはなしを聞いてくれたのはベニーだ。わたしの寂しさを埋めてくれたのはベニーだ。彼の造り出したワインは最高なのだ。わたしにはまだベニーのワインを広めていかなければならない使命がある。だからお願い。助けて。ベニー。

「ガコン!ガコン!プシューッ!ガチャンガチャン!」

 ベニーは来てくれた。ワイン製造機が意思を持って動く姿は異様だったけれど、わたしにはベニーだけが英雄だった。ベニーは全てを吸い込む穴の中へとその身を投じた。ガコン、ガコン、プシューッ、ガチャンガチャン。すっかり姿が見えなくなっても機械音はけたたましく鳴り続けた。わたしはずっとしがみついていた。しばらくすると小屋の住人は絶叫して自らも穴へと吸い込まれてしまった。住人が姿を消すと穴も塞がってボロボロの風車小屋だけが残っていた。わたしは安堵感で気を失った。

 

 目が覚めると元通りだった。風車小屋はまだ丘の上に建っていた。お父さんもお母さんも弟もどこにもいなかった。少し違ったのはベニーが壊れてしまっていたことだ。それも仕方ないと思った。わたしを守ってくれたのだ。わたしは葡萄畑をもう半分売ってベニーの修理費にあてた。修理工のおじさんが最新式の製造機を勧めてくれたけれどわたしは断った。すっかり取れる葡萄が少なくなってしまったけれどベニーがなおるまで、わたしが踏んで造るには適量だった。わたしは敢えて白い生地の服を選んだ。一人で楽しくなっているのが少し莫迦莫迦しい。笑い疲れてベニーに目をやると彼はうんともすんとも言わなかったけれどわたしには彼の言いたげなことが伝わった。わたしは笑みを湛えて返す。

「こちらこそこれからもよろしくね」