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モンターグの貸出票

返却期限を過ぎました。

トスィーエと待つ

創作

 私は帰りを待っていた。あの人の帰りを。だけれどあの人は帰らなかった。今のところは。そう思えど「帰らなかった」と過去形の過ぎ去りし日々は私にもう希望を持たせないように一匹の犬を置いていった。名前はトスィーエ。変な名前だがあの人がつけた名前だからこの犬はトスィーエと呼ぶことにした。トスィーエはあの人に似ていた。犬に似た人、あの人に似た犬。私はそうやって拠り所を作った。本当はあの人もトスィーエも似ているところなんてなかった。犬と人が似るところなんて何もなかったのだ。トスィーエは一言だってあの人と同じ台詞を吐いたことはなかったし、あの人は鼻の頭を濡らしたりしなかった。それでもトスィーエを見ているとあの人が帰ってくると信じたくなる。トスィーエを見ているとあの人がそこにいる気がする。トスィーエがあの人を想起させるから私はトスィーエを愛せなかった。

 隣人の子供がトスィーエを可愛がってくれていた。私がトスィーエを愛せない分、少年はトスィーエに愛を教えてくれていた。動物は正直だ。トスィーエは少年に懐いた。私はそれがあの人と重なって、怒りの矛先をトスィーエに向けてしまう。どんどんとトスィーエは私の家族ではなくなった。私は飼主の責任を放棄してトスィーエを隣人の家族に譲った。その日からは一人であの人の帰りを待った。トスィーエのいない部屋は静かで広かった。トスィーエのいない部屋には私しかいなかった。あの人は帰らなかった。

 私は頭を下げるために隣家へ向かった。少年は駄々をこねた。すっかり隣人のトスィーエだったからトスィーエ自身もひどく吠えた。少年の母親が彼をなだめてくれてトスィーエは我が家に帰ってきた。

 近くの大型食料品店でトスィーエのために買ったドッグフード。有名なブランドのもので値段もそれなりにした。けれどトスィーエはそれを全く口にしなかった。トスィーエは意地を張っているのだと思った。身勝手な飼主に好きなように振り回されて怒っているのだと。しかし私にはトスィーエの愛し方がわからなかった。少年にはいとも簡単に懐いた犬は私にはまるで愛想がなかった。それでも同じ轍は踏むまいと私なりに試行錯誤を繰り返したがトスィーエの気は私には向かなかった。

 そんな日々を過ごす中で、ある日我が家に尋ね人。私はあの人ではないかと期待していた。ドアを開けると隣人の少年だった。少年は怪訝な顔つきで私を睨んでいた。挨拶もなしに少年は私の家にあがり込んでトスィーエを見つけるとその顔を撫でた。放ったらかしのままのドッグフードのパッケージに目をやると少年は私に告げた。

「お姉さん、サミュエルはあんなの食べないよ」

「サミュエル?」

「この子の名前」

「違うわ。この犬は……」

 私はトスィーエの名前を呼ぼうとして気がついた。私は一度だってトスィーエをトスィーエと呼んだことがないことに。少年はトスィーエをサミュエルと呼び「この子」と呼んだ。私にはトスィーエは「この犬」だった。少年がポケットからキャットフードを取り出すとトスィーエは心なしか目を輝かせてそれを口にした。肉の味を、噛み応えを覚えた犬。そんなことも知らない私は置き去りにされたことにも気づかず、ずっと振り向いてくれるのを待っていた。やはり私にはトスィーエの飼主たる資格はないのかもしれないと思った。

「お姉さん、また来ていい?」

「え?」

「またサミュエルを触りに来てもいい?」

 少年は少年なりに自らの分を弁えていた。それでも何とかして希望を叶えたいと私に願ったのだ。それと同時に少年は私を許していた。呆れや諦めと言えたかもしれないが私はそれを許しだと思うことにした。私は少年に言った。

「もちろん」

 

 私は帰りを待っていた。チャイムが鳴る。トスィーエはそそくさと玄関口へ走り出す。ドアの向こうには学校帰りの少年。嬉しそうな犬に嫉妬してしまう。けれどそれも一瞬の感情だ。少年の嬉しそうな顔を見るとかき消されてしまう程度のつまらない感情。

「紅茶でいい?」

「ありがとう、お姉さん」

「どういたしまして」

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