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モンターグの貸出票

返却期限を過ぎました。

墓地のあの人

 通りの向こうに墓地がある。来る日も来る日もあの人はそこにいた。伸びた髪、無精髭。背は高くがっちりとした肩が逞しい。一度も目を合わせたことがなかった。一度も口を聞いたことがなかった。あの人はいつも足下の、誰かきっとあの人の大切な人が眠る場所を見ていた。

 

 わたしが通っていた学校は田舎の小さな学校で、六歳から十八歳までみんな同じ学校に通っていた。クレア、カイン、ライオネル、ミリアルド、マキナ、変わり者のランチェスでさえ誰も仲間はずれにされなかった。わたし達は遊ぶ時はみんな一緒でが鉄則で、一番年上のミリアルドはきっと面白くなかっただろうけど一番年下のマキナにあわせてくれていた。ミリアルドの本心はわからない。彼はいつも笑ってくれていたから。決して自分を前に出さなかったから。だからミリアルドが町を出て飛行士になると言った時、わたしは辛かった。いつまでもみんなのお兄ちゃんでいてくれるはずのミリアルド。それはわたしが描いた幻想でしかなくて、やっぱりミリアルドにもやりたいことがあるのを祝福できるほどわたしは大人ではなかった。町の大通りの真上の空を飛行機が飛んで行った。ミリアルドの輝く目をわたしは切なさをもって見ていた。ミリアルドの体の向こうへと目を逸らしたわたしの視界には墓地とあの人が映っていた。その場にいた子供達ーー無論わたしだってそうだったわけだけれどーーが飛行機に見惚れる中であの人はずっと足下を見つめていた。わたしはあの人のそんな姿にどこかしら自分の面影を見ていた。わたしの切なさはあの人のそれに似ている気がしたのだ。あの人が失った大切な人。わたしがこれから失ってしまうであろう大切な人。わたしはずっとあの人を見ていたけれど、あの人はずっとわたしには気がつかなかった。

 

 日曜日。礼拝を終えたわたしは牧師様にあの人について尋ねた。

「ああ、ベスターさんのことかな?」

「毎日来ていますよね?どなたのお墓まいり?」

「イヨカ。そういうことは他人の口から誰かに話すべきことではない。そう思わないかい?」

「わたし、あの人……そのベスターさんのことが他人事に思えないの」

「イヨカには秘密にしたいことがあるかい?」

 わたしは無意識にミリアルドの顔を浮かべていた。

「ベスターさんにだって秘密にしたいことはきっと一つ二つあるはずさ。それを暴こうとするのはイヨカだって良い気はしないだろう?」

「でも……」

「さあ、そろそろお帰んなさい。お母さんはもう先に戻ってしまったよ」

 わたしは牧師様と別れた後、裏手の墓地にまわって、あの人がいつも立っている場所を探した。日曜の朝、あの人はまだいない。あの人が墓地を訪ねるのはいつも夕方だ。わたしは墓の主の名前を読み上げた。《Mia Autumnleaves》と書かれたその人とベスターさんとの関係はわからない。わたしはただ綺麗な名前だと思った。

 

 ミリアルドが町を出る日。ランチェスを除いてわたし達学舎の仲間は別れ惜しさに皆涙を零した。ランチェスだってきっと悲しかったのだと思う。他の子より少しだけ感情表現が苦手なランチェスのことは皆よく分かっていた。マキナはミリアルドのズボンを必死に抑え付けて逃げないように捕まえている。ミリアルドにしてみれば他愛のない抵抗だ。弱い力でも出来うる限り引き留めていたいとするマキナの想いは他の子も同じだった。 クレア、カイン、ライオネルの同級三人組はミリアルドと二つ違い。流石は少し大人なだけあって寂しさこそあれどミリアルドの成功を祈っていた。わたしは……わたしは……。

「イヨカ?どうした?あまり顔色が良くないみたいだ」

 いっそミリアルドがどうしようもなく悪であればわたしはきっとこんなに痛みを感じたりはしなかっただろう。此の期に及んでわたしの心配などしているミリアルドにわたしは歯痒さを覚える。もう何も残さないでほしい。もう何も与えないでほしい。もう何も奪わないでほしい。わたしはミリアルドから目を逸らしたまま押し黙ってしまった。ミリアルドのお父さんが運転する車が走り出す。ミリアルドは窓から身を乗り出し、わたし達から見えなくなるまで手を振っていた。ランチェスはそうなってはじめて泣きだすのでわたしはランチェスを抱きしめて、わたし自身の正直になれない気持ちを合わせるように共に泣くのだった。

 

 ミリアルドが町を出てからわたし達の関係は少しずつ綻んだ。クレア、カイン、ライオネルは自分達だけで遊びを発明して自分達だけで楽しむようになる。マキナもランチェスも一人で何かができるほどではなかったから仕方なくわたしが二人の面倒を見るようになった。わたしは少しだけ、年長三人組のことを嫌いになった。彼らが身勝手だとかそういうのはどうだっていい。ミリアルドがいないことが彼らの中で当たり前になっていくのが我慢ならなかった。

 わたしはマキナとランチェスを連れて川までやって来た。河原に咲くシロツメクサを摘むためだ。マキナが花冠を欲しがっていたので作ろうと考えた。ランチェスは興味なさげだったけれど一人には出来ないので連れていった。この時、わたしは先生に同行してもらうべきだった。いつもならミリアルドがいてくれたから思いつかなかった。わたしはミリアルドほど気配りが出来なかった。マキナと夢中で花を摘む間、ランチェスが川の中へ入っていったのを見逃した。気づいた時にはランチェスの姿が見つからず、大人達がやっとの思いで探し当てたランチェスはもう息をしなかった。

 ランチェスの葬儀の日は雨だった。全てを洗い流してはくれないかと願った。クレアもカインもライオネルも両親も他の大人もランチェスのお父さんやお母さんだって誰もわたしを責めなかった。けれどわたしは自責の念に耐えられずランチェスの墓前から逃げ出してしまった。わたしは下を向いたまま雨の中を走った。向かいから来る人影に気がつかずそのまま衝突して後ろに転んだ。黒のワンピースが泥だらけになってわたしは泣いた。差し伸べられた手は大きくて、握り返すと温かった。あの人とはじめて目が合った。大柄のその人はわたしを一瞬怯ませたけれど、その目の奥に見えた柔和さがわたしを安心させた。

「大丈夫かい?」

「ベスターさん、ですよね?」

「どうして僕の名を?」

「牧師様に聞きました。わたし……わたしは……」

 悲しさはいつしか嗚咽になってわたしの中からはみ出した。見ず知らずのわたしをベスターさんはただ黙って何も聞かずに抱きしめてくれた。道端に落ちた傘の代わりにわたしを雨から守ってくれていた。

 

 ランチェスが亡くなってからわたしは周囲に壁を作ってしまった。誰とも話さず誰にも自分を見せなくなった。マキナもクレア達に懐いて、いよいよわたしは一人だった。一人になったわたしにベスターさんだけは話し相手になってくれた。ベスターさんにだけは自分の話をした。といってもわたし自身孤独の中でこれといった出来事もなく、半ば妄想のような語りだったと思う。それでもベスターさんはわたしの相手をしてくれていた。わたしはベスターさんのことが知りたかった。ベスターさんはこの町の人ではない。なのに何故こうして毎日墓地を訪ねてやって来るのだろうか。

「ミアさんってベスターさんにとってどんな人だったの?」

 いつも穏やかなベスターさんの表情が一瞬曇った気がした。やはり気に触る部分なんだろうか。それでもわたしは聞かずにはいられなかった。もうわたしにはベスターさんしかいなかったから。もしベスターさんがこのことでわたしを拒絶したならわたしにはもう何も残らない。だからわたしには賭けだった。

「ミアも僕もここから随分と遠くの町で生まれた。そこもここと同じくらい小さな町で、よく似ていた。山があって川が流れていて、春になれば山女魚がよく釣れた。ミアは幼い頃から優秀で勉強がよく出来た。僕の知らない花の名前を知っていて、たくさんの言葉を知っていた。子供達は皆ミアに憧れたんだ。そのまま僕らは大人になった。大人になったミアも皆の憧れだった。僕は当然のように彼女に恋をした。ただの友達から一人の女性として彼女を見ていた。それは僕だけじゃない。同じ年頃の男友達はほとんどそんな感じだったんだ。その中でミアが選んだのは僕じゃなかった。ユヴァルっていってね、とてもいい奴だった。あいつなら仕方ないと僕も他の連中も諦めがつくほどにね。ユヴァルとミアを傍目で見ているのは正直辛かったけれど、僕はミアの幸せを祈っていた。ずっと幸せであってくれたなら僕はそれでよかった。そんな時だった。あたりで大きな戦争が起こったのは。町の男手はみんな駆り出された。僕もユヴァルも。戦争は長く続いた。振り返ってみれば三年くらいが僕らには永遠のように気が遠く感じられた。ようやく終わった時には皆ぼろぼろだった。けれど僕も、それにユヴァルだってなんとか生き残れたんだ。ユヴァルを出迎えたミアの嬉しそうな顔を見た時、それが僕のためだったらどんなによかったろうかなんて思っていた。その時は戦争ってやつの本当の恐ろしさに僕らは気づいていなかったんだ。ユヴァルの様子がおかしくなり始めたのはそれからすぐだった。ミアの綺麗な顔に痣が浮かんでいるのに気づいた時、僕は彼女を問い詰めた。誰にやられたんだってね。ミアは何も言わなかった。僕は気づいていた。隣町で仲間と飲み耽っていたユヴァルのもとへ向かっていた。僕はユヴァルの胸ぐらを掴んで、ミアにしたことを謝れと言った。あいつはヘラヘラしながら、僕にミアをくれてやると言った。その時僕の中で糸が切れた。何も聞こえない暗闇の中で僕はミアの姿を探していた。微かな光が差し込んで、その先に彼女がいるのだと思った。そこに辿り着いた時、目の前に広がったのは血だらけで倒れていたユヴァルと僕の血にまみれた拳だった。ユヴァルは一滴も酒の飲めない奴だった。あの目も背けたくなる惨状からユヴァルを救ったのが酒だった。だがそれはかつてのユヴァルをも奪っていった。僕はもっと酷い。人を殺めることに躊躇をなくしてしまっていた。僕は自分が恐ろしくなった。刑期を終えると僕は町を出た。しばらくして昔の知り合いが訪ねてきた。ミアがユヴァルの後を追ったと聞いた。彼女の両親はミアにとって悲しみを帯びた町からミアを遠ざけたかったのかもしれない。もう僕を許してくれる人は誰もいないんだ。許されたいとも思わない。どこで間違ったのか今でも時々考えるんだ。答えは出なくて、僕はただ自分が死ぬまでミアとユヴァルに謝り続けるしかないんだ。僕にできるのはそれだけだから」

 わたしは言葉を返せなかった。後悔がなかったと言えば嘘になる。ベスターさんの過去を知って、それでもどこかわたしと似ていると感じる自分の心を恥じた。わたしはどうにかしてこの大きな友人を救ってあげたかった。けれどわたしには言葉一つ投げかけるさえできなかった。ベスターさんはわたしの涙をぬぐって何かを訴えるような目で微笑んでいた。町にはあらたに草花が芽吹き始めて、少しばかり冷たい風が吹き抜けるとそこは穏やかな陽の光に照らされて、何とはなく全てのものを祝福していた。

 

 わたしはランチェスのお墓に花を添える。目を閉じて彼の幸福を祈った。再び立ち上がり振り返る。クレアが手招きしてくれていた。今日は久しぶりにミリアルドが帰ってくるのだ。わたしはうまく笑えるだろうか。わたしは笑顔でミリアルドを迎えて良いのだろうか。未だにわたし自身を許しきれていない自分がいる。

「何してんだよイヨカ!早く来いよ!」

 ライオネルがわたしを急かす。

「すぐ行く!」

 

 通りの向こうに墓地がある。あの人は今日もそこにいた。短く切り揃えられた枯れ草色の髪が陽の光で輝くその人のことを、わたしは少しだけ知っていた。

 

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