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モンターグの貸出票

返却期限を過ぎました。

巨匠と薄まな板

 オランウータンの面倒を見だして早三年。私の社会人生活は巨匠と呼ばれるハゲ猿との格闘の日々であった。

「キョショー?」

「最初はキヨシだったんだけどね。なんていうかあの風格だろ?みんな巨匠って呼んでる」

「はあ……」

「大変だと思うけどさ。まあある意味巨匠は新人の登竜門なんだ」

 そう先輩に教わる最中、巨匠は私に食いかけの林檎を投げつけてきた。果汁なのかクソ猿の唾なのかそれは私の顔に糸引いて、キッと睨み付けると巨匠はニヤニヤと笑っていた。その時から私と巨匠の戦いは始まったのである。

 巨匠は全くといって協調性がなく、キヨシだった頃に同じ檻のオランウータン、マサハルを半殺しにしたため園から個別の檻を充てがわれた。不自然な二箇所のオランウータンコーナーに園長は「まあ、そういうのもありでしょう」と気楽なものだった。朝、私の仕事は巨匠の檻を清掃だった。クソ猿はそれに備えてか前夜から糞便を我慢して、私が清掃を終える頃に解き放った。私の殺意は三日目で頂点に達し、朝、檻に入って巨匠の便意が限界に達するまでメンチを切り続けた。今にも破裂しそうな肛門を必死に押さえて呻く猿の歪んだ表情に私は至上の喜びをもって睨みつけた。すると先輩がやって来て「早く仕事にかかれ!」と一喝され、私は畜生めと巨匠に目を戻すと奴の姿はそこになく、しまったと思った矢先に生暖かさがうなじを包んだ。一日中、匂いはとれなかった。

 巨匠の前を通る子供達はふてぶてしい猿に「起きて!こっち向いて!」と声をかける。しかし巨匠は微動だにしない。諦めの悪い子供には「プゥ……」と屁をこいて返事する始末だ。けれどそれは案外子供ウケがよく、巨匠は名物屁こき猿としてエンターテイナー化していた。当の巨匠には自覚がないようなので、私は巨匠に「屁こき猿として笑われてる哀れなオランウータン」であることを教えてやると巨匠は私の胸に手を充てていやらしく撫でると一呼吸置いてから「プゥ……」と情けない音を立てた。憤怒。圧倒的憤怒!このクソ猿は私のコンプレックスにずかずかと踏み込んでビーマイベイベーしたあげくに屁を吹きかけやがった。幼き私が夢見憧れた職業はこんなクソ猿になめられる仕事だったのか。冗談じゃない!私は「このままでは猿を殺ってしまう」と一筆したためた辞表を手に先輩に掛け合った。その日の仕事終わりに居酒屋で散々説教された私はまた翌日も巨匠の檻を二回掃除していた。

 

 あれから三年。最近巨匠の元気がない。私が罵っても屁をこかなくなった。新人の登竜門だった巨匠の面倒を私は自ら先輩に願い出て今もやらさせてもらっている。なあ、キヨシ。私から仕事を奪ってくれるなよ。何回だって掃除してやるからさ。その日はすっかり綺麗な林檎がそのまま寂しく隅に転がっていた。

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