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モンターグの貸出票

返却期限を過ぎました。

シールの世界

 シールが好きです。幼き日より壁にシールを貼りまくって叱られていた私はその情熱を静かに、しかし絶やすことなく灯し続けてまいりました。

 私が小学校低学年の頃、級友の間ではシールの交換が流行していました。各々シール帳なるコレクションノートのようなものを持っており、各自持ち寄ったシールを交換するのです。

「わあ!○○ちゃんのケーキのシールんんぎゃわ愛いい!あたしの椎茸のシールと交換しお!」

「なんで椎茸やねん!」

といった具合にシールを制すもの校内を制すみたいな文化が根付いていたのです。私はシールが好きでしたがシール帳は持っていませんでした。どこかそのシール交換という事象を斜に構えて眺めていた気がします。なぜなら交換されるシールとは謂わばそれを媒介としたコミニュケーションツールであってシール自体への愛は交換されたその刹那より消失している気がしてなりませんでした。んんぎゃわ愛いいケーキのシールもなんでやねん椎茸のシールも一度シール帳に収まってしまえばコレクションの一つとして埋もれ、いつか再び交換されるまで日の目を見ないと。このようなものはいずれ興味の消失とともに捨て去られる運命を避けることが出来ないのだろうと。

 今考えれば嫌な子供でした。素直さに欠ける点は今でも残っている気がします。ですが、それでも私はやはりシールは貼られてなんぼではないかと言いたい!貼られてなんぼではないかと!シール帳に貼るというのではなく!何か自分の持っている物のワンポイントとして貼ったらんかいと!

 ここで一つ、シールが危機を救った話をしましょう。私は田舎の出身で、我々の十代といえばろくなものではなかったように思います(それでも楽しかったと胸を張る)。地元の不良に絡まれた友人達は先ず携帯電話の電池カバーを剥がれました。そこに彼女とのプリクラ(プリント倶楽部ってやつですね)なんて貼ってた日には制裁みたいな具合に理不尽な世界でした。その中の一人はプリクラこそ貼ってはいなかったのですがとあるシールを貼っていました。

「お前……なんで上戸彩のシール貼ってんねん?」

「ぼ、僕の彼女です……」

「お前なんやねん!おもろい!免除!」

 倫理を語れば許されるもへったくれもない罪なき友人達なわけですが場を掌握している不良少年が絶対の中、一筋の光明は上戸彩でした。それを僕の彼女と言った彼の胆力が理不尽な暴力を制した瞬間でありました。私は他人事のように笑いながらも、シールの持つ力に妙な感動すら覚えたと記憶します。

 

 ともあれ、シールが好きな私は当時当時の他の興味にそれを貼り付けてやることでシール欲を満たしてきました。

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 学生時代に買ったギター(愛称:風呂のタイルダンディ)にもロフトかヴィレバンで買ったペンギンのステッカーに雑誌のオマケでついていたホグロフスのシールをくっつけて貼っています。昔はもっとベタベタ貼ったり落書きもしてましたが今はこれだけ。

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 プライバシーとしてのブックカバーが逆に恥ずかしみを帯びていく具合にシールの貼り場と化しています。

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あとどうでもいいけど実家のミルタンク

 

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