モンターグの貸出票

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優等生

病的になったり、思い出して悲しみにくれたりしないでいても、人生に悲しいものがあるということを告白しなければなりません。それがなんであるかは申しあげることはむずかしいのです。

(マンスフィールド「カナリヤ」)

  

 中瀬秋は図書室で封筒に入った一枚の便箋を見つけた。それは秋が手に取った一冊の本に挟まれていた。眼鏡をかけ髭を蓄えた老人の顔写真が表紙のその本の真ん中の頁あたりに挟まれていた封筒を秋は好奇心から開封してしまう。読んでしまった今、それは後悔になった。それを書き記した主が誰かは分からなかった。封筒にも便箋にも名は連ねられてはいなかったので。ただ綺麗な字であった。それでいてワープロで記したような無機質さのない温かみのある手書きの字であった。ゆえに手紙の内容がまさしく遺書であることが秋にはいたたまれなく思えた。既に夕暮れた校舎の窓には夕陽が差して物哀しさを助長する。秋は便箋を内ポケットへ隠すように忍ばせると本を棚へと戻して図書室を出た。

 秋は自室の机で再び遺書を開いた。あまりに短い文章に書き手の人生が集約されていた。憂いの言葉はない。寧ろどれだけ素晴らしい生き様であったか、そしてそれが周囲の人に救われる形で齎されていたかということが記されている。それでもこれを紡いだ筆者は死を選ぶ。秋にはどうにも理解し難い感覚であった。果たしてどのような人物だったのか。秋は遺書の主を想像した。字が表す人物像は清廉な女性を思わせた。自分が男子であることが余計にそう思わせた。

 秋は考えた。果たしてこの遺書の主は決意のままにこの世を去ったのか。それとも今もどこかでそれを躊躇いながら生きているのだろうか。どちらにせよ手がかりはこの遺書以外になく、秋の推理は途方に暮れた。

 

「ちょっと!中瀬ってば!」

「……」

「もしもーし!シカトすか!?」

「……あ、美作さん。どうかした?」

「どうかした?じゃないわよ!あんたが言ったんでしょう?銀島先生から頼まれてる新入生オリエンテーションに向けての資料整理!暇だから手伝うって!」

「あ、そうだったね。ごめん」

「何?なんか上の空なんですけど」

「いや、なんでもないよ」

「ならいいけど。しっかりしてよね!」

 秋は考えていた。遺書の主は目の前の美作キミカのような女性とはかけ離れた人物なのだと。最初は同じ年頃かとも思ったが何かの偶然で図書室の本にそれが挟まれていただけで、実は学校関係者とかではない大人びた女性ではないかと。遺書の主は文章の中で自分がこの学校の生徒であるとは明言していない。ならばその人はいったいどこの誰なのかを考えると何も手がつかなくなっていた。美作キミカに何度も注意されながら資料整理を終える頃にはすっかり陽も落ちて辺りは暗く、街灯が帰り途を照らしていた。

「中瀬、あんたのせいですっかり遅くなっちゃったよ」

「すまん」

「素っ気な」

「ごめん」

「あんたさ、何か悩んでんの?」

 秋は思った。自分と遺書の主にだけ共有されている秘密を美作キミカに打ち明けるべきだろうかと。確証はなくとも死を自らに付随させているような今の状態が少しずつ心苦しくなっていた。何か背徳の思いがあり、それに自らも飲み込まれてしまいそうな予感が秋には重荷に感じられた。

「あのさ」

「何よ?」

「……いや、なんでもない」

「……」

 美作キミカの溜息はまだ少し肌寒い夜の空気に色こそ着けはしなかったものの、生者のそれとして溶け出すと、やがて何事もなかったように混ざって消えた。

 

 中瀬秋は出来るだけ高い場所を目指した。それは港と埋め立ての人工島を繋ぐ巨大な橋の丁度真ん中あたり。秋は真下の海を見つめた。背後では車の往来が続いて、時折大型のトラックがけたたましいエンジン音と共に風圧を起こして、その勢いに飛ばされそうになるあの遺書を秋はしっかりと握りしめていた。か細い声で、けれど言葉として、秋は今一度遺書の中身を読み上げた。走行音に邪魔されて殆ど誰にも聞こえなかった音読は最後の一行を言い終えると役目を果たしたかのように秋の手から離れ宙を舞った。しまったと思いはしたが、次の瞬間には後悔はなかった。秋は呪縛から解き放たれる思いで体が軽くなるのを感じた。風に撒かれて小さくなる一枚の紙は徐々に海の方へと吸い込まれ、秋の視力では視認できないほどのところまで飛んでいってしまった。街へ引き返すため自転車のスタンドを上げる。一度だけ海の方に視線を戻した。ずれた眼鏡を整えたところでそれはやはりもう見えなかった。

 

 

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