読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

モンターグの貸出票

返却期限を過ぎました。

赤色

 その絵の前で老人はずっと佇んでいた。陽の光も差し込まぬ屋内の展示会でサングラスをかけたまま杖をつき、傍らには孫だろうか若い女が付き添っていた。そろそろいきましょうかと若い女が老人に声をかけたが老人はその場を動こうとしない。困ったように笑みをこぼした女のどこかあどけなさが僕の胸をうつ。

「お気に召されましたか?」

 僕はそっと声をかけた。老人は僕の声の方へと振り向いて一言。

「お前さんが描いたのか?」

「そうです」

「そうか」

 そこは三人だけのような空間だった。ひどく静かで他の誰かの存在を感じさせない。僕の個展を見にきてくれたお客さんは他にも数人いたのは確かだが、それでも老人に声をかけたその瞬間からそこには僕と老人と若い女だけがそこに在った。

「さてな。儂には絵のことは何もわからん。そこに絵がかかっている、それだけしかわからんのだ」

「と言いますと?」

 僕は老人の意味深な言い回しに応えた。老人がそっとサングラスをずらして見せたその瞳はすっかり白濁して、彼の視力はさっぱり失われているのだと気付かされた。

「ごめんなさいね。お爺ちゃんは目が見えていないんです。だからさっきからあなたの絵を拝見させていただいてるのですけど見えているわけではないというか」

 女は言葉を詰まらせた。

「でしたか。いえいえお気になさらず。けれど見えない絵の前でどうして? 随分長らくここにいらっしゃると、申し訳なくも遠まきに見ておりました。よほど気に入っていただけたかと。いやはや」

「お前さんは儂が目が見えんのに何で絵の展示会などに顔を出したか疑問かね?」

「不躾ながら気にはなりますね」

「そうか」

 老人は答えを出さぬまままた黙り込んで絵の方を見ていた。

「ごめんなさい。私ちょっとここを離れますのですみませんけれどお爺ちゃんを見ていてもらえます?」

 もちろんと僕はこたえて、けれど盲目の老人を、たとえこの会の主人であるからといって赤の他人に任せて信用するのは些か不用心に思えた。

 僕の絵の前で老人は一向に姿勢を崩さなかった。ずっと真っ直ぐに視線を向けて絵と対峙していた。聞かされなければ盲目などとは思えなかった。

「あれはな、早よに親を亡くして儂が引き取った。まだその頃は儂も目が黒くて面倒ばかりかけさせられたもんじゃ。それが今では儂があれの世話になりっぱなしで……便所ひとつ足を運ぶにも儂を気にせにゃならんようにしてしもうた」

「妙な言い方をしますが、何故お孫さんは……」

「エリスという」

「エリスさんは僕を信用したんでしょうね?」

「儂がここにおるからじゃろ」

 僕は老人の言葉の意味がよく分からなかった。

「儂はそろそろあの子の幸せを考えにゃならん。いつまでも儂のことでいろんなことに億劫でいるエリスの姿はたとえ見えんでも不憫じゃと肌で感じさせられる」

「それと僕が信用された理由に何の関係が?」

「絵描きのくせに見えとるもんが儂より少ないの」

 僕は些か苛立ちを覚えた。相手は老人で健常者ではないことを考えるとそれは大人気ないことだと思えて冷静になるが、どこか僕の自尊心というか人間的な穢さをひどく揺さぶられる思いだった。

「それでもあの子はお前さんを見とった。個展なんぞ開けるような絵描きになるずっと前から」

「え?」

「いつも同じ花を買っていく客がいると儂に話してくれた。あの子が他人の話をするのはその客だけじゃった」

 僕はエリスの顔を思い出した。老人の前に掛かった絵の中の赤いドレスを着た女性は、僕が町の花屋で枯れては買いにいったポインセチアの赤さだった。何故あんなにもその赤さに執着したのかは今となっては思い出せない。ただその絵を描き上げるまで通った花屋に愛想のいい女性店員がいたことを僕は思い出していた。またポインセチアですか。そう言って困ったように笑う顔を。

「花を枯らすような男ですよ僕は」

「儂も見えん絵を見に足を運ぶジジイじゃよ」

「ひとつお聞きしても良いですか?」

 老人は僕に顔を向ける。

「あなたのその目は本当に見えていないのですか?」

 老人は少しだけ間を空けた。

「さてな」

 

広告を非表示にする