モンターグの貸出票

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蜚語蛙鳴館 - 天國の前庭 異聞 - 其の二

 山も朱づき神貢が明け、村では禁漁が解かれました。若衆は活気づき、外では舟出を祝う威勢の良い声が聞こえました。私はやはり惨めな思いでそれを聞いておりました。

 ある朝、柑橘は云いにくそうに私に告げたのです。私に代わりに漁に出るつもりなのだと。村で女が海に入ることは長い間かたく禁じられてきました。海には嫉妬深い蛟の化身がおって、女を見かければ舟ごと水底に引き摺り込んでしまうなどと伝えられていました。事実、掟を破って行方知れずとなった夫婦がいたことを村の大人ならば誰もが知っておりました。私は必死に諫めました。なにより妹を危ない目に遭わせたくなかったのです。ですが妹はこのままだと暮らしが行き詰まりになるといって聞きません。私は私のことなどよいからお前は婿をもらって幸せに暮らせばよいのだと云いました。柑橘はそれ以上何も云いませんでした。その時は分かってくれたものと信じておりました。

 普段の白粥に鯛の身が入っていたのに気付いた私は血の気が引くのを覚えました。信じ難いことでした。いくら妹が海に出ようなどとひとり宣うても、村のお偉方がそれを許す筈などございません。代々守られてきた習わしなのです。けれど妹の身体からは前にも増して潮の香りがするのでした。私は柑橘を問い詰めました。妹は涙を浮かべて何も云いません。それでも血が上った私は妹の頰を張ってしまったのです。今でも妹が私を睨んだその目を忘れません。良かれと思ってやった妹の善意を私は踏み躙ったのです。

 私は弱った身体を引き摺って久方ぶりに外へと出ました。陽の光は私の身体を貫いて、そこへ押しとどめようとします。ですが私は確かめねばなりませんでした。掟を破り妹が漁に出ることについて村長や周りの連中が了承したことが私にはどうしても納得いきませんでした。

 村長の屋敷に着くなり、私を出迎えたのは長の息子である鬱金でした。鬱金は爽やかで体格の良い、私とは正反対の男でした。

「村長殿はおられるか?」

「どうした橙さん? 悪いが親父は今おらん」

「今はどこに? 今日の漁はとっくに終わったろう。妹もそろそろ帰る頃だろうしな」

「なんだ? 随分ご立腹じゃないか」

 私は思わず鬱金に掴み掛かりました。そのとき袖から覗いた枯木のような私の腕はなんとも頼りないのでしたが、気概だけは勇んでおりました。

「お前も知っていて見過ごすのか! 村が守ってきた戒めは何のためだ!」

「履き違えちゃいけないよ橙さん。柑橘はあんたのために願い出たんだ」

「私は私のことなどどうなってもよい! しかし妹は違う!」

「……あんたこそ戒めだなんだと楯にして結局はてめえの都合じゃないのかい? 橙さん。今はもう古い因習に縛られる時代じゃないんだ」

 私の腕は簡単に振りほどかれてしまい、鬱金は子供をあやすように私に云いました。確かに妹や鬱金のような若い世代は考えも違うのやもしれません。けれど村長やその周りが許す筈などあるわけがない。彼らは知っているのです。かつて掟を破り海に出て帰らぬ人となった夫婦、それが私たち兄妹の両親であることを。当時の妹はまだ物心つかぬ赤子で、そのことを私は伏せておりました。それゆえ説き伏せようと必死な私の態度が柑橘には常軌を逸して見えたのでしょう。全てを知る村長たちならば私と同じことを云う筈なのです。

「なるほど……そうだったのか……橙さん。親父には俺から伝えておこう。それはそうとあんたに会わせたい人がいるんだ。せっかくだ。あがっていってくれ」

 私は鬱金に連れられて座敷に通されると、其処にはひとりの女が正座しておりました。枯草色の長い髪。両の眼は秋の紅葉の朱さでした。肌は透けるように白く、どこか現世離れした佇まいでした。

「お初に。私、金糸雀と申します」

金糸雀さんはね、山向こうから薬を売ってまわっているそうなんだ。ちょうど橙さんの話をしておったんだよ」

「ではこの方が? なんでも心臓を患っておられるとお聞きしました。よろしければお試しいただきたい薬がございます」

 私は金糸雀と名乗る女の垢抜けた美しさに見惚れていたのに気づき、慌てて言葉を継ぎました。

「薬……でございますか?」

 私の病は心臓にありました。そこが弱って身体に上手く血を巡らすことが出来ぬというものです。村長が連れてきた医者も手放した難病で、ゆえに金糸雀の言葉には些か疑いを持ちました。皮膚を裂いて臓を弄ると云われたほうがまだ私には信じられた。それが薬ひとつでどうこうとは到底思えぬのでした。

「ええ。これはまだ世に出回らぬ貴重なものです。ですから訝しむ心中も私はお察しします。なのでおひとつ特別に差し上げますからよろしければお試しください。それできっと良い兆候が見られると私には自信がございます。そうでなければお忘れください。もし私の申すとおりであれば今一度お声かけくださいまし」

 私は家に戻る道すがら、ずっと金糸雀の顔を浮かべておりました。恥ずかしながらこのような身体で色恋など遠に諦めた私でしたが、それがどこか疼くようでもどかしいのでした。

 家に着くと妹が飯を拵えておりました。互いに交わす言葉もなく私は別の靄を抱えたまま床に就き、金糸雀から貰い受けた薬の包みを見つめておりました。

 

 私は次第に男の独白に惹かれているのに気付いた。脅されて聞くより他ないといったつもりだったが、今や芝居の客のように固唾を飲んでいたのだ。さてこの男の罪とは如何なるものだろうか。私は推理を巡らせるも未だ不可思議に包まれて、次は? それで? と期待するのだった。懐から燐寸を取り出して火を灯す。咥え煙草のまま上目を遣るとぼんやり男の表情が前に浮かぶ。虚ろげで生気はない。だがその話術は私を虜にしていた。