おきあみ文庫

返却期限を過ぎました。

舞城王太郎『淵の王』

これだ。今、ここだ。

 

 舞城王太郎の長篇をきっちり読むのは二作目になる。初めて読んだのはブルータスに載った短篇で、シンプルながらももどかしい少年少女の恋愛譚にニマニマしながら読んだと記憶するが、長篇は縁あって薦めていただいた『煙か土か食い物』だ。このデビュー作にあたる一冊で舞城王太郎を語るのはどうかとも思うが、私は率直な感想として言葉遣いの「上手い」人だと思った。一見ぶっきらぼうな語り手から垣間見える知性は隠しきれない舞城王太郎という書き手の言葉であると感じたのだ。気になったならまあ読んでみてよ、と言っておく。

 さてそれから何年も読まないまま疎遠になっていた舞城王太郎だが、何の気なしに本屋をぶらついてこの『淵の王』を立ち読みした。最初に覚えた違和感は帯に長篇と記しながら目次を眺めると三者の名前が連ねてあり、何やらその三者の物語を書いた短篇のように見えたことである。無論内容を確認しないで感じたことではあるのだが、この引っかかりを覚えておくことにして買って帰る。

 最初の一篇「中島さおり」を読んでみるのだが先に覚えた違和感は拭えない。この物語は中島さおりの物語として一つ完結する。しかし短篇だろよコレは! という感覚がどうしても取り除けないのだ。

 中島さおりという女の子はどこにでもいそうな女の子で誰でもが持ち得る正義感を秘めた女性である。噴火の被害に遭う人を助けに行けないかというちょっと変な子でもある。

私は光の道を歩まねばならない。

 彼女が無意識に吐き出したとされるこの言葉には不浄を寄せない正義が宿っているのだが何やら断片的で説得力に欠ける。や、たしかにいい子なんですけどね。

 続く「堀江果歩」では序盤、芯のある少女が自らの努力で成功を獲得するサクセスストーリーが描かれる。ほろ苦い恋愛模様などもあり、それだけでもシンプルな作話として成立している。そこから徐々に異質さが混じり合って正体不明の邪悪さと対峙することになるのだが、この構造は前の一篇「中島さおり」と共通する。

 ここで言ってなかったことが一つ。この『淵の王』の語り手は「意識」である。誰ともわからない人物が題に上がる「中島さおり」や「堀江果歩」の物語を描写していくのだ。この「意識」達は度々現れる正体不明の邪悪さと対立する「正義」として在る。しかし「意識」達は実に無力で見守ることと語ることしか出来ない。「意識」らの想いはその暗黒たる悪の前で無残にも打ち砕かれる。

 こう見ていくと救いの無い話である。それぞれの正義が得体の知れない悪意に打ち倒されるのを眺めるしかないのは読者も同じだからだ。もどかしい気持ちや切なさを私はどこかで共有することになる。

 さて最後の一篇「中村悟堂」である。コレについては読んでくれ。舞城王太郎という作家が仕掛けた意地悪な装置が音を立てて駆動し始める。よくわからない言葉の断片が紡ぎ出され「正義」の輪郭が露わになっていく。冒頭に掲げた引用を思い出してほしい。この『淵の王』はそこに辿り着くための物語であった。なるほどこれは確かに長篇だ。無闇に賛美したくはないけれどしてやられたという気になる。私は気づけば「中島さおり」や「堀江果歩」が繋いだ「中村悟堂」を応援していた。もう一つ言えばそれは初めからそうだったのだ。そしてそこに辿り着く。というわけで読んでください。

 

 さてさて『淵の王』の淵の王とは誰であるか。私はこう考える。今この瞬間ギリギリのところに立っているあまりにも弱々しい彼(もしくは彼女かもしれない)は寸分の正義によって自らの幸福とやらを保とうとしている。そんなことを無意識にやっているのだ。毎日毎日。

 

 

淵の王 (新潮文庫)

淵の王 (新潮文庫)