おきあみ文庫

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愛を知りゆく日々

 お姉が離婚して三年。我が好川家では紗雪が三才になった。紗雪とはお姉と元旦那との間に生まれた子供である。お姉は紗雪が産まれるかどうかというタイミングで離婚を決めた。原因はよく知らないが元旦那の浮気とかでそれはそれで最低なのだが、お姉はお姉でジンバブエに行くと言い残したまま紗雪を実家に置いて行方をくらましたわけで私の最低は更新された。

 紗雪は少しずつ言葉を覚え始めて私のことを「おかあん」と呼ぶ。因みに私の名前は好川蓮子。おかあんではない。紗雪はたぶんお母さんという意味で私をそう呼ぶ。そりゃあ産まれてから本当の母親と過ごしたのはほんの半年かそこらで紗雪だって乳離れも出来てない頃からウチの両親に面倒を見てこられたわけだが、私やお姉の父、つまり紗雪にとってのおじいちゃんは「おとたん」と呼ぶのに対して、母は「ばば」と呼ばれて納得いかないなどと憤慨していた。私は私で何もかもすっ飛ばしてお母さんと呼ばれることにちょ待ちょ待するのだけど、なんやかんやは紗雪の愛らしさの前に瓦解した。こうして紗雪とおかあんとおとたんとばばの若干奇妙な共同生活が始まって三年に近くなるのだ。相変わらずお姉の消息は掴めなかったが、石の上にもナントカ、好川家怒りの日々も癒えつつある。

 お姉は父に似て奔放なクソ女だった。暴走族の集会に誘われて夜な夜な家に帰らない日々に業を煮やした母が注意して来いと父を派遣したのだが、注意しに行ったはずの父まで戻らないので電話で問いただして集会現場に私と母が赴いた時には暴走族と意気投合したお姉と父がどんちゃん騒ぎしており、その場にいた私を除く全員がゴッドマザーの制裁を受けた。父は流石に懲りたようだがお姉は素知らぬふうで私は呆れたものである。

 母はお姉や父と違ってしっかりとした気質の人だが、それでも若い頃は所謂イケイケというやつだったらしく、私のおばあちゃん、つまり母の母にあたるツノ子婆曰く「スライ・ストーンと張る」ファンキーさだったらしい。御年七十を迎えるツノ子婆の口からスライの名前が出るあたり血筋だとは思うが。

 そして私だけが好川の家で平凡だった。ずば抜けた才はなく、とはいえこれといって劣ることといえば猫舌くらいなもので割とそつなくこなしてきた半生だ。お姉がクソな分私は普通を期待された。このちょっと変わった一族の中ではそれが割と苦痛なのだ。価値観が逆転するとでも言うのか真っ当に生きているつもりが何やら不正解のように思わされる。今はほぼ気にしなくなったがお姉がやらかす度に手を焼く両親を目の当たりに疎外感というものはハンパなかった。私は一体誰のウチの子なんだろう。そういう思いがあった。だがそんなことを言えなくなった。紗雪はほんとにそうなのだ。両親の顔も知らず、間違えたまま三才になってしまったのだ。私はそれでまた怒りを復活させるのだが、私は紗雪のたった一人の母親ではないのだ。どれだけお姉に罵倒詞を投げようとも偽のお母さんは偽者でしかない。だから紗雪が自らの境遇を意識し始める頃を私は恐れていた。紗雪のえくぼ、紗雪の寝顔、紗雪の涙、いつまでもこの愛がここで足踏みしてくれないかと思った。

 私は紗雪を連れて公園に出かけた。外で遊ぶ時の紗雪は輝く。鳩を追い回し捕まえられず恥ずかしそうにこちらへ向き直って照れ笑いする瞬間が尊いすぎる。私は走り寄って潰してしまうかもしれないくらいに抱きしめてあげると紗雪は嬉しそうに笑うのだ。紗雪は鳩を捕まえられなかった代わりに砂場の砂を私にくれた。それを食えみたいなモーションをする。私はあとでと言って大事そうにポケットに砂をしまう。紗雪は怒ってまた鳩を追い回す。私はそれを見て笑う。ひととおり鳩を追いかけて疲れたのか私が抱き上げると眠ってしまったので帰ることにした。家に戻ると父がテレビを眺めていた。異国で生活する人が家族にビデオレターを贈る内容の番組だ。

「寂しいんかオッサン?」

「バカいえ。紗雪は?」

「寝た。ちょっとベッドに寝かしてくるわ」

「レンコ」

「何?」

「ありがとな」

「!? 気色悪いぞ!」

「紗斗美のバカが帰ったらお前がどんだけ紗雪のお母さんだったか俺がちゃんと説明してやるから」

「いらねー。だいたいお姉はもう帰って来ないでしょ。仮にその時は私に刺される覚悟で帰って来ていただきたい……まあ、もういいんだ。この子が将来どうだとかそりゃ思うこともあるけど」

「けど?」

「だけど今は愛してやるしかない! 私はそれを信じる! お父さんだって別に間違ってなかったよ。気にすんな」

 私は変な空気になる前にその場を退散して紗雪をベッドに寝かしつけた。安らかにもほどがある。紗雪にもらった分を私はたぶん返せない。だけどそれはそれでもらっておくことにして、私は私なりのそれをこれからも紗雪にはいっぱいあげようと思うのだった。

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