おきあみ文庫

返却期限を過ぎました。

春になれば悪魔は

恋しちゃったんだ

たぶん

気づいてないでしょう?

(YUI 「CHE.R.RY」)

 

 小学二年生の頃、菊永君はこの町に引っ越してきた。小学三年生の頃、菊永君はこの町を引っ越していった。それっきりだ。それっきりという言葉は物哀しい。それっきりなにもないことだけを残していく。そしていつかを期待させる。ただそれは起きないと思ってもいる。忘れる日、思い出してしまう日、そしてまた忘れてしまう日を繰り返すなかで私はひとりだ。

 まだ雪の残る坂道で路傍の緑は見え隠れしていて、自転車で下ると風を切って冷たい。赤く染まる頰に感情はなくただ血の通った生き物である宿命を示す。さようなら菊永君。あの日私は確かにそう言っていた。

 まだ斜面が終わらないすがらに見慣れないスーツ姿の誰か。私の気を引いたのは一瞬。日常は音沙汰なく溶ける。

「力がほしいか」

 気のせいかそう聞こえた。私の車輪は動力をやめない。

「汝、力がほしいか」

「うえ? ひゃあああ!」

 変な声が出た。さっき見たスーツ姿の人が私の腰に手を回してタンデムしながらわけのわからない問いを投げかけてくるので。

「だ、誰カッ!! フガモゴフガフガ!!」

「無駄だ。我、汝のまなこのみに顕現せり。我、汝にのみ映る者」

 じゃあなぜ口を抑えるのだ。あきらかに変質者だった。

「汝の門は開かれた。汝、欲せば通ず。汝、避ければその記憶を伏す」

「フコフンゴフガフガフー」

「あ、ごめん。喋れんよね。我うっかり」

「きゃああああ!! 誰かーーー!!」

「ちょ! 汝! ちょ汝!」

 私は脇道に引っ張りこまれる。膝とすねを擦りむいた。

「いきなりは悪かったと思てます。せやけどセオリーなんですねん! 我、これでやらしてもろてまっさかいここ一つ堪忍や」

「なんなんですかあなた! 強姦!?」

「まてまて汝! 汝趣味ちゃいますやん我の。我もっとこうブルボン! って感じのが好きやさかい」

「クソだな! 人に迷惑かけて恥ずかしくないの!? 私は恥ずかしい!」

「ややや、これは取引ですやん。汝にとっても悪くない話ですしお寿司は玉(ぎょく)から入って玉(ぎょく)でしめますやん」

「何!? なんなの!?」

「せやから我、汝らの言うところ神の使いなんです。時に我、悪魔とも。要するに汝は選ばれたんすわ。一つの願いを叶えてやる代わりにその魂をちょびっと齧り取らせてやってクレメンスって話」

「何それ。めちゃくちゃ身勝手! 私頼んでませんけど」

「そりゃピザハットの注文とはわけ違いますさかい頼んだ頼んでへん関係ありまへん。確かに我一方的判断でっせ。せやかて条件聞きはりましたやろ? 別に魂齧ったからいうてすぐ死ぬわけやありませんえ?」

「でもからだによくないですよね?」

「オーガニック云々で言えばめちゃくちゃ悪いですわ。しっかし願いが叶いますんやで? こらべらぼーに奇跡体験ちゅうもんビリーバボー」

「……それって逢いたい人にも逢えたりするんですか?」

「お、汝ノッてきましたな。そんなん楽勝ですわ! ブイブイブイ! ビクトリー!」

「もし私が断ったら?」

「今日のこともこれまでのことも忘れてもらいます。汝が汝であることのすべてを」

「何それ結局死ぬってこと!?」

「厳密には違いまっせ。汝は汝ではない何処かで生きることになるんです。今のと違うお父はん、お母はんと一緒にね。まあ汝らの言うところの機種変みたいなもんですわ。初期設定は我で面倒見ますさかい心配しなや」

「今すごく面倒なことに巻き込まれた気分です」

「言うたてしかたないですね」

「帰りたい」

「言うたてしかたないですね」

「めちゃめちゃムカつくな言い方!

「言うたてしかたないですね」

「それはあるだろ! ……じゃあわかりました。とりあえず答えなきゃ学校にも行かせてもらえないんですよね。私結構めんどくさがりなんで……決めました! じゃあこうしてください!」

 

 春は辿り着いた。雪は残らず溶け去って草花が芽吹く。見慣れた町、見慣れた景色、見慣れた人達。だけど何故だか新鮮だ。季節の変わり目はこうなのかもしれない。俺は何故か誇らしげだ。何か大きな力に立ち向かって屈しなかったような気がする。ただ何処かで誰かの寂しさが聞こえた気がした。俺は一瞬だけそれを思って日常に帰る。

「きーくなーがー! おはよ!」

「ああ、おはよ」

「昔っから朝は元気ないよね菊永は」

「ほっとけ……あ」

「どうしたの?」

「いつ擦りむいたんだろ?」

「転けた?」

「いや。だけど」

 立ち止まった坂道の傍に不自然に雪が積もっていた。雪に違いなんてあるのだろうか。けれどその雪には見覚えがある。手を差し伸べようとした。けれど追いつくことが出来ないままそれは溶けてしまう。

 

 さようなら

 

 そう聞こえた気がした。