アントーニオの肉一ポンド

返却期限を過ぎました。

私のハーゲンダッツ

 おじいちゃんが呆けてしまったのは私が大学入試前のことでした。その日いつものようにおはようと言った私をおじいちゃんは怪訝な顔で見返して「どちらさんですか?」と私に言いました。もともと剽軽な性格のおじいちゃんだったので初めは冗談だと思って「やめてよー」なんて言ってたのですが次第にそれは認知症なんだということがわかりました。そうなってからのおじいちゃんはなんだかわがままになってしまって、癇癪を起こしてはお父さんやお母さんを困らせました。何度言っても飯はまだか? ドラマなんかで見たそのままでした。私はショックでした。どこかでそういうことは現実離れしたものだと思っていたし、まさか自分の家族がそうなるなんて思ってもみなかったのです。

 ある日おじいちゃんは冷凍庫を開けて「不味い、不味い」と言いながら腹立たしげに凍ったままのミックスベジタブルを食べていたのを私が見つけました。「何してんの!」と私がおじいちゃんからそれを取り上げるとおじいちゃんはいっそう不機嫌に机の上にあるものを手で払いのけたり壁を蹴り飛ばしたりし始めました。私が何度やめてと言ってもおじいちゃんはまるで赤ん坊のように聞き分けがなく、お母さんと二人でなんとか羽交い締めにしてやめさせました。私はとにかく悲しくてどうにかして前のおじいちゃんに戻ってくれないかなんて考えていました。

 また別の日、わたしが受験勉強疲れの合間に楽しみにとっておいたハーゲンダッツマカダミアナッツ味がなくなっているのに気づきました。お父さんもお母さんも知らないというし、だとすればおじいちゃんしかいないだろうと思って私は問い詰めました。

「おじいちゃん、私のハーゲンダッツ食べた?」

「……」

「食べたよね?」

「知らんよ」

「ウソ! おじいちゃんしかいないじゃん!」

「知らんよ、知らん知らん」

 私は苛立ちました。疲れていた所為もあると思うけれど、おじいちゃんが認知症になってこういうふうに受け応えしてしまうのは仕方ないことだと思っていてもおじいちゃんが憎たらしくて私はもう呆れてそれ以上何も言いませんでした。私でこうなのだから、かかりきりで面倒をみているお母さんはほんとに大変なんだろうと思いました。

 おじいちゃんはハーゲンダッツが気に入ったようで、冷凍庫からは度々それが消えてなくなりました。私はもう諦めた感じで何も言わなくなりました。けれど私の誕生日、おじいちゃんはみんなで食べるはずだったバースデーケーキを一人で勝手に食べてしまいました。汚く食べ散らかして、台所の床に生クリームがべっとりと落ちてあるのを見た私は抑えが効かなくなりました。

「いい加減にしてよ! いったいどれだけ迷惑かけたら気が済むの! おじいちゃんなんか大嫌い!」

 私は泣きじゃくって声を上げました。お父さんが落ち着かせようと私を部屋まで引きずって行くとき、おじいちゃんは怯えながら「ごめんよごめんよ、もうしませんから」と必死に謝るので私は悲しくてたまりませんでした。どこになにをぶつけたらいいのかが分からなくてどっと疲れが出ました。

 それ以来、私とおじいちゃんは目も合わさずに暮らしました。当然会話もなく、ただ同じ家に住むだけの他人になりました。

 トイレに行こうと思って廊下に出るとおじいちゃんが縁側で休んでいました。すっかり丸くなった背中と痩せ細った手足はまるでアンモナイトみたいでした。大工さんだった頃のおじいちゃんがまだ小さかった私をたかいたかいしてくれたことを思い出してみるとその面影はもうありませんでした。

 その日の夕飯、私は何気なく「おじいちゃんってアンモナイトみたいだよね」と言いました。特に悪気もなく、だからお父さんが私の頰を打った意味が分かりませんでした。普段温厚なお父さんがものすごく怒った顔で私を何度も打ちました。

「なんでよ!? 私が悪いの? お父さんだって迷惑に思ってんじゃないの? おじいちゃんあんなんなっちゃって家族だからしょうがないっていろんなこと諦めて! ちょっとくらい愚痴言ったってバチなんかあたらないよ!」

 私は本音を漏らしていました。私が何気なく言った一言にそれが込められていて、だからそれに気づいたお父さんが怒るのも理解できました。だけど私もお父さんも引っ込みがつかなくて、横にいたお母さんには手出しできないくらい興奮していました。その時でした。お父さんに向かっておじいちゃんが飛びついたのです。私からお父さんを引き剥がした後「ごめんよごめんよ! もうしませんから! もうしませんから!」と何度も何度もお父さんに向かって頭を下げていました。

「違うんですよ、お義父さん」

 お父さんも落ち着いたようで困り果ててしまいました。

 おじいちゃんが部屋に戻った後、私はおじいちゃんに今までのことを謝りに行きました。

「おじいちゃん? 起きてる? …… …… あのね、私今まで何度もおじいちゃんに酷いこと言ってごめんなさい。今日なんてアンモナイトみたいなんて言っちゃった。私ね、おじいちゃんのこと大好きだった。大好きだったのに……日にひっ……日におじいちゃんが、べ……別人みたいになっていって、ッグッグ、それが、怖くて……どうやったら前みたいにすっ好きに、好きに」

 言葉が上手く繋げれませんでした。私がおじいちゃんに対して抱いていた気持ちを包み隠さず伝えようとすると初孫の私をずっと可愛がってくれた優しいおじいちゃんの笑顔が浮かんで涙が止まりませんでした。

「日奈子」

「え……」

「何泣いとるん? たかいたかいしちゃろうか?」

 私はおじいちゃんに抱きついてまた泣き出しました。そうするとおじいちゃんは心配そうにまた私の名前を呼んでくれたのです。おじいちゃんがもう私のことを忘れないように私は精一杯おじいちゃんにしがみついて泣きました。おやすみを交わした時は二人とも笑顔でした。翌朝はまたいつものおじいちゃんだったけれど私はもう前みたいにおじいちゃんに対して嫌な気持ちになることはありませんでした。

 

 それから私は大学に進学し一人暮らしを始めました。それも慣れてきた頃、おじいちゃんは亡くなりました。私はお父さんからの電話の後、急いで帰りました。おじいちゃんの手は本当に冷たくて私は実感しました。とってもおだやかな顔のおじいちゃんを見ているとやっぱり悲しくて泣きそうになるけれど、私はおじいちゃんを笑顔で送ってあげたいと思い必死に我慢しました。葬儀が終わった後、お父さんからおじいちゃんが家の中で度々私を探し回っていたことを聞きました。ちゃんと名前で呼んでくれてたそうです。

 一人で暮らす部屋に戻った私は冷凍庫を開けます。そこにはハーゲンダッツマカダミアナッツ味。おじいちゃん、早くしないとダメになっちゃうじゃん。もう好きなだけ食べていいんだよ。