アントーニオの肉一ポンド

返却期限を過ぎました。

 もう夏になるというのに朝目が覚めて窓から見た外は辺り一面真っ白な雪原だった。前夜は鼻先に雫の滴りを感じる程度の小雨が降ってはいたが、それが一夜雪になったとてこれほど積もるだろうかという戸惑いがあった。薄い寝間着では肌寒く思わずジャンパーを取り出すとそれを羽織って外に出た。触れてみるとそれはやはり雪に違いなく冷たさが指先に滲んだ。

 電話は繋がらなかった。それどころか自分以外の人の気配が全くなかった。いつもうるさいくらいの元気な挨拶をする管理人のおばさん。隣の部屋に住んでいる若い夫婦。マンションの前のコンビニの店員。真っ先に思いついたそんな人達の不在と異様な夏の入り方が夢ではないことを少しずつ確かめながら辺りを歩いた。しばらく歩くとその無意味さに気づき、一度部屋に戻って出来うる限り冬の準備をした。

 交通はダメだった。電車もバスも動いていない。パーキングに停まった自動車も雪に埋もれて半身が隠れている。何より人がいない。住宅街を離れた駅周辺の繁華街の方が積雪は酷いようだった。建造物を埋め尽くすように積もった雪はその入り口を塞いでいる。手で掘り返そうと雪を掻き分けるもそれはもう壁のようで、元の建物は一向に見えないのだった。辛うじて入れそうなコンビニを見つけると暖をとるために入店した。中にも雪がなだれ込んでいる。レジの奥に一際積もった雪はまるで接客の姿勢を取っているように思えた。罪悪の気持ちを覚えつつ幾らかの食料品をリュックへと放り込む。この状況では咎められないだろうと卑しくも自分を肯定した。食欲の問題はこれでアテが着いた。そうなるとこの状況について考える余裕が生まれる。ただどれだけ余裕があっても知識や常識が追いつかなかった。今は夏入り前で、今まで生きてきて初めて見るほどの降雪量がそんな時に降り積もった。その理屈が立てられない。考えても仕方のないこととどうしようもない環境が合わさって現実として在る時、人は先ず笑うのだと知った。そして途端虚しさがやって来て、つもりなくとも涙が出るのだと。

 状況に馴染み始めたのか開き直ったのか、出来ることから実際に行動してみようと思うに至った。物資が調達出来そうな量販店を探して歩く。道具が少しずつ揃う中で、かつて原始の人達もこうやって文明を築き上げてきたのだろかなどと考えた。とはいえ幾らかの発明家とその知恵によって今はだいぶ難易度の低くなった世の中だ。直面する不可解な雪がなければこんな考えにも行き着く必要がないほどに。

 生きていても仕方ないような状況ではあったが死んでしまおうとも思わなかった。相変わらず孤独で、それが夜を迎えると一入だった。雪は少しずつ、けれども確実に降ることをやめなかった。いつ降り止むのかを待つのはやめた。雪に奪われきっていない建物へと避難し、昼間から試し続けているラジオの受信をそこでも試みる。いくらやってもノイズが乗るだけだった。苛立ちから破壊してしまいそうになる衝動をなんとか押し殺しながらひとり耐え続けた。

 眠っていたようだ。だがまだ生きている。避難した建物の入り口は塞がれていた。それを見越して高いビルを選んでいた。5階まで階段を昇るともう殆どの体力を使い果たしていた。それでも生きている。窓ガラスをシャベルで叩き割って出口を作った。雪の硬さを確かめながら外に這い出る。しんしんと降る雪の向こうで朝日に照らされて人影が見えた気がした。思わず叫んだ。人影の方へ「おーい! おーい!」と叫んで両手を振った。やはりそれは人だった。向こうも全身で生者であることを示していた。お互いに近づいていく。その途上で見えたのはこちらに向かってくる、確かなその人の体が頭の方から掠れて欠けていく様子だった。それは次第に前進する力を失い、やがて消え去ってしまった。期待値の高さが見た幻。それならばまだ良かったのだ。消え去る体が雪になるのを見た。空から降る雪を見上げ、足下に積もった雪を掬う。掬ったその掌が同じように雪に変わるのを見た。ここにきてこの異常な量の雪の正体に気付かされる。自分の場合は右腕からそうなり始めた。まだ思考が許されていた。精一杯笑った。それが嘘でもなんでも構わない。今しかないと思った。僕は精一杯笑った。