アントーニオの肉一ポンド

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イチジクの味

私ひとりの一生の中だけでもそれほどに世界のひろさが変つて、物の考へ方はそれよりももつともつと変つて来てゐるのだと思ふと、何か笑ひたいやうなをかしな気持になる。

(片山廣子「トイレット」)

 

 実家に帰ると全く生活が足りてくる。普段から特別考えて生きているわけでもないが、それでも独身でいるということはある程度自らの指針によって左右されるのであってその程度には決定を行っているのだ。けれども実家にいると身体を横にしているだけで飯が現れ風呂が沸く。三十を過ぎてこんなことでよいのかと思いつつも心の弱い私は成り行きに身を任せていた。

 おかげで他に余裕が感じられる。普段隙間を這うように読書する私は気力に負けてサボり気味だったものをここぞとばかりにやってみようと思う。

 私は片山廣子のエッセイ、というか単純に語り口が好きで読む。「茄子畑」なんかはそこに自分の身を置いて考えてみたくなるような心地になる。知らぬ間に手に持った石を私はどうすべきかということを。「花屋の窓」これもよい。芥川最後の恋人と言われる片山が「芥川さん」としたためるこの時彼女は恋をしていたのだろうか。

 今は便利な時代で青空文庫のサービスから二篇とも読める。私も単行本は手にしておらず専らそこで拾って読んでいる。そこから「トイレット」という一篇を選び取る。話は逸れるが同名の荻上直子監督による映画を思い出す。もたいまさこがほぼ所作だけの演技でカナダ人の兄妹を振り回す静かな物語……だったように思う。内容ははっきり思い出せないが「トイレット」という響きにその映画が引っ付いていてふと立ち現れた。

 さてさて片山のそれだが、ふと思い出されるのだと言って前半は片山が十八まで暮らした家のトイレをひたすら描写していく。想い出話はやがて昭和二十七年に戻ってくるのだが、戦後の一度焼け野原になった東京が徐々に復活の兆しにあった頃のトイレ事情とかつてを比べて憂いたりするということもなく、冒頭に引いたような感想を抱く片山。何かが変化していくことにただ笑いたいようなおかしな気分になるというような態度が私が惹かれる部分かもしれない。

 

 朝起きてイチジクを食べた。久しぶりに食べたように思う。味はイチジクのそれで忘れていなかった。忘れていたが思い出しただけかともかく昔子供だった頃より好きな味に思えた。味自体は何も変わっていないのに。