アントーニオの肉一ポンド

返却期限を過ぎました。

月の光で泣いてくれ

 仕事の帰りに立ち寄った本屋で偶然にも前に付き合っていた人に会ってしまった。もう長いこと顔を合わせていなかったのでこれといってバツの悪さもなかったけれどそれでもどうしてか緊張していた。当たり障りのないことを聞いたように思う。まるで出会う前のまっさらの他人に接するようなよそよそしさがあった。当初の目的がなんだったのか、僕は本屋にいながら本を手に取ることもせず彼女に挨拶してその場を後にした。

 玄関扉を開けると熱帯魚が泳ぐ水槽の照明がぼんやりと浮かんでいて、いつもここで魚の存在を思い出す。普段いろいろなことを忘れてしまっていて、ふとしたことでそれが浮かび上がる。本屋で彼女に会ったことで思い出されたのは、付き合っていた当時のどうしようもなく情けない僕の姿だけだった。

 魚にエサをやってから、電子レンジに弁当を入れて温めた。七〇〇円以上買ったのでクジを一枚引いてくれと店員に言われたのだが、僕はあれがどうも苦手でいつも断っていた。けれど今日ばかりはレジも空いていてなんとなく気分で引いてみると紅茶のラベルが貼られた水が当たった。無色の液体はたしかにレモンティーの味がして少し気持ち悪かった。昔はこんなものなどなかった。

 パソコンを立ち上げてメールを確認すると、つまらない広告の隙間に学生時代の知り合いからメールが届いていた。珍しいことだと思いつつ開いてみると久しぶりに会わないかという誘いだった。僕は疲れもあってかスケジュール調整しますなどと素っ気ない文面を返信してから眠った。

 翌朝は雨が降っていて、会社に傘を忘れていたことに気づいた。仕方なく近くのバス停まで走ったがジャケットに水が染みていくつも斑点を作ってしまう。五、六人を前にしてバスに乗り込むと中は既に混んでいて車内の後方で立つことになった。次のバス停で中年の女性が降りるために最後部の席から立っている乗客をすり抜けるように前方へと向かう。むせるような香水の香りに辟易しながら僕は躱せる範囲で身体を動かした。中年女性の顔が僕の肩くらいにあたってそこが白くなった。

 僕が会社に着くと同時に事務課長も出勤してコーヒーを淹れはじめた。社員全員分のカップと砂糖、ミルクの配分を確認して用意する。それが彼の日課だった。事務課長は既に定年を迎えた後に嘱託としてながらも今のポストに就いていた。本来なら正社員が後任を引き継ぐべきところを零細企業であるうちの会社は人材を確保出来ずに仕方なく彼に願い出て事務を任せていた。課長と言っても一応、彼の下にひとり若い女の子がついているだけで彼女もまだひとりではどうしようもなくそれでいて近々結婚する予定のため退職は濃厚であり、そう考えると事務課長があと何年ここにいなければならないのだろうなどと考えてしまうが彼はにっこり微笑んで「お疲れ様です」と言うだけだった。

 午前中は特にトラブルもなく、暇な時期であるためか実際仕事になっているのかもよく分からないような時間が過ぎた。食欲がなかったので昼食をとらないでいると社長とたったひとりの営業が飯に行くというので誘われたが断った。これで妙ないざこざが生まれないのがうちの良いところとも言えたが、その分互いに希薄な感じは否めなかった。事務の女の子がくれたビスコを齧って仕事に戻ることにした。

 午後からも変わらずという具合で、業務終了定時を迎える頃、事務課長は降り止まない雨を窓から眺めていた。僕はロッカーの中の傘を思い出した。帰りもバス停からして混んでいたのでまた歩いて帰ることにした。昨日立ち寄った本屋の手前で前から気になっていた本を探しにきたことを思い出しまた寄ってみることにする。今日は彼女もいない。いないことを確認していた。次に本を探すが見当たらず店長に尋ねてみれば入荷していないとのことだった。注文しておくかと聞かれたが断った。そこまで欲しいわけでもないことに気づいた。

 外に出ると雨は止んでいた。雲が晴れ月が見えていた。満月。夜にあってその輝きはこの辺りすべてを照らしているような気がした。もう思い出せることなど何もなくずっとただそれを眺めていた。なぜか一歩も動けずに立ち止まってしまった。本屋の店長が店じまいのために外に出てくる頃合いになっても僕はまだそこにいた。

「すみません。つかぬことを伺いますが昨日の十九時くらいにここにいたカーキ色の服を着た女性なんですけど、彼女ってよくここに来るんですか?」

「え? そんな人いたっけな? あなたがいらっしゃったのは覚えてますけど、なんせうちもちっさい店だから大体お顔は覚えますけどお客さんが言うような人はいなかったと思いますけどね」

「そうですか……妙なことを聞いてすみませんでした」

  僕は時折自分が何者かさえ忘れてしまう。一度は定年退職を迎えるも引き戻される形で居座ることになった。たった四人の小さな会社に毎朝誰よりも早く出社してコーヒーを沸かしながらシュガースティックの数を数えているとふとそれが一度は終わったはずだとまるで他人事のように思えるのだった。彼女がこの本屋に来ていたのはもう随分昔の話なのにそれはいつも昨日のことのようだった。もう店主も代変わりしてしまって当時の証人は僕だけだった。一人で住むには大きいからと売り払った一軒家。代わりに移り住んだマンションはそれでも広く感じられ熱帯魚を飼うようになった。

 

 

「よく来られるんですか? わたしもなんです」

「そうですか。駅前の本屋のほうが大きいんだけど落ち着かなくて」

「わかるわかる! 町の本屋さん、いいですよね」

 

 あの日と変わらないのは先程から見上げていた満月だけだった。