アントーニオの肉一ポンド

返却期限を過ぎました。

狐『ビタースイート・モラトリアム』を読む

 

 

 去る2月14日、聖ウァレンティヌス(羅: Valentinus, ? - 269年頃)、或いはヴァレンタイン(英: Valentine)殉教の日。今日においてはその日をバレンタインデーと名付け、ウァレンティヌスが恋人達の守護聖人とされたことから愛を祝う日としてきた。ここ日本ではいつからか女性が男性に向けて想いを伝えるべくチョコレートを贈る習慣が生まれ、本命以外にも渡す「義理チョコ」なども存在する。更に時代は流れ文化の変遷を経て現在では愛の捉え方も多様化し「友チョコ」なるものも現れてくる。チョコレート、その甘美にして仄かな苦味を残す菓子のような小説が、同じく令和5年の2日14日に爆誕する。

 

 

 作者は「バレンタインなので恋愛小説を書きました!!!!!!!!!」と語る。それは当然の成り行きである。何せバレンタイン、即ち聖ウァレンティヌスは愛と恋に殉じた守護聖人である。作者は自らバレンタインを名乗りいで、今世に於いてもその信念をまっとうすべく降り立ったのだ。紺、おまいだったのか。いつも愛(≒栗)をくれたのは。私はその愛を噛み締めながら今作の頁を開き始めた。

 

待ち合わせ場所はいつもの改札口で、約束の時間より早くそこに着くことが僕の日常だった。カバンの中に荷物をしまい、いつものようにスマホの画面を覗く。最後に送ったメッセージが既読になっていることを確認した瞬間、聞き覚えのある声が僕の耳に届いた。

 

 冒頭の一節である。語り手の名はトーキ。大学生。因みに運やタイミングを狙い、短期的な価格の変動を予測して取引をする投機売買とはなんら関係ない。そんなトーキの元へ一人の女性が現れる。彼女はおまたせと言い、トーキは全然待ってないからと返す。いや待ってただろ。お前、待つのが日常なんだろ。強がるなよ。とは思いつつもその健気さが伺える一場面である。

 彼女はトーキにとって先輩にあたるユウさん。タートルネックの白いセーターにベージュのダッフルコートを羽織り、寒そうに手をポケットに突っ込んで悪戯っぽく笑う2歳年上の聖女。トーキはかつて彼女を「木嶋先輩」と呼んでいたが高校卒業を機に「ユウさん」と呼び方を変えたとある。割礼である。これは決して包茎手術といった肉体的な意味合いでなく、ある種の入門、即ちワンステップの距離詰めを指す。トーキにとってはたかだか2歳とはいえ大人の女性であるユウさんを「先輩」または姓で呼んでいた段階から名前で呼ぶ段階に意味がないわけがない。トーキから見たユウさんはもう木嶋先輩ではなくユウさん、つまり(にょ)となったのだ。ところがその勇ましき道程はその先にはまだ進まない。これがトーキの慎重で、同時に臆病な小動物的性格を見事に言い表している。何せ相手はまだトーキに対して可愛い後輩どまりである。傍目からはデートに見えてもその重みは当人同士でもまだ異なるのだ。ったくじれってえな! 俺、ちょっと行ってエッチしてきます!

 

 

目的地に着くまでの道のりは、バレンタインギフトが鎮座する駅前ビルのショーウィンドウと手を繋いで歩く無数のカップルで占拠されていた。

季節柄仕方ない。そう思いつつも、僕の視線は前を歩くユウさんに向かう。カバンの底に眠ったままの荷物と、冷たいままの僕の手。たまに後ろを振り返りつつも軽やかな足取りで進んでいく、キャメルのショートブーツの足音。

 

 さて、ようやくデートが開始される。街はバレンタインシーズンでムラムラしている。ここでなぜかブーツを履いたラクダの足音が聞こえだすのだが本文にもあるように季節柄仕方ない。ユウさんが「そっち車道! 危ないよ」とトーキを庇う。一般的かはともかく男性側が身を呈すのが流れだと感じるトーキにとってユウさんにまだまだ子供扱いされているといった心情は歯痒いはずだ。軽い冗談の中にも先述したとおり二人のこの日に抱く重みには差異があり、トーキはこのやり取りの中で彼なりに決意に火を灯す。この時期に遊びに誘った理由なんだけどさあ、そう口にし始めるトーキ。ヘタクソすぎる。匂わせもクソもない。急加速。今までの慎重ぶりはどうした? TRANS-AM(トランザム)か? 機体内部(太陽炉本体及びGNコンデンサー)に蓄積されていた高濃度圧縮粒子を全面開放することで機体が赤く発光し、一定時間そのスペックの3倍まで出力上げ残像が生まれるほどの高速機動が可能となるあのトランザムなのか! ところがそこはお約束的にユウさんもひらりと躱す。天才的なまでのナチュラルボーンマタドール。カラオケが始まる。

 

大人になる。

モラトリアムには終わりが来て、僕たちの関係は不変ではなくなるのだ。

 

 アミューズメント施設のカラオケコーナーに入ったトーキはそのポエジーをいかんことなく発揮する。裏を返せば大人になれない僕らの強がりをどうか聞いてほしかったわけだがまだ届かない。とつおいつ、今日まで続いてきた関係に不安を感じ始めるトーキにとってはこのバレンタインデーで決めなければという思いがあったはずだ。逃げたら一つ、進めば二つ。もうやるしかない。無意識の悪魔の所為でラブソングを連発してしまうトーキ。店員の入室に恥ずかしくなってトーンダウンする気弱さ。因みに筆者は店員さんが入ってくるとテンション上がって声デカくなります。ついでにカルピスも頼む。それはさておきトーキとユウさんは大人の恋について語り合う。トーキにとっては当事者でユウさんにとっては相談だ。

 

モラトリアムは子どもでも大人でもない時間だ。大人になっていくユウさんの背を追いかけて生きてきた僕にも、否応なく大人になる時間がやってくる。

 

 いいかボウズ、大人になるってのはな、加齢だ。そこにはなんのセンチメンタリズムもねえ。老いて朽ち果てていくんだ。しのごの言ってねえで決めろ!

 ここから怒涛のトーキ、俺のターンが始まる。

「寒いならさ。手、繋ごうか……?」まだ弱い。

「ユウさん、ハッピーバレンタイン」もう一声!

 

「これからも一緒にいてください。今日からは友達じゃなく、恋人として」

 私はここで一時停止ボタンを押し、熱くなる目頭も押さえて「ようやった……」とかすれた声で囁いた。ビタースイート・モラトリアム、ここに成る。

 

愛の言葉は舌先を離れるまで苦く、一度放たれれば空に溶けていく。返事を聞かなくても、彼女が僕に絡ませる指で答えは理解できた。

きっと、これが大人になるということなのだ。

 


もうすぐ冬が終わり、春が来る。季節と共に僕たちの関係性が進むことを祈りながら、僕は静かに訪れる夜を穏やかに迎えた。

 

黙れ。