アントーニオの肉一ポンド

返却期限を過ぎました。

2019/05/03

 ようやく外に出ようかという頃には昼をすっかり過ぎて夕方と呼ぶのが相応しかった。気まぐれに団地の中を通り抜けてみると、一軒の玄関先でその家の主人だろうか、男性がガレージキットをラッカー塗装していた。その手前辺りからシンナーの刺激臭が漂っていた原因がそれである。昔、父親が家のはなれにある物置小屋の中でそれと同じことをやっていた。幼い私はその大きくてクサい玩具箱によく忍び込んだ。塗装途中の怪獣の手足や使わなくなった自転車、古い漫画や壊れた椅子。それらは説明されることなくそこにあって私は探偵気分にその存在させられている理由を推理する。などと今思い返して格好を良く言ってみるが単に子供から見て背徳的な空間に惹かれていたのだろう。だからかその男性がそうして一人で家庭という空間からいささか離れた、けれども完全に切り離されていない場所でこまめにスプレーを振っていることに親しみがあり切なさがあった。余計なお世話である。

 

アウトサイダー・アートを手がける女性が、「芸術とは人間であり、人間とは芸術なのです!」とまくしたてていた。五分ほど聞いていたが、彼女の言ったことのうち理解できたほんのわずかな話も、「浅薄な」とすら呼べないような代物だった。彼女の絵の構図は案の定小狡く、手の込んだ模様があり、一貫性があった。私は展示をぶらぶら見て回り、いくつかはちゃんと見たが、あとは適当に流した。だが、一時間ほどアートを眺めていると、そのあとはいつも、ものの見方が変わる ーー たとえばその日は、精神障害を持つ大人の団体が美術館に来ていて、手はねじれたり宙に浮かんでいたり、首は傾いたりしている彼らが展示の中を動き回る姿は安っぽいゾンビ映画のようだったが、知性も心も物事に対する興味もある、いいゾンビたちだった。

 

 そのまま本屋まで歩き、デニス・ジョンソン『海の乙女の惜しみなさ』(藤井光[訳]白水社)を立ち読みした。上に引用したような話が断章形式で語られる。一人の人物のエピソードによって一つの短編を形成していて基本的には淡々と静かな語り口なのだが時々地獄の入口みたいな表現が飛んでくる。ただそういうことは現実の自分に置き換えてみても毎日の中でやっていることだったりする。生活する中で大なり小なり期待したり絶望したりを繰り返してしまう。であれば上の引用の中で女性芸術家が言っているように人間=芸術なのだろうか。などと考えてはみるが、だったら何なんだという部分に行き着いて思考がとまったというか莫迦らしくなった。時々こういった米文学に見られる寂しさみたいなものが無性に心地好くなる瞬間がある。続きは家で読もうと思って買って帰ることにした。

 

海の乙女の惜しみなさ (エクス・リブリス)

海の乙女の惜しみなさ (エクス・リブリス)

 

 

 

夜明け

 

 書影が出たので言っちゃっていいのかな? と許可も飛ばして結局言ってしまうのだが、水面下(たまに浮いてきてはいたけれど)で制作されていた架空の文芸サークル「魚は銃をもてない」による架空の文藝誌が日の下に露わと相成った。もう架空と言えないところに来ているのではないかという疑問はあれどまだ予断は許されないかもしれないような気がしたりしなかったり気にしてもどうなるものでもなかったりしたりする。

 

 とりあえず僕は嬉しい。

 

 夜明けとでも言おうか、そのような瞬間に立ち会えた一人であることはなんといっても特別嬉しいと感じてしまうのが正直である。合間を縫ってコソコソと書いていたものがこうしてカタチにしていただけたことは有り難いことこの上ない。

 おもえばこの「魚は銃をもてない」という文芸サークルの活動が始まったのはもう何年も前の話で最初は四人だった。僕は自分を除くほかの御三方をSNS上では存じ上げるも直接の面識は無く、またそれが此度において拡大されてなお自分の中ではサークルの根源でもある「架空」という言葉がまだ響いていた。ところが昨夜、その書影を露わにした途端「ああ、あったんだ」なと発見がため息を漏らし内側から確かなものが込み上げた。僕は文章を寄せただけで僅かなことでしか協力出来なかったのもあって架空を実存に持っていってくれた制作班の面々には感謝を何度してもし足りないくらいである。あまり詳しことも言えないのだが、というのも未だに自分自身よくわかってないところもあり、靄のような情報で申し訳ないがこの文芸誌、五月の文学フリマ(東京?)で発売されるらしいので興味のある方は手に取ってもらいたい。僕のわかる範囲で言えば表紙からして素晴らしいので拙作は読み飛ばしてもらっても構わないから買ってくれ。僕は5億部買う。

 

 さてさて先ほども少し触れたが文芸サークル「魚は銃をもてない」の僕(達)が第1期と呼んだり呼ばなかったりする頃の想いで話を少しだけ。当初四名を連ねたそれは互いに綴った原稿を交換しあって鉛筆を入れるのは楽しいだろうくらいの素朴な活動であった。僕は密閉空間で分裂した個の人格が互いに問いを交わす中で記憶を辿りながら二人へと成長し、やがて意志が一人へと回帰する(というよりは受け継がれる)みたいな話を書いた。正直書いているうちは地獄だった。思うままならず書いては消しを繰り返し元がなんだったのかよくわからない継ぎ接ぎのような文章を今また読み返してみると苦笑いが漏れ出た。他の方の原稿が眩しくて当時は不義理にも感想一つ返せなかった後悔がある。

 それが今こうしてあらたに、そして賑やかに返り咲いてくれたことには他人事のような言い方で申し訳ないが「ありがとう」とひと言添えたいと思う。

 兎にも角にも、僕は今日、生きてきてよかったと心底思い、深呼吸してから晴れやかな気分で出社した。

鮭を焼く

 高校生活最後の日。卒業式は昼までに終わると言ったのに「いつもの癖で」と照れ笑いする母さんから弁当を受け取った。なんだかんだで落ち着いてから俺は弁当の蓋をあけた。海苔で「おめでとう」の五文字が切り抜いてあった。いつもの味だった。

 春休みに入って少し余裕が出来た。毎日叩き起こされていた俺の方が早く起きる。母さんは今日もパート仕事に出掛ける。今日くらいは俺が弁当をこしらえてやるか。そう思った。

 俺は冷蔵庫から鮭の切り身を取り出す。やったことはないが焼くくらいは出来るだろう。俺はフライパンに油をひいた。たぶんあってる。火をかけて温める。鮭の切り身を手に取った。

「目覚めなさい!」

「ッ!?」

 何処からか声が聞こえた気がした。誰もいない。気のせいか。

「目覚めなさい!」

「誰だッ!?」

「お手元をご覧なさい!」

 俺はお手元をご覧になった。切り身があった。

「まさか」

「まさかの超・展・開!」

「切り身!? 」

「目覚めなさい!」

「もう起きてるよ! ん? 夢? 夢なのか!」

「目覚めなさい!」

「わかったよ!」

 俺は鮭の切り身に従い机の角に頭突きした。痛さは青春の輝きを赤く染める。

「夢じゃねえじゃねえか!」

「夢とは言ってません。解釈に乖離がある」

「焼いてやらあ!」

「お待ちなさい!」

「命乞いか?」

「私は川を登らねばならぬ」

「切り身でか!?」

「百年生きた鮭は切り身にしてなおその魂を宿すのです」

「百年生きたのか!?」

「いえ」

「じゃあ何なんだよお前は!?」

「紛うことなき鮭です。鯵に見えますか?」

「焼いてやらあ!」

「お待ちなさい!」

「何が心残りなんだ?」

「私は鮭を全うしたかった。切り身になるでなし、川を上って子を産み、鮭たるを卒業したかった。それはならなかった。もはや切り身。されど恋しき川の流れ」

「川を見れば焼かれてくれるか?」

「おうとも!」

 俺は切り身を手に電車に乗った。降りた駅からバスで三時間。疎らになる車内はやがて俺一人を乗せて走り続けると終点に辿り着く。あたりには犬猫の気配さえない。鮭の切り身のほうがよっぽど存在感を放っていた。

「もうすぐ川ですか?」

「ああ」

「あと何分ですか?」

「二〇分くらいかな」

「そんなにですか」

「文句言うなよ」

「鮮度がありますから」

「もうないだろ」

「鮮度はあります!」

「わかったよ」

 手のひらに鮭の切り身を乗せ川縁に立つ人間を他人はどう見るだろう。人がいなくて良かった。

「どうだ?」

「ありがとう……ありがとうございます」

「泣くなよ」

「実を言いますとここは母川じゃありませんし何の思い入れも思い出もないのですが、それでもなんと言えばいいのか」

「別に言葉にしなくてもいいんじゃないかな」

「……焼いてください。もう思い残すことはない」

「お前さ、もし俺が焼かないって言ったらどうなんの?」

「微生物による分解作用で変質します」

「腐るんか」

「はい。今も徐々に。鮮度がありますから」

「じゃあやっぱ焼いて食わないとダメか」

「ここまできたら、そうですね」

「最初から捕まったりすんなよな」

「泣いてます?」

「泣いてないよ」

「泣いてますよね?」

「焼くぞ」

「お願いします」

 帰りのバスの中は生臭くて遣る瀬なかった。

カードゲーム

 この町の丘は昔から「背骨」と呼ばれていた。丘の付近の地面がゴツゴツしていたからだ。子供は背骨でよく遊んだ。小高いからだ。子供は小高いところが好きだ。普段より高いというだけでそこに在りたくなってしまう。よって背骨は子供たちの格好の遊び場だったのだ。ところがある時、子供の中の誰かが背骨で派手に転倒し大怪我を負ってしまった。地面が石の突起やらでゴツゴツしていたので少し転んだだけでも大した怪我になる。その子供は全身に縫い針を通すこととなりパッチワークと呼ばれるようになった。パッチワークがパッチワークになってから背骨の麓には立て札が設けられた。立ち入り禁止になったのだ。申し訳程度の木杭が何本か打たれてそれに鉄鎖が張られた。かといって封鎖されたわけではなく木杭と鉄鎖で出来た防柵の横をすり抜けるのは容易いことだった。ただ「入るなよ」という威圧のためだけの立て札と防柵。大人達はそれで解決だと考えた。パッチワークは懲りなかった。何度も背骨に足を運んで防柵を抜け踏み入った。それを大人に見つかって引っ張り戻される。そんなことが何度もあった。子供たちの興味は次第に都会から流れてきたカードゲーム文化に移っていった。この町の商店でもそれが販売されて子供たちはこぞってそれらを集めたりしながら一喜一憂した。カードにはレアリティが設けられていて希少価値の高いものを引き当てた者は町の子供から英雄視された。子供たちがカードゲームに夢中になるにつれて大人たちの財布事情にもいささかの影響が出たものの彼らは自分の子供が背骨で怪我するくらいなら安いものと考えたし、パッチワークの酷い手術跡を見るたびにその思いは増した。パッチワークは流行りのカードゲームを一袋も買わなかった。友人たちが熱狂する様にもまるで関心を示さなかった。それどころか性懲りもなくまた背骨に向かっていくのである。他の子供たちはパッチワークは背骨で怪我をしてから頭がイカれてしまったのだと考えていた。まるで背骨に取り憑かれたパッチワークはあそこの地縛霊になったのだと。そんなパッチワークを余所目に自分たちはカードゲームで盛り上がった。

 ある日、学校で盗難事件が起きた。子供の中でも沢山のレアカードを所持していた彼はそれを丁寧にファイリングして見せびらかすのが趣味だった。このカードゲームには対戦要素がありカードはレアリティが高いほどに強い能力を所持していた。レアカードだけで勝てるゲームといった単純なものではなかったが持っていることに越したことはない。加えてレアカードを持っているというのは子供たちにとってそれだけで威光となる。紙切れ一枚されど秘めたる力は現実に影響した。そしてそんなレアカードを綴じたファイルが紛失したのである。当然彼は発狂した。身ぐるみを剥がれた思いだった。彼の武装はそのレアカードたちでそれがなくては彼は自分があまりにちっぽけな存在に思えてしまう。教師は泣き喚く彼に自業自得なのだと諭した。学校では勉学に関係ないものを持ち込むことを禁じていた。それを敢えてひけらかすような真似をした君も悪いのだと。そんな理屈は彼には通じない。それなりに資金も投じた成果である。それが横取りされたとあっては無理もない。彼は躍起になって犯人を捜すことにした。子分を従えて他の子供たちを脅してまわる。それは町の時事問題にまで発展し、彼の両親は学校に呼び出されることとなった。しかしながらこの子供にしてその親、両親は学校に責任を追及した。自分の子供が裁かれるなど言語道断、先ずはどこかにいる盗っ人を見つけ出して処すが筋ではないのかと。教師はそれはまた別問題だと返したが彼らに聞き分けはなかった。そうこうするうちにファイルが見つかった。その見つかった場所というのが背骨だったのだ。このことである者に疑惑が向けられる。パッチワークだ。今やその背骨に足を運んでいる者などパッチワークの他にはいない。背骨にある「こぶ」と名付いた大石の影にカードファイルは隠されていた。見つかったレアカードのいくつかは湿気でふやけていた。ゲームには使用できるものの価値は大いに下がった。これにはファイルの主である彼も怒り狂った。どうしてくれるとパッチワークは詰め寄られ有無も言わさず殴り飛ばされる。パッチワークは知らないの一点張りでそれが尚のこと鼻につきしこたま殴られ蹴られと散々な目にあった。パッチワークは口の中の血をペッと吐き出して「狂ってるのはお前らだ」と彼らを睨みつけて吐き捨てた。パッチワークは犯人ではなかった。言ってしまうとファイルの主をボスと呼んで隣で一緒にパッチワークのことを嘲笑っていたねずみ顔の少年が真犯人だった。ねずみ顔はボスのことを日頃より気に食わないでいた。たかがカードで親分気取り。大して頭も良くないくせに何様だと。けれど彼はずるかった。直接不満をぶつけることなくボスの大事な物を奪ってやろうと考えた。かねてよりボスの近くにいたねずみ顔にはレアカードファイルの場所が分かっていた。水泳の授業で皆が校内プールに向かった隙を突いてそれを盗み出した。レアカードを手にしたねずみ顔は自分が王様になれるのだと一瞬考えたが臆病で狡猾な彼はそれを背骨に捨てに行くことにした。もう一人気に食わないのがパッチワークだった。ねずみ顔が好意を寄せていた級友の女子がパッチワークに惚れているという噂を耳にしたからだ。あんな傷だらけ野郎のどこが! と彼は息巻いたがそれもパッチワーク本人には伝えることなくボスのレアカードを使って貶めてやるということにした。事はあまりにもねずみ顔の思い描くとおりに運んだ。ある意味一流のカードゲーマーではないかと自尊するほどに。ボスとパッチワークが衝突してこれだけの騒ぎとなればおそらく二人とも学校によって裁かれるだろう。あとは自分がここの王様になって好き放題できるじゃないかと夢想した。必死に押し殺した感情だったが我慢しきれず口角が上がる。その時パッチワークが声を上げた。

「カードゲームで遊んでる割に頭の悪い連中だ。少し考えればわかるだろう。俺がお前のカードを盗んだとしてそれをわざわざ背骨に隠す。それもこぶの影なんて簡単に見つかる場所に。それから背骨は立ち入り禁止で誰も踏み入らないのにファイルを見つけたのは誰だ?」

 そこへ教師がやって来て付け加えた。

「彼の言うとおりですよ。君のファイルを見つけてくれたのは彼です。今朝、あの丘でコレを見つけたと」

「じゃあ誰が」

 その先はパッチワークも教師も知っていたものの口にはしなかった。ボスの隣でねずみ顔が一人震えていた。詰めの甘さ。何が一流のカードゲーマーだ。初心者どころか一度もプレイしたことのないパッチワークに状況をひっくり返された。ボスのように高価なカードを持ちはしなかったがレアリティの低いカードでも状況で活かすプレイを友人たちから褒められたこともあって彼なりにプレイヤーとして強者のプライドがあった。今やそれも粉々に砕け散った。あとはパッチワークが決め手を打つのを待つだけの身。彼は敗残した。結果を怖れた。何もかもがお終いだった。

「俺はお前と価値観が違う。そんなカード欲しくもないしどうなろうが知ったこっちゃない。だけどお前には大事なものなんだろ? 誰かにひどい真似されてそれに傷がついて怒るくらいなんだろ? だったらもっと大事にしろよ。返っては来たんだ。起きたことはそれとしてこの先どうするかを考えろ。誰かをぶん殴りゃお前の価値は守られんのか?」

 パッチワークは最後まで僕の名前をボスに告げなかった。それから少し大人になった僕らはやがてカードゲームの熱から一歩身を引くようになる。別の大事なものを見つけたからだ。僕の息子もいつかの僕のようにテレビゲームに熱心に取り組んでいる。あまり本気になるなよと言うと反発するあたり僕に似ていた。久しぶりに背骨にやって来た僕は昔のことを思い出しながら、なぜ奴がここに足を運び続けたのかを考えてみた。到底パッチワークの価値観は分からなかった。ボロボロに朽ちた立て札はもともと持たない効力に説得力を加えていた。僕は簡単にそれを乗り越えて背骨を歩いた。ゴツゴツとした地面の中で一筋だけ均されたような跡があった。まさかとは思う。これが彼の仕業で彼の目的で彼の理由だったとすれば彼は一人でそれを取り返そうとしていたのか。僕は途端切ない気持ちが込み上げた。彼が取り返そうとしていたことを誰もが狂人の行いだと思っていた。背骨で大怪我を負った彼だからこそ彼はここに責任を感じていた。だから毎日ここに来て背骨を均していた。まさかに過ぎない僕の推理が正しければそれは切ないことだった。もうここで遊ぶ子供はいないから。町にカードゲームがやって来る前のいつかの子供たちが僕の目の前を笑いながら通り過ぎていった。

ジョイスノート:2「ある出会い」

アメリカ西部劇の世界をぼくらに紹介したのは、ジョー・ディロンだった。彼はわずかながら蔵書を持っており、《ユニオン・ジャック》や《勇気》や《半ペニーの脅威》の古い号の雑誌類である。毎夕放課後、ぼくらは彼の家の裏庭に集まり、インディアン戦争ごっこの手はずを決めた。

 さて、続く二篇目『ある出会い』の主人公も「ぼく」を語る少年です。ジョイスはこの『ダブリンの人びと』という作品を十五の短篇で書きました。そしてそれらの短篇を〈少年期〉、〈青年期〉、〈成年期〉、〈社会生活〉の四つの相に分類し順序立てて並べています。各短篇は「ダブリンの日常」の切り抜きといった以上に関わりはありませんが全体を通して見た時、それは人間の生涯、とりわけ精神の移り変わりを描いていることに気づきます。

 そしてこの「ある出会い」は先の「姉妹」同様に少年から見た大人の世界、憧憬から始まる心の変遷を描写しています。主人公の「ぼく」たちは神学校に通う生徒です。彼らもまた「姉妹」の「ぼく」と似て抑圧された世界で暮らしています。西部劇は彼らの教えからすると悪しきものであります。ジョー・ディロンの弟、レオは授業中に西部劇雑誌の所持を神父に発見され叱責を受けます。この光景を「ぼく」は「ぐずなレオ」と表現しますがもう一回りコミュニティの規模を拡げればインディアン戦争ごっこでジョー・ディロンにいつも優位を取られる「ぼく」もまたレオと同じ側の敗北者なのです。レオが叱責されるのは彼の愚鈍さから発生したとはいえ同じ遊び仲間である「ぼく」にもその罪自体は心理的に共有されるのです。

夏休みが近づくころ、ぼくは、たとえ一日でもいい、退屈な学校生活から抜けだそうと決心した。

そこで「ぼく」はレオと、もう一人の友人マーニーを誘い冒険を計画します。これには抑圧された世界からの逃避の試みと、強者としての自分を獲得するための割礼といった意味合いが含まれます。彼らは互いに六ペンスずつ貯金し《鳩の家》と呼ばれる防波堤の先にある発電所を目指します。冒険の前に「ぼく」は二人から六ペンスを徴収し、彼らには自分の六ペンスを見せて確認させます。ここにも「ぼく」の優位に対する渇望が垣間見れます。

 さて計画実行の日、約束の時間になってもレオは現れません。待ちきれない二人は彼を置いて出発を決めます。ここで面白いのがそれを決定したのがマーニーだという部分です。マーニーは「もう行こう。あのでぶ公、思ったとおり、びびりやがったぜ。」と促しますが、優位性を取りたいはずの「ぼく」は「で、あいつの六ペンスは……?」とあまりに現実的な心配事に関心を寄せます。そこに「ぼく」の本来の資質というものが現れていますが彼は気づきません。

マーニーは未練がましくパチンコを眺めており、そこで汽車で帰ろうと持ちかけてみたら、彼はとたんに元気をとりもどした。太陽が雲の陰に入ってしまい、ぼくらに残されたのは、へとへとに疲れた思いと食べ物のくずだった。

 意気揚々と始まった冒険は彼らに変化を齎すはずでした。しかしそれは幻想で、現実は彼らをトムソーヤにはしてくれません。自由の獲得は門限への心配を前に崩れ去り、結局子供であることから逃れられない彼らには保護下という首輪を外すことは出来ないのです。

 意気消沈した彼らの冒険が終わりを迎えようとした時、第三者の登場によって息を吹き返します。彼らのもとにやって来たのは奇妙な年老いた男性でした。男は彼らに対して天気について、子供時代、学校や本のこと、などを一方的に語り始め、次いで「ぼく」とマーニーのどちらに恋人が多いかと尋ねます。

一人もいないとぼくは答えた。彼は信用しようとせず、きっと一人はいるに違いないと言った。ぼくは黙っていた。

ーーじゃあ、とマーニーは生意気にも男に言った、おっさんは何人いるのさ?

 三者の会話の中で「ぼく」だけが消極的です。得体の知れない男に対しての不安が「ぼく」を萎縮させます。男の言動は徐々に異質さを増し始めて、彼が少し離れた隙に「ぼく」はマーニーに、もし名を聞かれたら「おまえはマーフィーでおれはスミスだからな。」と偽名を名乗るように促します。このことは不信感の高まりに現実を許容出来なくなってきている自分からの逃避というふうにも見れます。

 再び戻った男は、猫に石を投げるマーニーの様子を見て「鞭で打たれるべきだ」と「ぼく」に告げます。しかし聞いていくとそれは折檻だけの意味合いではないことに気づきます。

男は、自分だったらそういう少年に鞭でどんなふうに打つかをぼくに向かって述べた、まるで複雑に込み入った謎を解き明かしでもしているかのように。それが好きなんだ、と彼は言った、この世でなによりも。

 男の変態的な性癖が露わになると、もはや「ぼく」には醜い現実から逃避したいという気持ちしかありません。逃避から始まった冒険の終点でもまた逃避を望むのはなんとも皮肉ですが「ぼく」はその場を抜け出そうとマーニーに助けを求めます。

ーーマーフィー!

ぼくの声にはわざと強がっているような口調があり、自分のつまらぬ策略が恥ずかしかった。もう一度その名前で呼ばねばならず、やっとマーニーがぼくを見て、おおい、と答えてくれた。彼が原っぱを突っ走ってぼくの方へと駆けて来るときに、ぼくの心臓はどんなに高鳴ったことか!彼はまるでぼくを助け出しに来るかのように走ってきた。そこでぼくは深く悔いた。というのは心のなかで今までずっと彼を少し軽蔑していたから。

 男(=外界の現実)に絶望し、ちっぽけなプライドもずたずたにされた「ぼく」は紛れもなく敗北者でした。かつては下に見ていた同級生にすがりながら己の愚かさに気づいていきます。「ぼく」と変質者の男、形は違えど人間の醜さを浮き彫りにする物語。しかし私はこの物語に清々しさを覚えます。それは「ぼく」が気づく形で物語に結末を置いているからで、憧憬と理想を片手に虚勢を張っていた「ぼく」がこれから真に受けいれていかねばならない大切なことを知ったという意味ではこの夏の冒険も無意味なことではなく変質者でさえもその助力を成しているからです。〈少年期〉に分類される話の中では、この「ある出会い」がとりわけ未来への期待が向いている気がして好きなのです。

 

ダブリンの人びと (ちくま文庫)

ダブリンの人びと (ちくま文庫)

 

 

 

ジョイスノート:1「姉妹」

 故あってジェイムズ・ジョイス『ダブリンの人びと』(ちくま文庫 米本義孝訳)を再読しています。これはいつだかの誕生日に友人が贈ってくれた一冊で、今一度手に取ってみると表紙は擦れて帯は一部破れてしまっています。なぜ今ジョイスかといえば最初に申し上げたように一応理由はあるのですがここで敢えて説明することでもありません。ただこうして再び向き合う機会に以前は残さなかった感想を置いておこうかと思いました。一度読み終えてから六年ばかりが経ちます。気付かぬうちに何か自分の中で変化があったことを期待して一篇ずつ読んでいきたいと思います。

こんどこそあの人はだめだ、三度目の卒中だから。

 冒頭を飾るのは「姉妹」という一篇です。物語は少年の視点を軸として、その目に映る外界の様子と彼の内的心情を描いています。引用部分の「あの人」というのは少年と交流のある老神父を指し、少年の言葉はその死を仄めかしています。

毎夜、その窓を見上げるたびに、ぼくがそっとつぶやくのは〈パラリシス〉という言葉だった。それはいつもぼくの耳によそよそしく響いていた、まるでユークリッド幾何学の〈ノーモン〉という言葉や、教義問答集にでてくる〈シモニー〉という言葉のように。しかし今では、それはまるでなにか邪悪で罪深いものの名前のように、ぼくには響いてくる。それはぼくを恐怖でいっぱいにするが、それでもそのそばに寄っていって、命を奪うようなそいつの仕業をみてみたくてたまらない。

 この一文の流れから、少年の信仰心、つまり神父に対する尊敬の念が少しずつ失われつつあることに察しがつきます。

ぼくは口にオートミールをいっぱい詰め込んだ、怒りの言葉が口をついて出そうだったので。小うるさい赤っ鼻じじいが!

ただそれでも他の大人から神父について「彼の教えは子供によくない影響を齎す」などと悪く言われることには我慢がならないようで心の内では神父を悪く言うコッターじいを罵倒し認めたくないという少年の意地と幼稚さが見え隠れします。そうやってどこかでは神父を擁護しながら神父の死を希求している節さえ見られる少年の感覚は、まさに引用部にもあるように少年自身が夜空につぶやいた(ここでは神父に向けられた言葉ですが)〈パラリシス paralysis〉という言葉、つまり麻痺を表しています。自己の神父に対する態度とコッターじいの漠然とした考えがほぼ同一線上にあることに少年は気づきません。何にせよ神父は病魔によって肉体的な死に向かうのと同様に少年の中でもその神秘性や畏敬の念が薄れて精神的においても死につつあるのです。

日なたを歩いていきながら、ぼくはコッターじいの言葉を思いだし、夢の中であのあと何が起こったのかを思いだそうとした。思いだしてみると、長いビロードのカーテンと吊り下がった古風なランプがあった。はるか遠い、風習が一風変わったどこかの国にいたような気がしたーーペルシャにいたのだ、とぼくは思った……。

 少年はやがて神父の死を現実のものとして納得するに至り、同時に戸惑いをおぼえます。これまで師事してきた神父は少年の中ではすっかり神秘性を取り払われたみじめな存在でしたが、それでもその喪失は、まだ成長の途上にある少年にとって葬り去ることが出来ないでいるのでした。少年は夢の中でそのもやもやから逃げ出すように「はるか遠い、風習の一風変わったどこかの国」へと自らを導きます。この描写はフランソワ・トリュフォー大人は判ってくれない』の終盤になんとなく似ています。母親から見放された少年が鑑別所を脱走し海を目指す姿に。

 神父もまたコッターじいとは別の方向から少年を抑圧する存在でした。神父が少年に教えた様々な知識、そこには知的強者の性癖としての善意といった側面があり、それに気づきだした少年は次第に神父への態度を信頼から疎ましさへと変化させていくのです。精神的支柱の喪失による少年の知的覚醒、超自我の形成。その完成を促すのがいよいよ登場する「姉妹」です。神父を世話していたイライザとナニー。イライザは神父の死に際が如何にみじめなものであったかを語り始めます。対して妹のナニーは無言です。ナニーには今にも眠り落ちそうな雰囲気の描写がありますが、どことなく死に行く神父の姿と重なります。ナニーが演じ、イライザがドラマとして語る。神父の最後という演目に対して観客である少年は、神父がもはや越えるべき存在でしかないことを確信するのです。

ぼくにはわかっていた、あの老司祭は、ぼくたちがさっき見たとおり、ひっそりと棺の中で、おごそかで獰猛な死に顔をして、胸には空っぽの聖杯を載せて、横たわってるってことを。

 

ダブリンの人びと (ちくま文庫)

ダブリンの人びと (ちくま文庫)

 

 

 

 

 

えっくすでい

 引くほど超お金持ちの百五集院家に生まれた一人娘のレイカにはもはや欲しいものなどなかった。毎年この時期になるとパパやママが「レイカはサンタさんに何をお願いしたのかな?」とかまをかけてくるが結局のところ誰がサンタを担おうと欲しいものがないので答えようもないのだった。

「ペガサス」

 別に欲しいわけではなかったが世への憂いとでも言おうかレイカは無理難題を両親にふっかけることでこの因習に終止符を打とうと考えたのである。そしてこれが去年の話であり、レイカの傍にはペガサスが今も健在である。また今年もこの季節が来ると羽根の生えた馬を抱きかかえた血塗れのパパの姿を思い出して吐き気を催した。

「マキちゃん、ごめんね。私は一年経ってもあなたを愛せない」

 デウスエクスマキナと名付けて普段はマキちゃんと呼んだペガサスの轡を解き放ち外へと逃した。マキちゃんは粘り気のある唾を吐き散らすと何の未練もなく飛び去った。血塗れのパパが悲しそうに笑う。レイカは雑念を振り払うと食卓に向かった。

「レイカはサンタさんに何をお願いしたのかな?」

 来た、と思った。レイカはこの日のために用意した寄越せるもんならやってみろリストから最もヤバめなやつをピックアップした。とはいってもペガサスもそのはずだったのだ。そんじょそこらの無理めではこの親父はやってのけてしまう。更なる再考の結果レイカは一つの回答をはじき出した。

「透明プリン」

 そんなものあるわけがない。きっとこれは無理だ。レイカは信じた。透明プリンてなんやと思いながら。これには流石のパパも首を傾げた。この娘を病院にやるべきかという常識的な眼差しさえ携えていた。レイカはいいぞと思った。いいぞ透明プリンもっとやれ! と思った。

 百五集院家の朝、七面鳥が鳴き叫んだ。彼らは今夜締められる。そのことよりもよっぽど悲しいのは枕元に置いてあったリボンで結んだ箱の存在だった。莫迦な、まさかそんなわけ。レイカはリボンを解いて箱を開けた。そこにはガラスの器がポツンとあった。よもや、よもやそんなはず、そう思いながらレイカは器の上を指でついた。感触あり。泣いた。バチクソ泣いた。指先を嗅ぐとカラメルの匂いがした。カラメリーゼしていた。備え付けられたスプーンで空を切った。空を切るはずだった。なんかを掬った。口に運んだ。カラメリーゼからのカスターディン!! まっことプリンだった。透明プリンだった。あったんかお前! その様子をドアの向こうでうかがっていたパパが部屋に入ってきた。満面の笑みを浮かべていた。泣いた。またバチクソ泣いた。バチクソ泣きながら唇を噛んで血を垂らし渾身の「ありがとう」を刻んだ。対決は翌年に持ち越された。

 今日という日はいつしか特別となり、世界中の人々が雰囲気に酔いしれることを許される。愛と希望に満ち満ちた街は鐘の音にのせて幸福をイルミネイトする。メリークリスマス、誰にも祝福を。メリークリスマス、絶えることのない愛を。