モンターグの貸出票

返却期限を過ぎました。

夕暮れの齢

 大人になったら僕はもう子供ではいられないんだ。そう思うといつまでも子供でいたい僕は星が右から左へ、はたまた左から右へと流れるのを期待してずっと夜空を見上げてた。けれどいつまでたっても星はその場で輝き続けるだけで、時折赤い月が気持ち悪く僕のことを嘲笑った。

 日に日に伸びる背丈をなんとか押しとどめようとポケットやら鞄へ石を詰め込んで歩いた。それでも時は残酷で僕はいよいよ父より高い目線で物を眺めることになり、彼が禿頭であることを知ってしまう。

 通学路の途中の大きな家を囲む塀の上。マチルダはいつも寝そべって、僕が隣を通り過ぎる時には片目を開いて「ご機嫌よう、坊や」と言った。高貴な毛並みのその猫はそれで盗賊なのだと自らの素性をかたってみせた。何が盗賊だ、いつも寝ているだけの平和ボケした野良猫じゃないか。僕は子供でありたいと願いながらもマチルダに子供扱いされていることが癪に触った。どうして僕はマチルダの名を知っていたのだろう。彼女はどうして僕には僕らの言葉で語りかけたのだろう。そんなことの答えをどれひとつ知ることなくある日マチルダは姿を消して、僕はそのときもまた一つ歳を重ねた。

 大学生になる頃にかつて子供でありたいと願った少年は解かれた鎖に甘んじてかりそめの自由を喜んだ。何もしなかったわけではなかったが大層なことは何一つなさないまま流れる時間に抗いもせず、ただ旅客のように振る舞った。それが更に自由になるにつれて僕はかえって窮屈さを覚えることとなり、何をなしてもよいといわれて何をなせばよいのかがわからないでいた。僕は何もしないでなんとかなっていた頃を思い出し、消えた盗賊を思い出し、星を眺めた夜を思い出していた。どれもが優しくて虚しかった。闇雲に走っては息を切らして喉の奥に血の味を覚え、呼吸が整うまでへたり込んだ土の上は生暖かく、虫の形も草の色も声変わりする前と何も変わらないのに、度の合わない眼鏡をかけたみたいに全部がぼんやりしてしまっていた。すっかりこぎ方を忘れられた小さな自転車も、渇ききった水鉄砲も、空っぽの犬小屋ももう僕とは踊らない。さようなら少年。君はたしかにここで暮らした。さようなら少年。ついぞ鳥にはなれなかった僕。扉をひらく前に眠ってしまえる。顔が砂まみれだ。だからどうした? 僕は…… …… ……

 

 駅前の噴水が絶えず水を吐き続ける。無邪気な子供たちは腰まで水に浸しても御構いなしだ。僕はもう彼らではない。それなりのスーツが濡れることを嫌う。ふかした煙が忌むべきものだったのも遠い昔だ。僕はもう生きる街を選ばない。その昔かついだ石入り鞄よりずっと重いキャリーケースには車輪が付いていて引き摺ることはあっても引き摺られはしなかった。切符は正規の値段で買う。もちろん咎められはせず、存分に列車を待つことを許されていた。誰もが列車を待つ間、持て余した暇の使い道を考えている。噴水に飛び込めたらと思う。高い声でつまらないことにも笑えたらと思う。やがて人々は吐き出されたり吸い込まれたりしながら、プラットホームからはけていき、落ち着きとともに列車は走り出す。しかしもうそれは別れでさえない。一日の一部だ。陽は昇り、沈んではまた昇りを繰り返す。夕暮れというのは今年でいくつになるのだろう。僕なんかよりずっと年上の陽の光はまるで褪せることもなく愚かな期待の羽根を焼く。顎を摩るとざらついて、それが全部だった。

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赤色

 その絵の前で老人はずっと佇んでいた。陽の光も差し込まぬ屋内の展示会でサングラスをかけたまま杖をつき、傍らには孫だろうか若い女が付き添っていた。そろそろいきましょうかと若い女が老人に声をかけたが老人はその場を動こうとしない。困ったように笑みをこぼした女のどこかあどけなさが僕の胸をうつ。

「お気に召されましたか?」

 僕はそっと声をかけた。老人は僕の声の方へと振り向いて一言。

「お前さんが描いたのか?」

「そうです」

「そうか」

 そこは三人だけのような空間だった。ひどく静かで他の誰かの存在を感じさせない。僕の個展を見にきてくれたお客さんは他にも数人いたのは確かだが、それでも老人に声をかけたその瞬間からそこには僕と老人と若い女だけがそこに在った。

「さてな。儂には絵のことは何もわからん。そこに絵がかかっている、それだけしかわからんのだ」

「と言いますと?」

 僕は老人の意味深な言い回しに応えた。老人がそっとサングラスをずらして見せたその瞳はすっかり白濁して、彼の視力はさっぱり失われているのだと気付かされた。

「ごめんなさいね。お爺ちゃんは目が見えていないんです。だからさっきからあなたの絵を拝見させていただいてるのですけど見えているわけではないというか」

 女は言葉を詰まらせた。

「でしたか。いえいえお気になさらず。けれど見えない絵の前でどうして? 随分長らくここにいらっしゃると、申し訳なくも遠まきに見ておりました。よほど気に入っていただけたかと。いやはや」

「お前さんは儂が目が見えんのに何で絵の展示会などに顔を出したか疑問かね?」

「不躾ながら気にはなりますね」

「そうか」

 老人は答えを出さぬまままた黙り込んで絵の方を見ていた。

「ごめんなさい。私ちょっとここを離れますのですみませんけれどお爺ちゃんを見ていてもらえます?」

 もちろんと僕はこたえて、けれど盲目の老人を、たとえこの会の主人であるからといって赤の他人に任せて信用するのは些か不用心に思えた。

 僕の絵の前で老人は一向に姿勢を崩さなかった。ずっと真っ直ぐに視線を向けて絵と対峙していた。聞かされなければ盲目などとは思えなかった。

「あれはな、早よに親を亡くして儂が引き取った。まだその頃は儂も目が黒くて面倒ばかりかけさせられたもんじゃ。それが今では儂があれの世話になりっぱなしで……便所ひとつ足を運ぶにも儂を気にせにゃならんようにしてしもうた」

「妙な言い方をしますが、何故お孫さんは……」

「エリスという」

「エリスさんは僕を信用したんでしょうね?」

「儂がここにおるからじゃろ」

 僕は老人の言葉の意味がよく分からなかった。

「儂はそろそろあの子の幸せを考えにゃならん。いつまでも儂のことでいろんなことに億劫でいるエリスの姿はたとえ見えんでも不憫じゃと肌で感じさせられる」

「それと僕が信用された理由に何の関係が?」

「絵描きのくせに見えとるもんが儂より少ないの」

 僕は些か苛立ちを覚えた。相手は老人で健常者ではないことを考えるとそれは大人気ないことだと思えて冷静になるが、どこか僕の自尊心というか人間的な穢さをひどく揺さぶられる思いだった。

「それでもあの子はお前さんを見とった。個展なんぞ開けるような絵描きになるずっと前から」

「え?」

「いつも同じ花を買っていく客がいると儂に話してくれた。あの子が他人の話をするのはその客だけじゃった」

 僕はエリスの顔を思い出した。老人の前に掛かった絵の中の赤いドレスを着た女性は、僕が町の花屋で枯れては買いにいったポインセチアの赤さだった。何故あんなにもその赤さに執着したのかは今となっては思い出せない。ただその絵を描き上げるまで通った花屋に愛想のいい女性店員がいたことを僕は思い出していた。またポインセチアですか。そう言って困ったように笑う顔を。

「花を枯らすような男ですよ僕は」

「儂も見えん絵を見に足を運ぶジジイじゃよ」

「ひとつお聞きしても良いですか?」

 老人は僕に顔を向ける。

「あなたのその目は本当に見えていないのですか?」

 老人は少しだけ間を空けた。

「さてな」

 

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acknowledge the elephant in the room

「ねえ!みてみて!ネンド象!」

「どうみてもストーンヘンジなんだけど」

ストーンヘンジっナンジャコラ!象じゃん!ちゃんと俯瞰してますか?ゾ・ウ・じゃん!」

「駄洒落を思いついたまでは良しとしよう。そのためにわざわざ粘土を買ってきた姿勢も涙ぐましい。ゆえに君の芸術表現に対する才能が惜しい。ストーンヘンジです」

「貴様、我がネンド象を愚弄するか?ならば我とて容赦はせんぞ!ネクロマンシスエロエロエッサイムエコエコアザラシカクマクマヤコン……」

「呪殺のつもりか?なぜ私にこのストーンヘンジを披露しようと思ったのだ。ドヤ顔で3つに割った粘土をまず2つだけ立てて置き、そこに渡すように最後の一片を乗せただけのストーンヘンジストーンヘンジを?」

「何回言うねん!わ、わたしはただ……世界が美しくあればいいと願った。あの日、あの夜空に光った星々はわたしのそんな願いを祝福していた。だのに!だのにだ!なぜこうも貴様は我がネンド象をただの石塊と愚弄するか!?貴様には人の心がわからぬのだ!それでも学級を束ねる長を騙るか!戯け!」

「今私がクラス委員長であることと君がこさえたストーンヘンジストーンヘンジだということの関連性を述べてくれないか?君とまともに議論する気は無いが、けれど私が気がかりなのは私の人生において君という存在を不意に思い出しては何だか可哀想になる気持ちをこの際振り払っておきたいただその一心だ」

「鮭川くん」

「……!? なんだ唐突に!」

「鮭川くん、私は貴方が好きです。誰よりも親よりも」

「お前!お前!」

「貴様が鮭川昇に宛てるつもりの恋文の中身、わたしは把握しています」

「な!?ど!誰だ!私はお前だけには知られまいと……なぜ……貴様ぁあああ!」

「さあ、そなたが前に君臨せしこの雄々しき生物が名を言ってみよ!さあ!さあさあ!」

「違う……ありえない!私がお前ごときに屈伏させられるなどあってはならぬ!ならん!!」

「鮭川くん、どうしてあなたは鮭川なの?私はシャケの皮は残す派です。けれど貴方を見過ごせない。私の目は貴方を常に追っています。これが恋?シャケ?鯵?」

「やめろぉおおおお!それ以上の発言は許さん!」

「ならば言うてみせよ!ネン(nun)……ド象(dadau)」

「ネ……ネ……ネン……」

「カッカッカ!苦しいか?辛いか?涙袋を撼わす顔が健気よのう!さあ言え!さすれば貴様の痴態は我が墓中まで秘匿されよう!」

「おのれ……くっ!はああん、ネン!ドゾォォォおおおお!!」

「あーっはっはっはっは!あーっはっはっはっは!我が勝利!」

「何これ?石?」

「お前!鮭川!?」

「菊永が作ったの?この石。え?なんで花崎が泣いてんの?」

「んなこたどうでもいい!わたしのネンド象を石と言ったことを訂正しろ!」

「象?石じゃん。百歩譲って粘土だろ」

「ガッ!デェエエム!おい!いいか?この花崎はな」

「やめろぉおおおお!」

「お前のことが好」

「知ってた。知ってたよ。けどなんかそういうの確かめるのって小っ恥ずかしいだろ。だから待ってた。これもちょっと恥ずかしいけど。でもさ、嬉しいよ。正直嬉しい。あ、やっぱそうだったんだって今飛び跳ねたいくらいだよ。まあ、ありがとな。菊永」

 

 ちがう。わたしはどさくさに紛れてお前に告白しようと思ったんだ。花崎はお前のことが好きだけど、わたしはそれよりももっと前からお前が好きだって、そう言おうとしたんだ。卑怯だって笑われたり罵倒されたりしたのかな?それでも言ってやろうってそう思ったんだ。けどやっぱダメか。わたしの負けじゃん。石は酷くないか?象なんだけどなあ。

OLお昼に中華屋へ

 お昼休み。私と冴子は最近職場の近くに出来た中華料理屋にやって来た。「中華飯店 桂馬」この実にスレスレな感じが私達を引き寄せた。店頭には春先にも関わらず「冷やし中華はじめました」の立看板。

「うっそ、もう始まってんの」

「季節先取りってかんじだね。あたし冷やし中華にしよ」

 店内に入ると客は私達以外見当たらない。とりあえず端っこのテーブルにつくと厨房から店主と思しき男性が現れ注文をとる。

「なんしやしょ?」

「あたしは冷やし中華!」

「んじゃ私も」

 それから何分が過ぎだろうか。待てども待てども冷やし中華は始まらない。お昼休みも終わりかねない時刻にいよいよしびれを切らした冴子が物申す。

「おじさーん!まだー?お昼終わっちゃうんだけど」

「おまたせしやした」

 満を持して冷やし中華は登場した。テーブルに二皿。カチンコチンの北京ダックだった。

「なにこれ……」

冷やし中華で」

 冷えとかいうレベルを超えていた。なにせ弾かれる箸にフォークにナイフだった。私は散らばった箸とフォークとナイフを拾い集めるとそれを整えて店主の顔をもう一度見た。

「私達の知る冷やし中華に異なる」

「認識、それ即ち個々に背負われし業のもの。嬢さん方の冷やし中華は知らねえが、あっしの国じゃあこいつをそう呼ぶんでさ」

 私はこの北京ダックが北京ダックたる北京ダックであるならばまだしもどうして凍らせてしまったのかと世の不条理を嘆いた。油で丹念に熱せられた二羽の家鴨もよもやカチカチに凍らされてしまうなどと思いもしなかったろう。魂は熱された時に消滅したにせよ、これは愚弄だ。食べ物で遊んではいけないと、このおっさんは教えてもらわなかったのだろうか。はたしてどこの国に油で揚げた鳥を再び凍らせてしまう料理が存在するのか。これは各店舗に出荷される前のファミチキではないか。そもそも中華イコール北京ダックの認識を持ち、尚且つ冷凍してしまうこのおっさんの知性たるやシナントロプス・ペキネンシスのそれではないのか。なにがしたいんですかあんたは?それはついぞ言葉となって口から出た。

「なにがしたいんですかあんたは?」

「気に入らねえなら置いてきな。お代は結構」

 私は二羽分の家鴨の対価たる万札一枚をテーブルに叩きつけた。注文時に冷やし中華と侮って一人前五千円を見逃した私達にも非はある。ここからはプライドの戦いだった。

「智絵、食べよ」

「冴子!何を?」

「あひる、報われないよ」

「冴子!しかし!?」

「食べよ、残さず弔ってあげよ」

「冴子……お前ってやつは」

 私達は歯が折れそうになりながら北京ダックにむしゃぶりついた。徐々に溶け出す水分と混じり合った油がクソ不味い。自然と涙が溢れる。それを見ていたペキネンシスは何を勘違いしたのか感動めいた涙を流しているようだった。法が許すならこの店を爆破したいとさえ思った。しかし冴子の健気にもこの弄ばれた家鴨達に精一杯報いたいとする、冷やし中華を安易に注文した自分の懺悔にも似た姿勢に私も同じ罪人として共にあらねばと考えた。

 いよいよ家鴨が肉体を召される頃、私達二人もまた凌辱の後といった趣きで放心していた。既に午後からの仕事が始まって、私と冴子の電話は鳴りっぱなしだったがそれに応える気力が持てなかった。

「あっしは感動したよ!姐さん方!うちの冷やし中華を平らげるなんて……いや、もう本当にお代はけっ!?」

 私はペキネンシスの口に万札を握りしめた拳を突っ込むと同時にもう一方の手でがら空きのボディにブローをくれてやった。ウポーッ!と言葉にならない声で呻くペキネンシスを尻目に私と冴子は店を出た。薄暗い店内を出ると温かな昼の陽射しが私達を照らし、テカテカの口元は永遠の輝き。「冷やし中華はじめました」の立看板を蹴り飛ばし、私達二人はこれから叱られに行く。

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ヴァンパイア倦怠期

 血を吸い飽きた。長年こんなことを続けていよいよ意味が分からなくなってきた。人間が食事に飽きますか?知らん。そんなことは全然知らん。だって私は吸血鬼だもの。人間せいぜい百歳ちょっとの寿命に対して既に千歳を越えて数えるのもやめた私が血を吸い飽きましたと言って「吸血鬼が血を吸い飽きますか?」などと問える人間がいるだろうか?私はすかさず「千年生きますか?」と問うてやろう。

 そもそも吸血鬼という呼び名も気に入らない。私は鬼などと呼ばれるにはあまりに優しいからです。捨て犬捨て猫見捨てれないし電車でお年寄りに席を譲るのなんて当たり前。まあ年齢から言えば私の方がはるかにお年寄りなのだけれど。

 つまり人間が勝手に鬼呼ばわり(ここでは「泣いた赤鬼」みたいな話は例外とする)しているだけで私はどちらかと言うと「吸血善い人」なわけで、これがいよいよ禁血したなら完全善い人の私です。

 血を吸わない吸血善い人は生きていけるのかという問題があります。さてこのことについてははっきり申し上げて「死ぬ」でしょうね。だって吸血善い人の生命の根源たるはなにかに差し置いて「血」であるからして、血を断つことそれ即ち「死」であると。でもね、もういいかなと思うのです。もう千年以上生きてね、この先何か面白いことあんのかい?とね。ファミコンを初めてプレイした時は感動があった。『悪魔城ドラキュラ』だったんですけどね「こんな吸血鬼おらんしるばにあぁあああ!」みたいに吸血善い人的にはツッコミどころ満載なのもありつつ単純にゲーム性に見惚れたところがありました。それからゲーム機は進化して今やスイッチだかボタンだかを売ってるみたいだけれど全く食指が動かない。どう言えばいいのか、私は血を吸うことそれよりこの生きる限り永遠に続く「生活」に飽いてしまったのかもしれない。一度たりとて全く同じ日はないと言うけれど人生ゲーム千年マップの辛さときたら共感を得れそうにもないが、一例を出せば借りたアパートの(それは時代によって城だったり貧乏長屋だったりするのだが)大家の方が先に逝って住処をおわれるしんどさを想像してほしい。家を買えば済む話だろうと思うでしょ?それが築千年保つか?未だ元気なこの哀しき肉体に家が追いつかないんだぜ?

 だからね、もういいかなと思っていたんだが先日あまりにも暇を持て余して千年生きて初めて遊園地なるものに行ってみた私はアトラクション待ちしていながら目の前に同じように並んでいる女性のうなじが目に映ろうとも相変わらずまったく血を吸う気もしないで、けれど忍耐力だけはあったので二時間待ちとか体感ゼロコンマ二秒くらいだったから死んだ魚の目で立っていました。その時目の前に並んでいた女性に手を繋がれた子供の手にあったソフトクリームが私の着ていたスーツパンツにベチョリンパして膝あたりが冷んやりした。女性、おそらくその子の母親が謝り倒して弁償するなどと言い出したので、ただ一人で観覧車とか言うのに乗ろうとしていただけのこっちがテンパってしまって「私は吸血善い人なので大丈夫です」とか言っちゃってよく分からん感じになったのだが、その後その親子と園内のレストランでお食事イベントが発生して、お子は美味そうにチキンライスを食うとるのを見てからふと母親を見るとなんだか優しい目をしてお子の食事を見守るのが、なんて言えばいいのかな……なんかええなと思ってしまったのです。

 私は親子の姿が見えなくなるまで手を振って、親子の姿が見えなくなると汚れたパンツの膝あたりを見て「生きたのだなあ」と感慨深くなった。もう随分と感じ取れていないこの気持ちは悪魔城ドラキュラ以来、いやもっと別の、もっと価値のある瞬間だったように思う。私にはまだ貯血がある。それがどれほど保つかは知らんが、ゆえにそれまでの間はこういう気持ちを探しながら生きてみるのも悪くはないなと、チーズに韓国海苔を巻いたのつまみながら酔いのまわり微睡む今、そんなことを考えていたなう。

優等生

病的になったり、思い出して悲しみにくれたりしないでいても、人生に悲しいものがあるということを告白しなければなりません。それがなんであるかは申しあげることはむずかしいのです。

(マンスフィールド「カナリヤ」)

  

 中瀬秋は図書室で封筒に入った一枚の便箋を見つけた。それは秋が手に取った一冊の本に挟まれていた。眼鏡をかけ髭を蓄えた老人の顔写真が表紙のその本の真ん中の頁あたりに挟まれていた封筒を秋は好奇心から開封してしまう。読んでしまった今、それは後悔になった。それを書き記した主が誰かは分からなかった。封筒にも便箋にも名は連ねられてはいなかったので。ただ綺麗な字であった。それでいてワープロで記したような無機質さのない温かみのある手書きの字であった。ゆえに手紙の内容がまさしく遺書であることが秋にはいたたまれなく思えた。既に夕暮れた校舎の窓には夕陽が差して物哀しさを助長する。秋は便箋を内ポケットへ隠すように忍ばせると本を棚へと戻して図書室を出た。

 秋は自室の机で再び遺書を開いた。あまりに短い文章に書き手の人生が集約されていた。憂いの言葉はない。寧ろどれだけ素晴らしい生き様であったか、そしてそれが周囲の人に救われる形で齎されていたかということが記されている。それでもこれを紡いだ筆者は死を選ぶ。秋にはどうにも理解し難い感覚であった。果たしてどのような人物だったのか。秋は遺書の主を想像した。字が表す人物像は清廉な女性を思わせた。自分が男子であることが余計にそう思わせた。

 秋は考えた。果たしてこの遺書の主は決意のままにこの世を去ったのか。それとも今もどこかでそれを躊躇いながら生きているのだろうか。どちらにせよ手がかりはこの遺書以外になく、秋の推理は途方に暮れた。

 

「ちょっと!中瀬ってば!」

「……」

「もしもーし!シカトすか!?」

「……あ、美作さん。どうかした?」

「どうかした?じゃないわよ!あんたが言ったんでしょう?銀島先生から頼まれてる新入生オリエンテーションに向けての資料整理!暇だから手伝うって!」

「あ、そうだったね。ごめん」

「何?なんか上の空なんですけど」

「いや、なんでもないよ」

「ならいいけど。しっかりしてよね!」

 秋は考えていた。遺書の主は目の前の美作キミカのような女性とはかけ離れた人物なのだと。最初は同じ年頃かとも思ったが何かの偶然で図書室の本にそれが挟まれていただけで、実は学校関係者とかではない大人びた女性ではないかと。遺書の主は文章の中で自分がこの学校の生徒であるとは明言していない。ならばその人はいったいどこの誰なのかを考えると何も手がつかなくなっていた。美作キミカに何度も注意されながら資料整理を終える頃にはすっかり陽も落ちて辺りは暗く、街灯が帰り途を照らしていた。

「中瀬、あんたのせいですっかり遅くなっちゃったよ」

「すまん」

「素っ気な」

「ごめん」

「あんたさ、何か悩んでんの?」

 秋は思った。自分と遺書の主にだけ共有されている秘密を美作キミカに打ち明けるべきだろうかと。確証はなくとも死を自らに付随させているような今の状態が少しずつ心苦しくなっていた。何か背徳の思いがあり、それに自らも飲み込まれてしまいそうな予感が秋には重荷に感じられた。

「あのさ」

「何よ?」

「……いや、なんでもない」

「……」

 美作キミカの溜息はまだ少し肌寒い夜の空気に色こそ着けはしなかったものの、生者のそれとして溶け出すと、やがて何事もなかったように混ざって消えた。

 

 中瀬秋は出来るだけ高い場所を目指した。それは港と埋め立ての人工島を繋ぐ巨大な橋の丁度真ん中あたり。秋は真下の海を見つめた。背後では車の往来が続いて、時折大型のトラックがけたたましいエンジン音と共に風圧を起こして、その勢いに飛ばされそうになるあの遺書を秋はしっかりと握りしめていた。か細い声で、けれど言葉として、秋は今一度遺書の中身を読み上げた。走行音に邪魔されて殆ど誰にも聞こえなかった音読は最後の一行を言い終えると役目を果たしたかのように秋の手から離れ宙を舞った。しまったと思いはしたが、次の瞬間には後悔はなかった。秋は呪縛から解き放たれる思いで体が軽くなるのを感じた。風に撒かれて小さくなる一枚の紙は徐々に海の方へと吸い込まれ、秋の視力では視認できないほどのところまで飛んでいってしまった。街へ引き返すため自転車のスタンドを上げる。一度だけ海の方に視線を戻した。ずれた眼鏡を整えたところでそれはやはりもう見えなかった。

 

 

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でんせつの剣

 私がそこに到着した時には真壁琴美が地面に突き刺さった、おそらく剣のようなものの前で立っていた。私の自転車がたてたブレーキ音と地面とタイヤの擦れる音に気がついた真壁はこちらに振り返るなりこう言った。

「でんせつの剣になります」

「真壁、よく考えよう。この時代にでんせつの剣は要らない」

「あれば引き抜くのが勇者。そう思わんかブリュセルヴァリシュよ」

「私はブリュセルヴァリシュではない。美作キミカその人です」

「おまえがミマサカでもブリュセルでもそんなことはどっちだっていい。これがでんせつの剣である以上、そして私の中に流るる竜の血がそれを引き抜けと……そう言うんだな」

「真壁、おまえには父達雄、母絹江の血が流れているだけだ。達雄がせめて辰雄だったらな……」

「キミカ!能書きはもういい!とりあえずこいつを引き抜くのを手伝いなさい!」

 おまえがな、そう思いながらも私はでんせつの剣らしきもののグリップ部分を両手で握り締め、引力に逆らう形で全ての力を解放した。迸る汗は春先ながら夏の始まりを予感させる。

「無理だ」

「待て!諦めるのはまだ早い!ネバーロボコップ!」

「いや、無理だ。かたすぎる。錆びたジャム瓶の蓋くらいのかたさだ。朝食はバターでいこう」

「バキャヤロー!こんなチャンスめったんないぜ!でんせつの……剣!」

 私は真壁の真剣な表情を前にこいつを嫌いになれないなと思った。でんせつの剣を諦めさせる方法を考える方が引き抜くことより一万光年速くとも、私は真壁の想いと共にありたいと感じるのだった。

「わかった。あいつに頼んでみる」

 私たちは待った。その間に真壁が近くのコンビニで買ってきてくれたモナ王を二人で分け合った。ひとつだったモナ王はちょうど半分のところで袂を別つと中から少し黄味がかった白い顔を見せて私たちを誘惑した。春に合わせて下ろした黄緑のカーディガンを脱ぎ捨てて剥き出しになった私の二の腕あたりにカメムシが張り付いた。

「うわ!くっせ!う、うわー!キミカくっせ!」

「ちょ!取って!勇者!勇者とれよ!」

「鎮まれ!」

 私たちがカメムシで騒いでいる最中に喜多森市子は登場した。

 「ちゃあ。琴美もキミちゃんも久しぶり」

 そう言ったのは市子の兄、玲司である。

「で、こやつがでんせつの剣とな。なるほど、面白い!兄者、やっちゃってくれ!」

 市子の号令に従って玲司はでんせつの剣のグリップ部分を両手で握り締めて、引力に逆らう形で全ての力を解放した。玲司の整った顔立ちがピカソ分析的キュビスム時代の如く分解され始めるも、でんせつの剣はピクリともしなかった。

「無理や」

「男手でもダメか……」

「出席番号五番!喜多森市子、いい案がありまあす!」

「よし、喜多森言ってみろ」

「とりあえずスーパー銭湯で汗流そうぜ!」

 市子のサム(親指)の先に「ほのぼのの湯」という大きな看板が見えた。

 

 私たちが風呂から上がると玲司はマッサージチェアーに揉まれながら漫画『孔雀王』に読み耽っていた。

「お、女湯はいい塩梅でしたか?おっせえから八百円も使っちまったや」

 十分百円のマッサージチェアーの表示に私たちは一時間以上も風呂に浸かっていたのかと自覚した。

「真壁、もういいよね?」

「何が?」

「でんせつの剣」

「うん……もういいかな」

 

 これがあと十年してアラサーになった私たちはでんせつの剣について語り合うのだろうか。なんだったんだろうね?かたかったねー、とか何とか言ってる私たちの誰かは結婚しちゃったりして子供までいたりしちゃうんだろうか。何もわからないけれど私たちは今この十代を生きていて、その先を想像してみたりする。いつかは過去になるその全ての中にでんせつの剣を引き抜こうとした今日が刻まれていた。

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