モンターグの貸出票

返却期限を過ぎました。

メサイアコンプレックス ①

 現実から遠ざかりたい。そんなおよそ現実味のない願いが受け入れられたのか、傘をさすのも迷う微雨の夜、僕は見知らぬ街の中を歩いていた。いよいよ頭がおかしいのか目が効かないのか行き交う人々の貌は魚だったり犬だったりする。それに寸分驚くこともなく何か考え事をするようで何を考えているわけでもない様子の僕は通りを練り歩いてここが何処なのかを確かめようとしていた。

 気がつけば、それは朝目覚めて徐々に認識するようにここが見知らぬ土地であることを自覚していた。妻子の葬儀を済ませ、仕事はしばらく休む旨を伝えた後に外の空気を吸うため家を出たところまでは覚えていた。そこからどのようにしてここに辿り着いたのかはわからない。咥えたままの煙草は灰がすっかり落ちきって時間が過ぎたことだけは示されていたものの、記憶が全く空っぽになるという経験は初めてのことで思考に靄がかかっていた。妻と子を一度に亡くした時の受け入れ難きあの日でさえ僕はそれを事実として記憶しているのに、この日常の一片だけはどうしても思い出せないのだった。

 人ならざる住人の跋扈する街で、彼女は初めて出会った人間だった。僕はそれに郷愁のようなものを呼び起こされ思わず声をかけてしまう。彼女は自らを糸子と名乗った。名のとおり絹のような細く真っ直ぐに伸びた白髪は老女のようであるものの、その貌つきはあどけなくもみえる。僕は早速この街について問うた。名、場所、そして何故住人が一様に人の貌をしていないのか。僕に切迫感がみられたのか、糸子は僕の問いに憐憫を帯びたような微笑みを浮かべ、疲れているようだからと宿まで案内してもらうことになった。宿の扉口の前で「また明日」と糸子は言った。別れてから彼女と連絡を取る手立てなどないことに気づくも、僕は彼女の言うとおりすっかり疲弊していて部屋まで通された後は飯にもありつかず眠ってしまった。

 目が覚めてみるとそこは和室のようだった。ぼやぼやする視界からか天井の木目は笑みをたたえて賑やかだった。おはようございます、それほど広くない部屋に残響する挨拶。声の方に目を遣ると奇っ怪な女中が二人正座している。昨晩の通行人達と同じく首から下のそれは人の形をしていたが、貌は海星である。しかし口あらずとも海星はたしかにおはようと言い放ち、目はあらずとも僕を見ていたのだった。些かの不安はあったが僕は彼女達におはようございますと返した。

「わたくしはイン」

「……サワリ」

「お客様のお世話をさせていただきます」

「ます」

 女中たちはそう言って寝覚めの一杯にと茶のようなものを差し出した。湯気立つそれを口に運ぶと冷えた体には沁み渡って僕は不意に頬を伝う熱を覚える。

「いかがなさいました?」

「……ました?」

「いや、すみません。少し思い出したことがあって」

 妻とは映画の撮影現場で初めて出会った。当時の彼女は女優の卵で、僕が脚本を書いた作品の演者の一人であった。特別言葉を交わす間柄でもなかったが撮影が終盤を迎える頃に監督と口論になって一人でふて腐れていた僕に彼女ははじめて声をかけてきた。どうぞと渡された温められたお茶。僕は気分からかあまり愛想のない返事をしたように思う。彼女は僕の意見に自分も近いのだと言った。今思い返せば瑣末なことだが、表現者の拘りというのは厄介なもので正解がないだけに直感と信念がぶつかり合うこともしばしばある。強い主張のいくつかにはそれぞれ賛同や批判が生まれ、その中で最適解というものを養っていくのだ。大勢で作り上げる映画という作品のそれも決め手であろう終盤の演出だっただけに僕自身も譲り難い意固地さを発揮してもう一歩で手が出るくらいに熱を持ってしまった。それに比べると彼女の言葉は手渡されたお茶のようにほど温くて、はじめはなんだか莫迦にされたように思えた。自分でも面倒な人間だと思う。愛想もなしに、無理に共感してくれなくてもいいなどと彼女を突き放す態度を取った。それでも彼女は薄く笑って「好きなようにします」とだけ答えてその場を去った。結局監督側の意見が採用されて僕は苦々しい面構えで撮影風景を眺めていた。彼女は僕の唱えた演出を披露する。共演者の戸惑い。提示する撮影班。監督の表情が徐々に険しくなる。新人ながらある程度の期待と事務所の看板を背負った女優のそれは傲慢であり横暴だった。一悶着、いやそれでは済まなかった。作品の存続自体が危ぶまれた。転機は製作指揮の一言だった。この方がいい。面子を失った監督は自ら降りた。残りのシーンは別の監督が引き継ぐ形で作品は仕上がった。僕はその一連の流れが一瞬で目の前を通り過ぎていくようで細かいことはほとんど記憶しない。ただ唐突に彼女が僕の提案を演じてみせたことがある種の幻想を抱かせた。僕は拘りなどと言ってそれが覆された時諦めることしかしなかった。それがどうしてか諦めたはずの映し出されることのない情景をありありと見せつける作品に仕上がってしまったのである。気付けば僕は彼女にプロポーズしていた。彼女が演じた唯一の作品と同じシチュエーションで。その時の彼女は僕の唱えた演出通りにはならなかった。好きにさせていただきます。僕たちは結婚した。

 

 街は昼になっても異形の人々が闊歩した。宿から少し離れた通りを僕はあてもなく歩いた。夢ではないのだと自覚すれば一体ここは何処なのだろうという疑念が深まっていく。糸子は人通りの中で僕に手を振っていた。

「こんにちは」

「どうして僕がここにいると?」

「私は分かってしまいます」

「どういう意味だい?」

「行きましょうか」

「何処へ?」

「ついてきて」

 僕は彼ら、つまり異形の人々について糸子に尋ねた。糸子は何も変わらない、特別ではないと言うだけで明確に答えない。確かにこの勢でいえば僕や糸子の姿形こそが異質に思えた。しかし僕はこれまでそうではない場所で暮らした記憶がある。だからこそどれだけ少数派であってもそれを常識として取り入れることは出来なかった。答えがないならそれは構わない。だが僕はどういうわけあってここにやって来たのか、はたまた呼ばれたのかだけでも知りたかった。それについては糸子は何も答えない。ただ黙々と何処かへ向かって前進するのに僕はついていくしかなかった。

  

反比例

 三歳だった。驚くことに三歳だった。私は保育園の園児で今とは別の生き物のようだった。

 園には畑があった。保育士のおばさん達が面倒をみていた。特に主任のN先生は日課として手入れをしていたように記憶する。

 それもこれも園児に芋を掘らせるためである。さつまいもを植えた畑で自ら収穫するという体験を与えるためである。私は残念ながら一度もその体験に臨まなかった。なぜなら生まれついての乾燥肌で手のひらは老人のように皺くちゃで潤いもなくすぐにひびが入った。何もしないのに傷が浮かび血の赤色が見える自分はそれが当たり前だと思うようになっていた。だから芋を掘ることで傷口に菌が入ることなど恐れたりはしなかった。大人が止めた。当時は理由も知らされず私は芋を掘ってはいけないのだと言われた。どれほどぼろぼろで痛みの走る手より仲間はずれのような自分のあり方が悲しく感じられていたように思う。

 私はその年も傍観者だった。他の園児が土を掘って芋を探り当てるのを路肩に座らされて眺めていたのだ。横に園で一番若い先生が座った。ずっと隣にいてまつぼっくりやらどんぐりを広げてどんぐりの皮を剥き始める。私は先生が何をしようとしているのかわからず、ゆえに興味を奪われた。はい、と渡されたどんぐりの実は茶色した皮と違って黄味がかった白だった。私はそれを口に放り込む。噛もうとする前に頬を掴まれ吐き出させられた。仄かに苦味を纏う口の中から溢れた分だけ唾を吐く。先生はそれほど叱らなかった。自分が手渡した手前か、それとも特別待遇を哀れまれたのか、ともかく叱られないことには寂しさがあった。何のために口にどんぐりを入れたのかはたぶん今も分からずじまいだろう。

 私は畑に目をやった。年長クラスの女児、名前は忘れてしまった、その子が泣いている。何事かと保育士のおばさん達が駆け寄る。私には横に見張りがいて「見てきてもいい?」かと尋ねたが見張りは首を横に振った。だから私は少し向こうから聞こえる声を頼りに推理した。動物が死んだのだ。もぐら。もぐらが地中から顔を出したところを女児に踏まれて首を折ったことがわかった。なんという確率か。私にはそれが驚かれた。私は主任先生が掬いあげたもぐらの死骸を見た。この目で見たはじめてのもぐらはとても静かで息をしなかった。よくわからない黒い毛の塊。なんの感動も持たなかった。それより私の気がかりは女児が泣き止まぬことだった。なぜ泣いているのか私にはわからなかった。もぐらの死が恐怖だったのか。生きているものが死ぬことを知るにはうってつけの日だ。それとも罪悪感か。不可抗力だろうけれど自らがその立場に立たされて忌まわしいからか。芋を掘ることから得る予定された体験の範囲を超えたもぐらの死が齎すものはじつに不可解である。当時の私がここまでの思慮を持ったわけではない。その当時の違和感としてだけ記憶される女児の涙や泣き声を今の私が思い出して想像しているにすぎない。

 きっと紐解きたいわけではないのだ。私は幼心に覚えたあの現実離れした空気に今も酔っているのだろう。大人になるほどに身の振り幅は狭まる。それを大人になるとするのかもしれない。記憶の中にあるもぐらの死と、それに連なるあの日の風景は当時の私の窮屈さに反比例していまだ自由を与えようとする。

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夕暮の齢

 大人になったら僕はもう子供ではいられないんだ。そう思うといつまでも子供でいたい僕は星が右から左へ、はたまた左から右へと流れるのを期待してずっと夜空を見上げてた。けれどいつまでたっても星はその場で輝き続けるだけで、時折赤い月が気持ち悪く僕のことを嘲笑った。
日に日に伸びる背丈をなんとか押しとどめようとポケットやら鞄へ石を詰め込んで歩いた。それでも時は残酷で僕はいよいよ父より高い目線で物を眺めることになり、彼が禿頭であることを知ってしまう。
通学路の途中の大きな家を囲む塀の上。マチルダはいつも寝そべって、僕が隣を通り過ぎる時には片目を開いて「ご機嫌よう、坊や」と言った。高貴な毛並みのその猫はそれで盗賊なのだと自らの素性をかたってみせた。何が盗賊だ、いつも寝ているだけの平和ボケした野良猫じゃないか。僕は子供でありたいと願いながらもマチルダに子供扱いされていることが癪に触った。どうして僕はマチルダの名を知っていたのだろう。彼女はどうして僕には僕らの言葉で語りかけたのだろう。そんなことの答えをどれひとつ知ることなくある日マチルダは姿を消して、僕はそのときもまた一つ歳を重ねた。
大学生になる頃にかつて子供でありたいと願った少年は解かれた鎖に甘んじてかりそめの自由を喜んだ。何もしなかったわけではなかったが大層なことは何一つなさないまま流れる時間に抗いもせず、ただ旅客のように振る舞った。それが更に自由になるにつれて僕はかえって窮屈さを覚えることとなり、何をなしてもよいといわれて何をなせばよいのかがわからないでいた。僕は何もしないでなんとかなっていた頃を思い出し、消えた盗賊を思い出し、星を眺めた夜を思い出していた。どれもが優しくて虚しかった。闇雲に走っては息を切らして喉の奥に血の味を覚え、呼吸が整うまでへたり込んだ土の上は生暖かく、虫の形も草の色も声変わりする前と何も変わらないのに、度の合わない眼鏡をかけたみたいに全部がぼんやりしてしまっていた。すっかりこぎ方を忘れられた小さな自転車も、渇ききった水鉄砲も、空っぽの犬小屋ももう僕とは踊らない。さようなら少年。君はたしかにここで暮らした。さようなら少年。ついぞ鳥にはなれなかった僕。扉をひらく前に眠ってしまえる。顔が砂まみれだ。だからどうした? 僕は…… …… ……

駅前の噴水が絶えず水を吐き続ける。無邪気な子供たちは腰まで水に浸しても御構いなしだ。僕はもう彼らではない。それなりのスーツが濡れることを嫌う。ふかした煙が忌むべきものだったのも遠い昔だ。僕はもう生きる街を選ばない。その昔かついだ石入り鞄よりずっと重いキャリーケースには車輪が付いていて引き摺ることはあっても引き摺られはしなかった。切符は正規の値段で買う。もちろん咎められはせず、存分に列車を待つことを許されていた。誰もが列車を待つ間、持て余した暇の使い道を考えている。噴水に飛び込めたらと思う。高い声でつまらないことにも笑えたらと思う。やがて人々は吐き出されたり吸い込まれたりしながら、プラットホームからはけていき、落ち着きとともに列車は走り出す。しかしもうそれは別れでさえない。一日の一部だ。陽は昇り、沈んではまた昇りを繰り返す。夕暮れというのは今年でいくつになるのだろう。僕なんかよりずっと年上の陽の光はまるで褪せることもなく愚かな期待の羽根を焼く。顎を摩るとざらついて、それが全部だった。

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フローベールの庭

 庭に住み始めたカラス。私は彼だか彼女だか、その一羽の黒い鳥にフローベールと名付けてやった。フローベールは朝が近づくまだ日の昇らない暗がりで喧しくカアカアと鳴いた。私はフローベールの鳴き声に目を覚まし、縁側から庭を見る。声のする方はまだ暗く、フローベールの体は黒いので溶けてしまって見えない。けれど確かにフローベールはそこに居てずっと鳴いていたのだ。やがてひとしく訪れる朝にいよいよ姿を見せた黒鳥はしきりに首を傾げ、私に向かってまた鳴くのだった。私にはフローベールの言葉がわからない。それが何か意味を持つのかもわからない。けれどただ声を発する機械だとは思えない。フローベールは何かの使命を果たすため我が家の庭に住まうのだとそういう気がしてならないのだった。
私は庭に出る。するとフローベールは私から距離を置く。近づこうとしても一定の距離を詰めさせない。かといって庭から出るでもなくフローベールは庭を庭として我が物顔なのだった。
「なあ、ギュスターヴ。君は外科医の息子かい」
嘴は興味のなさを示し、私は一羽の視野の外。フローベールは庭に生ったヘビイチゴを摘み取って飲み込んだ。
夏が過ぎ、秋が来て、それもいよいよ終わる頃、庭に一羽の鳥の遺骸が些か早い初雪に晒される。私は硝子戸一枚を隔ててフローベールの死を見ていた。一度もままならなかった彼だか彼女だかとの会話。フローベールはもう鳴かない。愛していたのか愛せていたのか愛されていたのか愛などそこにあったのか。フローベールが過ごした庭でヘビイチゴの花が咲く。黄色い花弁のその花はフローベールの知らなかった色。

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塩と警句

 他人の、それは限りなく縁の遠い、言ってしまえば実在すら疑わしいその人たちの織りなす甘酸っぱさにわたしは吐気を催して、ただただ酸いだけの胃液と共に一粒の苺をベッドに吐き出した。ベッドは敷き直して間のない白い、本当に白いシーツのその上をわたしの持つ嫌悪で汚してしまう。俄かに黄味がかった酸の中に一粒の苺だけがほぼそのままで、涙ぐんだ瞳はぼやけながらもその赤を覚えるのだった。

 何事もなかったように洗面台で口をゆすぐ。もう深夜なのであるが明かりの灯った洗面所は朝より明るい夜だった。あれはなんだったのだろうか。なぜわたしはそれに触れ、忌み嫌い、そして嘔吐したのか。悲しくもあり虚しくもあって、憤りさえ感じながら向ける刃先には誰もいない。引き出しの中のナイフ、それは取り出されて空を切った。切ったというからには何か切られた残りがあるはずなのだがどうも見当たらない。わたしはベッドの上の酸の中に落としてしまったナイフを指で摘んで、口をゆすいだ後にそれも水で洗い流した。

 部屋に戻ると些か水気を吸われて失った汚れの中に苺は赤くそのままでいた。その汚いルビーは何を言うでもなく、けれどこの部屋で一番偉いはずのわたし以上に威厳があった。

 あれだけが後悔だ。あれだけが敵である。わたしは再びナイフを強く握りしめ、苺のその赤目掛けて刃を振った。苺は身を躱して刃はシーツを裂いた。下のベッドも一緒に裂いた。剥き出しのウレタンがケラケラと嗤っている。わたしは何度も何度もベッドを刺した。黙れ、黙れ、黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ!

 苺は床に転がっていた。さっきまで、それはこの話が始まる少し手前まで繋がっていたはずの破り裂かれた雑誌の横に苺は転がって、わたしがベッドを殺すのをずっと眺めていた。

 もう疲れ果てていた。ベッドは何度殺しても嗤うだけ。決して死ななかったのだ。同様にきっとあの赤い敵もどうやろうとわたしの斬撃を躱すだろう。踏み潰したりも出来ない気がする。あの赤はジャムにはならない。あの赤はいつまでも果実だ。円熟を保ちながらホイップの上で輝き続ける。さてどうしようか。生憎まだ陽は登らない。その日の汚れ、その日のうちに。お腹が空いたな。わたしはナイフをまた引き出しに了う。

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頃合い

 頃合いなので白紙に戻す。

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