モンターグの貸出票

返却期限を過ぎました。

 築不明年のボロアパート。

 破壊されたエアコン。

 ハネも電源もない扇風機。

 冷蔵できない庫。

 その手に握られしはスイカバー。

 私の唯一の避暑手段。

 この何もかも腐敗させそうな極暑にあってスイカバーだけが私を正気へと導いた。霜の降りた薄赤い部分へと口もとは吸い寄せられる。

 

 持っていかれた。唯一点の冷に私の唇の皮は盛大に持っていかれた。ひりつく皮膚は常温へとかえるにつれて痛みに変わっていく。ジェネラルルージュの凱旋。将の帰還ぞ! 道をあけよ! 真紅に染まる口もとから焼けたアスファルトに滴る血。ぽたぽたぽた……ぼたっ。一つの希望が揺れる音。スイカバーも落ちた。嗚呼! ああん! 待って待ってまだ待って! アスファルトは瞬く間にスイカを溶かしバーだけが残った。狼狽えている隙に神は死んだ。窪んだまなこに痩けた頬。私は失意のままラクーンシティを徘徊する。

 

 IKEAを発見した。私はIKEAに向かって残された力を振り絞った。けれど全く辿り着けない。冷房、冷房冷房冷房冷房冷房冷房冷房冷房冷房冷房冷房冷房冷房レイヴォーーーーーーォン!!

 蜃気楼。あれは幻だ。IKEAそれは君が見た光、僕が見た希望。私は膝から崩れ落ちた。アスファルトの熱は私の皮膚を焼いた。夢を見た。私はプールサイドだ。学校の。梅雨時にカエルやコイやヤゴを追い出して綺麗に洗ったプール漕の横で「熱ッ!! 熱ッ!!」などとはしゃいでいる。早く入りたーい、溶解ッ人間! 私は教師の制止を振り払いプールの中へ飛び込んだ。意識が回復した時、薬品の匂いがした。

「ワタシはダレ? ココアシガレット?」

熱中症ですね。点滴終わるまで安静にしててください」

 病院か。涼しいな。ふと涙が溢れた。

「引っ越そ」

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荷を継ぎ、州に比くす、吼ゆる浪の音

 山峡の村に立つ道場の師範は、昨晩からの嵐に荒れる外を格子窓から見遣ってままならんとし、それをピシャリとしめた後の睫毛は濡れて、稽古場の行燈に当てられ輝石のように光っていた。幽暗の中を走って道場まで訪れた三人の弟子は、一様に足が泥に塗れて、木板の床に跡をつけた。

「この天気です。あなた達もわざわざ来ずとも家に居れば良かったのに」

「いえ、私は先生に稽古をつけてもらわねば一日が終えれませんゆえ、私はたといこの身大事にいたろうと這うてでもここに通います」

「それは私とて同じ。私ここでの学びは武芸のみならず文字書き、和算に人の道。全てを教わっておると言っても過言なきゆえ、私の全てはここにあるのです」

「みんな、ポテチ持ってきたけど食う? さっき来る途中でびちょびちょになったけど中身はたぶん大丈夫」

「……」

「……」

「と、ところで先生! 本日はどのような稽古をつけていただけますでしょうか? よければそろそろ先生とも竹刀を交えてみとうございます」

「私と? 私は弱いですよ。偉そうに皆さんに教えなどと言っても、私はもとよりこの村の者ではありません。旅の最中に立ち寄っただけで本当はこのように長居するつもりもありませんでしたが、あなた方のお父上やお母上からお頼み申され、こんな立派な道場まで任されては引くに引けぬと思うただけで……」

「先生! 謙遜は止されませ。私は見たのです。先生が初めてこの村に訪れた日、脇に構えたあの立派な刀でこの村に忍び寄っていた悪鬼を断ち斬ったところを! 私は先生が人知れずこの村を救った恩人であると知っております。それゆえ、私も先生のように強くありたいと父母に頼んで先生を引き止めてもらいました。迷惑だとは思います。ですが私は……」

「シンノスケ、迷惑などと思ったことはありませんよ。私はあなた達に出会えて良かったと思います。皆本当に良い子。だから、あなた達に稽古などつけてよいものかと躊躇いがあるのです」

「見て! 盲腸コアラ! これレアなんだよね! あー、どうしよっかなあ? でも食べちゃう!お菓子はお菓子だからね!ぱっくん♪」

「……」

「……」

「先生! それはどういう意味です?」

「盲腸コアラとはおそらく盲腸、すなわち虫垂炎を患ったコアラの姿形を表した……」

「ではなく! コアラのマーチではなく! 私達に稽古をつけるのをなぜ躊躇されるのです?」

「あ、ああ……あなた方の武に対する構えがもしこの村を悪鬼から守る為ならば、そのような危ない目にあわせるのを私が助長しているのではないかという懸念があります」

「……先生、私は先生から大切なものを守りなさいと教わりました」

「私もかけがえのないもののために生きなさいと教わりました! 私たちは生きるための術を先生から教わっているのです! だからそんなことを言うのは止してください!」

「あなた達……」

「じゃじゃーん! いっつもはスーパーで買えるお菓子ばかりですが今日は特別にお取り寄せしたお菓子をご用意いったしましたー! なにかなナニカナア??」

「お前さっきから何菓子ばっか食ってるんだ!」

「そうだ! 私たちが先生といい感じの雰囲気で雰囲気づけているというのに」

ケーニヒスクローネ

「ああん?!」

「お母さんが家族のために作るおやつのように、素朴でやさしい味、それがドイツ菓子の魅力です。フランス菓子のような華やかさはありませんが、季節のフルーツの味をそのまま生かしたシンプルで素朴なケーキ。そんなドイツで育まれてきたお菓子づくりの思いを店名に込めました。ケーニヒスクローネとは、ドイツ語で「勝利の王冠」。メインキャラクターのクマさん(名前はポチ)も頭に王冠を乗せていますが、けっして威張ったりはしません。美味しいお菓子をたくさんの人に届けたい思いで一杯です。ドイツへの愛着のこもったお菓子を、どうぞお楽しみください」

「お前……何を……」

「継荷比州吼浪音……」

「先生?!」

「荷を継ぎ、州に比くす、吼ゆる浪の音……洋菓子という商品を作りながら、日本という国と一緒になって、隆盛のごとく伸びて行こう!……という意味合いが込められたケーニヒスクローネか!」

「先生!!?」

「そうだよ! ケーニヒスクローネだよ!」

「せ、先生! 稽古を!稽古を!」

「け、け、けケーニヒスクローネ!」

「そうだよ! ケーニヒスクローネだよ!」

「先生!」

ケーニヒスクローネだよ!」

ケーニヒスクローネ!」

ケーニヒスクローネだよ!」

夕暮れの齢

 大人になったら僕はもう子供ではいられないんだ。そう思うといつまでも子供でいたい僕は星が右から左へ、はたまた左から右へと流れるのを期待してずっと夜空を見上げてた。けれどいつまでたっても星はその場で輝き続けるだけで、時折赤い月が気持ち悪く僕のことを嘲笑った。

 日に日に伸びる背丈をなんとか押しとどめようとポケットやら鞄へ石を詰め込んで歩いた。それでも時は残酷で僕はいよいよ父より高い目線で物を眺めることになり、彼が禿頭であることを知ってしまう。

 通学路の途中の大きな家を囲む塀の上。マチルダはいつも寝そべって、僕が隣を通り過ぎる時には片目を開いて「ご機嫌よう、坊や」と言った。高貴な毛並みのその猫はそれで盗賊なのだと自らの素性をかたってみせた。何が盗賊だ、いつも寝ているだけの平和ボケした野良猫じゃないか。僕は子供でありたいと願いながらもマチルダに子供扱いされていることが癪に触った。どうして僕はマチルダの名を知っていたのだろう。彼女はどうして僕には僕らの言葉で語りかけたのだろう。そんなことの答えをどれひとつ知ることなくある日マチルダは姿を消して、僕はそのときもまた一つ歳を重ねた。

 大学生になる頃にかつて子供でありたいと願った少年は解かれた鎖に甘んじてかりそめの自由を喜んだ。何もしなかったわけではなかったが大層なことは何一つなさないまま流れる時間に抗いもせず、ただ旅客のように振る舞った。それが更に自由になるにつれて僕はかえって窮屈さを覚えることとなり、何をなしてもよいといわれて何をなせばよいのかがわからないでいた。僕は何もしないでなんとかなっていた頃を思い出し、消えた盗賊を思い出し、星を眺めた夜を思い出していた。どれもが優しくて虚しかった。闇雲に走っては息を切らして喉の奥に血の味を覚え、呼吸が整うまでへたり込んだ土の上は生暖かく、虫の形も草の色も声変わりする前と何も変わらないのに、度の合わない眼鏡をかけたみたいに全部がぼんやりしてしまっていた。すっかりこぎ方を忘れられた小さな自転車も、渇ききった水鉄砲も、空っぽの犬小屋ももう僕とは踊らない。さようなら少年。君はたしかにここで暮らした。さようなら少年。ついぞ鳥にはなれなかった僕。扉をひらく前に眠ってしまえる。顔が砂まみれだ。だからどうした? 僕は…… …… ……

 

 駅前の噴水が絶えず水を吐き続ける。無邪気な子供たちは腰まで水に浸しても御構いなしだ。僕はもう彼らではない。それなりのスーツが濡れることを嫌う。ふかした煙が忌むべきものだったのも遠い昔だ。僕はもう生きる街を選ばない。その昔かついだ石入り鞄よりずっと重いキャリーケースには車輪が付いていて引き摺ることはあっても引き摺られはしなかった。切符は正規の値段で買う。もちろん咎められはせず、存分に列車を待つことを許されていた。誰もが列車を待つ間、持て余した暇の使い道を考えている。噴水に飛び込めたらと思う。高い声でつまらないことにも笑えたらと思う。やがて人々は吐き出されたり吸い込まれたりしながら、プラットホームからはけていき、落ち着きとともに列車は走り出す。しかしもうそれは別れでさえない。一日の一部だ。陽は昇り、沈んではまた昇りを繰り返す。夕暮れというのは今年でいくつになるのだろう。僕なんかよりずっと年上の陽の光はまるで褪せることもなく愚かな期待の羽根を焼く。顎を摩るとざらついて、それが全部だった。

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赤色

 その絵の前で老人はずっと佇んでいた。陽の光も差し込まぬ屋内の展示会でサングラスをかけたまま杖をつき、傍らには孫だろうか若い女が付き添っていた。そろそろいきましょうかと若い女が老人に声をかけたが老人はその場を動こうとしない。困ったように笑みをこぼした女のどこかあどけなさが僕の胸をうつ。

「お気に召されましたか?」

 僕はそっと声をかけた。老人は僕の声の方へと振り向いて一言。

「お前さんが描いたのか?」

「そうです」

「そうか」

 そこは三人だけのような空間だった。ひどく静かで他の誰かの存在を感じさせない。僕の個展を見にきてくれたお客さんは他にも数人いたのは確かだが、それでも老人に声をかけたその瞬間からそこには僕と老人と若い女だけがそこに在った。

「さてな。儂には絵のことは何もわからん。そこに絵がかかっている、それだけしかわからんのだ」

「と言いますと?」

 僕は老人の意味深な言い回しに応えた。老人がそっとサングラスをずらして見せたその瞳はすっかり白濁して、彼の視力はさっぱり失われているのだと気付かされた。

「ごめんなさいね。お爺ちゃんは目が見えていないんです。だからさっきからあなたの絵を拝見させていただいてるのですけど見えているわけではないというか」

 女は言葉を詰まらせた。

「でしたか。いえいえお気になさらず。けれど見えない絵の前でどうして? 随分長らくここにいらっしゃると、申し訳なくも遠まきに見ておりました。よほど気に入っていただけたかと。いやはや」

「お前さんは儂が目が見えんのに何で絵の展示会などに顔を出したか疑問かね?」

「不躾ながら気にはなりますね」

「そうか」

 老人は答えを出さぬまままた黙り込んで絵の方を見ていた。

「ごめんなさい。私ちょっとここを離れますのですみませんけれどお爺ちゃんを見ていてもらえます?」

 もちろんと僕はこたえて、けれど盲目の老人を、たとえこの会の主人であるからといって赤の他人に任せて信用するのは些か不用心に思えた。

 僕の絵の前で老人は一向に姿勢を崩さなかった。ずっと真っ直ぐに視線を向けて絵と対峙していた。聞かされなければ盲目などとは思えなかった。

「あれはな、早よに親を亡くして儂が引き取った。まだその頃は儂も目が黒くて面倒ばかりかけさせられたもんじゃ。それが今では儂があれの世話になりっぱなしで……便所ひとつ足を運ぶにも儂を気にせにゃならんようにしてしもうた」

「妙な言い方をしますが、何故お孫さんは……」

「エリスという」

「エリスさんは僕を信用したんでしょうね?」

「儂がここにおるからじゃろ」

 僕は老人の言葉の意味がよく分からなかった。

「儂はそろそろあの子の幸せを考えにゃならん。いつまでも儂のことでいろんなことに億劫でいるエリスの姿はたとえ見えんでも不憫じゃと肌で感じさせられる」

「それと僕が信用された理由に何の関係が?」

「絵描きのくせに見えとるもんが儂より少ないの」

 僕は些か苛立ちを覚えた。相手は老人で健常者ではないことを考えるとそれは大人気ないことだと思えて冷静になるが、どこか僕の自尊心というか人間的な穢さをひどく揺さぶられる思いだった。

「それでもあの子はお前さんを見とった。個展なんぞ開けるような絵描きになるずっと前から」

「え?」

「いつも同じ花を買っていく客がいると儂に話してくれた。あの子が他人の話をするのはその客だけじゃった」

 僕はエリスの顔を思い出した。老人の前に掛かった絵の中の赤いドレスを着た女性は、僕が町の花屋で枯れては買いにいったポインセチアの赤さだった。何故あんなにもその赤さに執着したのかは今となっては思い出せない。ただその絵を描き上げるまで通った花屋に愛想のいい女性店員がいたことを僕は思い出していた。またポインセチアですか。そう言って困ったように笑う顔を。

「花を枯らすような男ですよ僕は」

「儂も見えん絵を見に足を運ぶジジイじゃよ」

「ひとつお聞きしても良いですか?」

 老人は僕に顔を向ける。

「あなたのその目は本当に見えていないのですか?」

 老人は少しだけ間を空けた。

「さてな」

 

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acknowledge the elephant in the room

「ねえ!みてみて!ネンド象!」

「どうみてもストーンヘンジなんだけど」

ストーンヘンジっナンジャコラ!象じゃん!ちゃんと俯瞰してますか?ゾ・ウ・じゃん!」

「駄洒落を思いついたまでは良しとしよう。そのためにわざわざ粘土を買ってきた姿勢も涙ぐましい。ゆえに君の芸術表現に対する才能が惜しい。ストーンヘンジです」

「貴様、我がネンド象を愚弄するか?ならば我とて容赦はせんぞ!ネクロマンシスエロエロエッサイムエコエコアザラシカクマクマヤコン……」

「呪殺のつもりか?なぜ私にこのストーンヘンジを披露しようと思ったのだ。ドヤ顔で3つに割った粘土をまず2つだけ立てて置き、そこに渡すように最後の一片を乗せただけのストーンヘンジストーンヘンジを?」

「何回言うねん!わ、わたしはただ……世界が美しくあればいいと願った。あの日、あの夜空に光った星々はわたしのそんな願いを祝福していた。だのに!だのにだ!なぜこうも貴様は我がネンド象をただの石塊と愚弄するか!?貴様には人の心がわからぬのだ!それでも学級を束ねる長を騙るか!戯け!」

「今私がクラス委員長であることと君がこさえたストーンヘンジストーンヘンジだということの関連性を述べてくれないか?君とまともに議論する気は無いが、けれど私が気がかりなのは私の人生において君という存在を不意に思い出しては何だか可哀想になる気持ちをこの際振り払っておきたいただその一心だ」

「鮭川くん」

「……!? なんだ唐突に!」

「鮭川くん、私は貴方が好きです。誰よりも親よりも」

「お前!お前!」

「貴様が鮭川昇に宛てるつもりの恋文の中身、わたしは把握しています」

「な!?ど!誰だ!私はお前だけには知られまいと……なぜ……貴様ぁあああ!」

「さあ、そなたが前に君臨せしこの雄々しき生物が名を言ってみよ!さあ!さあさあ!」

「違う……ありえない!私がお前ごときに屈伏させられるなどあってはならぬ!ならん!!」

「鮭川くん、どうしてあなたは鮭川なの?私はシャケの皮は残す派です。けれど貴方を見過ごせない。私の目は貴方を常に追っています。これが恋?シャケ?鯵?」

「やめろぉおおおお!それ以上の発言は許さん!」

「ならば言うてみせよ!ネン(nun)……ド象(dadau)」

「ネ……ネ……ネン……」

「カッカッカ!苦しいか?辛いか?涙袋を撼わす顔が健気よのう!さあ言え!さすれば貴様の痴態は我が墓中まで秘匿されよう!」

「おのれ……くっ!はああん、ネン!ドゾォォォおおおお!!」

「あーっはっはっはっは!あーっはっはっはっは!我が勝利!」

「何これ?石?」

「お前!鮭川!?」

「菊永が作ったの?この石。え?なんで花崎が泣いてんの?」

「んなこたどうでもいい!わたしのネンド象を石と言ったことを訂正しろ!」

「象?石じゃん。百歩譲って粘土だろ」

「ガッ!デェエエム!おい!いいか?この花崎はな」

「やめろぉおおおお!」

「お前のことが好」

「知ってた。知ってたよ。けどなんかそういうの確かめるのって小っ恥ずかしいだろ。だから待ってた。これもちょっと恥ずかしいけど。でもさ、嬉しいよ。正直嬉しい。あ、やっぱそうだったんだって今飛び跳ねたいくらいだよ。まあ、ありがとな。菊永」

 

 ちがう。わたしはどさくさに紛れてお前に告白しようと思ったんだ。花崎はお前のことが好きだけど、わたしはそれよりももっと前からお前が好きだって、そう言おうとしたんだ。卑怯だって笑われたり罵倒されたりしたのかな?それでも言ってやろうってそう思ったんだ。けどやっぱダメか。わたしの負けじゃん。石は酷くないか?象なんだけどなあ。

OLお昼に中華屋へ

 お昼休み。私と冴子は最近職場の近くに出来た中華料理屋にやって来た。「中華飯店 桂馬」この実にスレスレな感じが私達を引き寄せた。店頭には春先にも関わらず「冷やし中華はじめました」の立看板。

「うっそ、もう始まってんの」

「季節先取りってかんじだね。あたし冷やし中華にしよ」

 店内に入ると客は私達以外見当たらない。とりあえず端っこのテーブルにつくと厨房から店主と思しき男性が現れ注文をとる。

「なんしやしょ?」

「あたしは冷やし中華!」

「んじゃ私も」

 それから何分が過ぎだろうか。待てども待てども冷やし中華は始まらない。お昼休みも終わりかねない時刻にいよいよしびれを切らした冴子が物申す。

「おじさーん!まだー?お昼終わっちゃうんだけど」

「おまたせしやした」

 満を持して冷やし中華は登場した。テーブルに二皿。カチンコチンの北京ダックだった。

「なにこれ……」

冷やし中華で」

 冷えとかいうレベルを超えていた。なにせ弾かれる箸にフォークにナイフだった。私は散らばった箸とフォークとナイフを拾い集めるとそれを整えて店主の顔をもう一度見た。

「私達の知る冷やし中華に異なる」

「認識、それ即ち個々に背負われし業のもの。嬢さん方の冷やし中華は知らねえが、あっしの国じゃあこいつをそう呼ぶんでさ」

 私はこの北京ダックが北京ダックたる北京ダックであるならばまだしもどうして凍らせてしまったのかと世の不条理を嘆いた。油で丹念に熱せられた二羽の家鴨もよもやカチカチに凍らされてしまうなどと思いもしなかったろう。魂は熱された時に消滅したにせよ、これは愚弄だ。食べ物で遊んではいけないと、このおっさんは教えてもらわなかったのだろうか。はたしてどこの国に油で揚げた鳥を再び凍らせてしまう料理が存在するのか。これは各店舗に出荷される前のファミチキではないか。そもそも中華イコール北京ダックの認識を持ち、尚且つ冷凍してしまうこのおっさんの知性たるやシナントロプス・ペキネンシスのそれではないのか。なにがしたいんですかあんたは?それはついぞ言葉となって口から出た。

「なにがしたいんですかあんたは?」

「気に入らねえなら置いてきな。お代は結構」

 私は二羽分の家鴨の対価たる万札一枚をテーブルに叩きつけた。注文時に冷やし中華と侮って一人前五千円を見逃した私達にも非はある。ここからはプライドの戦いだった。

「智絵、食べよ」

「冴子!何を?」

「あひる、報われないよ」

「冴子!しかし!?」

「食べよ、残さず弔ってあげよ」

「冴子……お前ってやつは」

 私達は歯が折れそうになりながら北京ダックにむしゃぶりついた。徐々に溶け出す水分と混じり合った油がクソ不味い。自然と涙が溢れる。それを見ていたペキネンシスは何を勘違いしたのか感動めいた涙を流しているようだった。法が許すならこの店を爆破したいとさえ思った。しかし冴子の健気にもこの弄ばれた家鴨達に精一杯報いたいとする、冷やし中華を安易に注文した自分の懺悔にも似た姿勢に私も同じ罪人として共にあらねばと考えた。

 いよいよ家鴨が肉体を召される頃、私達二人もまた凌辱の後といった趣きで放心していた。既に午後からの仕事が始まって、私と冴子の電話は鳴りっぱなしだったがそれに応える気力が持てなかった。

「あっしは感動したよ!姐さん方!うちの冷やし中華を平らげるなんて……いや、もう本当にお代はけっ!?」

 私はペキネンシスの口に万札を握りしめた拳を突っ込むと同時にもう一方の手でがら空きのボディにブローをくれてやった。ウポーッ!と言葉にならない声で呻くペキネンシスを尻目に私と冴子は店を出た。薄暗い店内を出ると温かな昼の陽射しが私達を照らし、テカテカの口元は永遠の輝き。「冷やし中華はじめました」の立看板を蹴り飛ばし、私達二人はこれから叱られに行く。

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ヴァンパイア倦怠期

 血を吸い飽きた。長年こんなことを続けていよいよ意味が分からなくなってきた。人間が食事に飽きますか?知らん。そんなことは全然知らん。だって私は吸血鬼だもの。人間せいぜい百歳ちょっとの寿命に対して既に千歳を越えて数えるのもやめた私が血を吸い飽きましたと言って「吸血鬼が血を吸い飽きますか?」などと問える人間がいるだろうか?私はすかさず「千年生きますか?」と問うてやろう。

 そもそも吸血鬼という呼び名も気に入らない。私は鬼などと呼ばれるにはあまりに優しいからです。捨て犬捨て猫見捨てれないし電車でお年寄りに席を譲るのなんて当たり前。まあ年齢から言えば私の方がはるかにお年寄りなのだけれど。

 つまり人間が勝手に鬼呼ばわり(ここでは「泣いた赤鬼」みたいな話は例外とする)しているだけで私はどちらかと言うと「吸血善い人」なわけで、これがいよいよ禁血したなら完全善い人の私です。

 血を吸わない吸血善い人は生きていけるのかという問題があります。さてこのことについてははっきり申し上げて「死ぬ」でしょうね。だって吸血善い人の生命の根源たるはなにかに差し置いて「血」であるからして、血を断つことそれ即ち「死」であると。でもね、もういいかなと思うのです。もう千年以上生きてね、この先何か面白いことあんのかい?とね。ファミコンを初めてプレイした時は感動があった。『悪魔城ドラキュラ』だったんですけどね「こんな吸血鬼おらんしるばにあぁあああ!」みたいに吸血善い人的にはツッコミどころ満載なのもありつつ単純にゲーム性に見惚れたところがありました。それからゲーム機は進化して今やスイッチだかボタンだかを売ってるみたいだけれど全く食指が動かない。どう言えばいいのか、私は血を吸うことそれよりこの生きる限り永遠に続く「生活」に飽いてしまったのかもしれない。一度たりとて全く同じ日はないと言うけれど人生ゲーム千年マップの辛さときたら共感を得れそうにもないが、一例を出せば借りたアパートの(それは時代によって城だったり貧乏長屋だったりするのだが)大家の方が先に逝って住処をおわれるしんどさを想像してほしい。家を買えば済む話だろうと思うでしょ?それが築千年保つか?未だ元気なこの哀しき肉体に家が追いつかないんだぜ?

 だからね、もういいかなと思っていたんだが先日あまりにも暇を持て余して千年生きて初めて遊園地なるものに行ってみた私はアトラクション待ちしていながら目の前に同じように並んでいる女性のうなじが目に映ろうとも相変わらずまったく血を吸う気もしないで、けれど忍耐力だけはあったので二時間待ちとか体感ゼロコンマ二秒くらいだったから死んだ魚の目で立っていました。その時目の前に並んでいた女性に手を繋がれた子供の手にあったソフトクリームが私の着ていたスーツパンツにベチョリンパして膝あたりが冷んやりした。女性、おそらくその子の母親が謝り倒して弁償するなどと言い出したので、ただ一人で観覧車とか言うのに乗ろうとしていただけのこっちがテンパってしまって「私は吸血善い人なので大丈夫です」とか言っちゃってよく分からん感じになったのだが、その後その親子と園内のレストランでお食事イベントが発生して、お子は美味そうにチキンライスを食うとるのを見てからふと母親を見るとなんだか優しい目をしてお子の食事を見守るのが、なんて言えばいいのかな……なんかええなと思ってしまったのです。

 私は親子の姿が見えなくなるまで手を振って、親子の姿が見えなくなると汚れたパンツの膝あたりを見て「生きたのだなあ」と感慨深くなった。もう随分と感じ取れていないこの気持ちは悪魔城ドラキュラ以来、いやもっと別の、もっと価値のある瞬間だったように思う。私にはまだ貯血がある。それがどれほど保つかは知らんが、ゆえにそれまでの間はこういう気持ちを探しながら生きてみるのも悪くはないなと、チーズに韓国海苔を巻いたのつまみながら酔いのまわり微睡む今、そんなことを考えていたなう。