アントーニオの肉一ポンド

返却期限を過ぎました。

ジョイスノート:2「ある出会い」

アメリカ西部劇の世界をぼくらに紹介したのは、ジョー・ディロンだった。彼はわずかながら蔵書を持っており、《ユニオン・ジャック》や《勇気》や《半ペニーの脅威》の古い号の雑誌類である。毎夕放課後、ぼくらは彼の家の裏庭に集まり、インディアン戦争ごっこの手はずを決めた。

 さて、続く二篇目『ある出会い』の主人公も「ぼく」を語る少年です。ジョイスはこの『ダブリンの人びと』という作品を十五の短篇で書きました。そしてそれらの短篇を〈少年期〉、〈青年期〉、〈成年期〉、〈社会生活〉の四つの相に分類し順序立てて並べています。各短篇は「ダブリンの日常」の切り抜きといった以上に関わりはありませんが全体を通して見た時、それは人間の生涯、とりわけ精神の移り変わりを描いていることに気づきます。

 そしてこの「ある出会い」は先の「姉妹」同様に少年から見た大人の世界、憧憬から始まる心の変遷を描写しています。主人公の「ぼく」たちは神学校に通う生徒です。彼らもまた「姉妹」の「ぼく」と似て抑圧された世界で暮らしています。西部劇は彼らの教えからすると悪しきものであります。ジョー・ディロンの弟、レオは授業中に西部劇雑誌の所持を神父に発見され叱責を受けます。この光景を「ぼく」は「ぐずなレオ」と表現しますがもう一回りコミュニティの規模を拡げればインディアン戦争ごっこでジョー・ディロンにいつも優位を取られる「ぼく」もまたレオと同じ側の敗北者なのです。レオが叱責されるのは彼の愚鈍さから発生したとはいえ同じ遊び仲間である「ぼく」にもその罪自体は心理的に共有されるのです。

夏休みが近づくころ、ぼくは、たとえ一日でもいい、退屈な学校生活から抜けだそうと決心した。

そこで「ぼく」はレオと、もう一人の友人マーニーを誘い冒険を計画します。これには抑圧された世界からの逃避の試みと、強者としての自分を獲得するための割礼といった意味合いが含まれます。彼らは互いに六ペンスずつ貯金し《鳩の家》と呼ばれる防波堤の先にある発電所を目指します。冒険の前に「ぼく」は二人から六ペンスを徴収し、彼らには自分の六ペンスを見せて確認させます。ここにも「ぼく」の優位に対する渇望が垣間見れます。

 さて計画実行の日、約束の時間になってもレオは現れません。待ちきれない二人は彼を置いて出発を決めます。ここで面白いのがそれを決定したのがマーニーだという部分です。マーニーは「もう行こう。あのでぶ公、思ったとおり、びびりやがったぜ。」と促しますが、優位性を取りたいはずの「ぼく」は「で、あいつの六ペンスは……?」とあまりに現実的な心配事に関心を寄せます。そこに「ぼく」の本来の資質というものが現れていますが彼は気づきません。

マーニーは未練がましくパチンコを眺めており、そこで汽車で帰ろうと持ちかけてみたら、彼はとたんに元気をとりもどした。太陽が雲の陰に入ってしまい、ぼくらに残されたのは、へとへとに疲れた思いと食べ物のくずだった。

 意気揚々と始まった冒険は彼らに変化を齎すはずでした。しかしそれは幻想で、現実は彼らをトムソーヤにはしてくれません。自由の獲得は門限への心配を前に崩れ去り、結局子供であることから逃れられない彼らには保護下という首輪を外すことは出来ないのです。

 意気消沈した彼らの冒険が終わりを迎えようとした時、第三者の登場によって息を吹き返します。彼らのもとにやって来たのは奇妙な年老いた男性でした。男は彼らに対して天気について、子供時代、学校や本のこと、などを一方的に語り始め、次いで「ぼく」とマーニーのどちらに恋人が多いかと尋ねます。

一人もいないとぼくは答えた。彼は信用しようとせず、きっと一人はいるに違いないと言った。ぼくは黙っていた。

ーーじゃあ、とマーニーは生意気にも男に言った、おっさんは何人いるのさ?

 三者の会話の中で「ぼく」だけが消極的です。得体の知れない男に対しての不安が「ぼく」を萎縮させます。男の言動は徐々に異質さを増し始めて、彼が少し離れた隙に「ぼく」はマーニーに、もし名を聞かれたら「おまえはマーフィーでおれはスミスだからな。」と偽名を名乗るように促します。このことは不信感の高まりに現実を許容出来なくなってきている自分からの逃避というふうにも見れます。

 再び戻った男は、猫に石を投げるマーニーの様子を見て「鞭で打たれるべきだ」と「ぼく」に告げます。しかし聞いていくとそれは折檻だけの意味合いではないことに気づきます。

男は、自分だったらそういう少年に鞭でどんなふうに打つかをぼくに向かって述べた、まるで複雑に込み入った謎を解き明かしでもしているかのように。それが好きなんだ、と彼は言った、この世でなによりも。

 男の変態的な性癖が露わになると、もはや「ぼく」には醜い現実から逃避したいという気持ちしかありません。逃避から始まった冒険の終点でもまた逃避を望むのはなんとも皮肉ですが「ぼく」はその場を抜け出そうとマーニーに助けを求めます。

ーーマーフィー!

ぼくの声にはわざと強がっているような口調があり、自分のつまらぬ策略が恥ずかしかった。もう一度その名前で呼ばねばならず、やっとマーニーがぼくを見て、おおい、と答えてくれた。彼が原っぱを突っ走ってぼくの方へと駆けて来るときに、ぼくの心臓はどんなに高鳴ったことか!彼はまるでぼくを助け出しに来るかのように走ってきた。そこでぼくは深く悔いた。というのは心のなかで今までずっと彼を少し軽蔑していたから。

 男(=外界の現実)に絶望し、ちっぽけなプライドもずたずたにされた「ぼく」は紛れもなく敗北者でした。かつては下に見ていた同級生にすがりながら己の愚かさに気づいていきます。「ぼく」と変質者の男、形は違えど人間の醜さを浮き彫りにする物語。しかし私はこの物語に清々しさを覚えます。それは「ぼく」が気づく形で物語に結末を置いているからで、憧憬と理想を片手に虚勢を張っていた「ぼく」がこれから真に受けいれていかねばならない大切なことを知ったという意味ではこの夏の冒険も無意味なことではなく変質者でさえもその助力を成しているからです。〈少年期〉に分類される話の中では、この「ある出会い」がとりわけ未来への期待が向いている気がして好きなのです。

 

ダブリンの人びと (ちくま文庫)

ダブリンの人びと (ちくま文庫)

 

 

 

ジョイスノート:1「姉妹」

 故あってジェイムズ・ジョイス『ダブリンの人びと』(ちくま文庫 米本義孝訳)を再読しています。これはいつだかの誕生日に友人が贈ってくれた一冊で、今一度手に取ってみると表紙は擦れて帯は一部破れてしまっています。なぜ今ジョイスかといえば最初に申し上げたように一応理由はあるのですがここで敢えて説明することでもありません。ただこうして再び向き合う機会に以前は残さなかった感想を置いておこうかと思いました。一度読み終えてから六年ばかりが経ちます。気付かぬうちに何か自分の中で変化があったことを期待して一篇ずつ読んでいきたいと思います。

こんどこそあの人はだめだ、三度目の卒中だから。

 冒頭を飾るのは「姉妹」という一篇です。物語は少年の視点を軸として、その目に映る外界の様子と彼の内的心情を描いています。引用部分の「あの人」というのは少年と交流のある老神父を指し、少年の言葉はその死を仄めかしています。

毎夜、その窓を見上げるたびに、ぼくがそっとつぶやくのは〈パラリシス〉という言葉だった。それはいつもぼくの耳によそよそしく響いていた、まるでユークリッド幾何学の〈ノーモン〉という言葉や、教義問答集にでてくる〈シモニー〉という言葉のように。しかし今では、それはまるでなにか邪悪で罪深いものの名前のように、ぼくには響いてくる。それはぼくを恐怖でいっぱいにするが、それでもそのそばに寄っていって、命を奪うようなそいつの仕業をみてみたくてたまらない。

 この一文の流れから、少年の信仰心、つまり神父に対する尊敬の念が少しずつ失われつつあることに察しがつきます。

ぼくは口にオートミールをいっぱい詰め込んだ、怒りの言葉が口をついて出そうだったので。小うるさい赤っ鼻じじいが!

ただそれでも他の大人から神父について「彼の教えは子供によくない影響を齎す」などと悪く言われることには我慢がならないようで心の内では神父を悪く言うコッターじいを罵倒し認めたくないという少年の意地と幼稚さが見え隠れします。そうやってどこかでは神父を擁護しながら神父の死を希求している節さえ見られる少年の感覚は、まさに引用部にもあるように少年自身が夜空につぶやいた(ここでは神父に向けられた言葉ですが)〈パラリシス paralysis〉という言葉、つまり麻痺を表しています。自己の神父に対する態度とコッターじいの漠然とした考えがほぼ同一線上にあることに少年は気づきません。何にせよ神父は病魔によって肉体的な死に向かうのと同様に少年の中でもその神秘性や畏敬の念が薄れて精神的においても死につつあるのです。

日なたを歩いていきながら、ぼくはコッターじいの言葉を思いだし、夢の中であのあと何が起こったのかを思いだそうとした。思いだしてみると、長いビロードのカーテンと吊り下がった古風なランプがあった。はるか遠い、風習が一風変わったどこかの国にいたような気がしたーーペルシャにいたのだ、とぼくは思った……。

 少年はやがて神父の死を現実のものとして納得するに至り、同時に戸惑いをおぼえます。これまで師事してきた神父は少年の中ではすっかり神秘性を取り払われたみじめな存在でしたが、それでもその喪失は、まだ成長の途上にある少年にとって葬り去ることが出来ないでいるのでした。少年は夢の中でそのもやもやから逃げ出すように「はるか遠い、風習の一風変わったどこかの国」へと自らを導きます。この描写はフランソワ・トリュフォー大人は判ってくれない』の終盤になんとなく似ています。母親から見放された少年が鑑別所を脱走し海を目指す姿に。

 神父もまたコッターじいとは別の方向から少年を抑圧する存在でした。神父が少年に教えた様々な知識、そこには知的強者の性癖としての善意といった側面があり、それに気づきだした少年は次第に神父への態度を信頼から疎ましさへと変化させていくのです。精神的支柱の喪失による少年の知的覚醒、超自我の形成。その完成を促すのがいよいよ登場する「姉妹」です。神父を世話していたイライザとナニー。イライザは神父の死に際が如何にみじめなものであったかを語り始めます。対して妹のナニーは無言です。ナニーには今にも眠り落ちそうな雰囲気の描写がありますが、どことなく死に行く神父の姿と重なります。ナニーが演じ、イライザがドラマとして語る。神父の最後という演目に対して観客である少年は、神父がもはや越えるべき存在でしかないことを確信するのです。

ぼくにはわかっていた、あの老司祭は、ぼくたちがさっき見たとおり、ひっそりと棺の中で、おごそかで獰猛な死に顔をして、胸には空っぽの聖杯を載せて、横たわってるってことを。

 

ダブリンの人びと (ちくま文庫)

ダブリンの人びと (ちくま文庫)

 

 

 

 

 

地獄の長、田舎に泊まる

 私は地獄の長。泣く子も黙る鬼を半泣きにさせてきた私は地獄の長となった。たとえば自分はこんな部屋に住みたいなあなどとインテリア雑誌をめくりながら夢想することがあると思う。私は言うなればこんな部屋に住みたいなあと思う部屋の彼岸で長になってしまった。別段鬼の半泣きが見たいわけではなかった。ただ平穏に暮らし老後は預貯金で過ごしたかった。しかしこれも業。私は地獄の長になるべくして生を受け地獄の長街道をひた走ってきたこれまでの日々だった。地獄の長たるやその責任は重大なものである。地獄の長であろうと地獄の長らしく地獄の長をするのは地獄の沙汰である。皆が私を地獄の長と呼べどそれは誉れにあらずただ怖れでありこましに言えば畏怖である。キャッチミー畏怖ユーキャン。地獄では誰もがこの地獄の長である私にビビった。地獄の長は孤独である。友などなく仲間などいない。地獄の長は唯一である。窓口は狭い方が物事は円滑に進むが私が受け止められるキャパシティなどとおに超えても「地獄の長様! 地獄の長様!」と地獄の誰もが地獄の長コールを止めない。ハイハイそうです。私が地獄の長です。疲れた。疲れたのだ。私は疲れきった。もう地獄の長やめちゃおっかななどと二十代のおもいきりで転職したい。もっとアルバイトとかして甘酸っぱい出会いを期待したい。だがもう遅い。地獄では地獄の長の顔がわれすぎている。どこへ行っても地獄の長。一日の終わりに床に就くまで私の周りでは誰かが私を地獄の長と呼ぶ。ペット飼いたい。神様どうかお願いです。私が地獄の長を一時でも忘れられる瞬間を与えてはくれませんでしょうか? そんな願いが通じたのだろうか。私がある日目を覚ますと見慣れぬ景色が広がっていた。そこは山間の寒村で雲雀の声がよく通った。え? ウソ。マジ? 私はしばらく村の中を歩いた。村人は朝早くから薪を割ったり米を炊いたりしていた。私が求めていたのこれだと思った。ヴィレッヂイズビュティフォウ! 早速私は薪を割る翁に声を掛けた。「手伝いましょうか?」翁は「何で?」と聞き返した。至極当然である。私はこの翁を手伝う必要などなかったし、翁も手伝われる謂れなどなかった。然し乍ら私にはこのやり取りが大きな収穫だった。ビビられていない! この全方位地獄の長である私に翁は怖れることなく「何で?」と言ったのだ。ヴィレッヂイズヴァンガード! 永住したいと思った。楽園。そんな言葉らしくないよね? だけどここが私の「住みたいなあ」だった。翁にあしらわれた私は川縁で遊ぶ子供達と遭遇した。「坊やたち、何して遊んでいるの?」私は問わずにいられなかった気持ちは浮いて浮いて不沈艦ユリシーズ! 「は? 誰おっさん」私は胸が締め付けられる思いだった。生まれてこのかた地獄の長と呼ばれ続けていつしか本名も忘れたこの私を「おっさん」と! ありがとう少年! いい薬です!

 そうこうしているうちに小腹がすいてきた。いつもならその辺にいる醜悪な獣を獲って食らっていたが郷に入っては郷に従えって言うし私は米の匂いが鼻にこびりついてそれが鼻くそか糠か分からなくなっていた。炊きたてのお米が食べたい。私は宿を探した。無論うつし世の銭など手持ちはない。私はネゴシエーター私はネゴシエーター、そう何度も言い聞かせた。宿などなかった。この村は自給自足で独自の文化圏を築き上げていた。へえ、いいじゃん。であるならば民家を訪ねて一夜泊めてはもらえぬかと聞いて回った。この小さな寒村には世帯が二十六あることが分かった。二十五のNGを経て残すところ最後の家にたどり着いた私は空腹で目が霞んでいた。ニンゲンクウ、ニンゲンチカラテニイレル。頭の中の猩々様を必死に振り払う。私はおっさん! 地獄のおっさん! もうよく分からなくなってきた。頼む! 私に一握の米を! 

「かまわんよ」

 イエス! イェスイェスイェスジーザスクライスッ! ありがとうお婆さん! こんなに泣いたの……初めてなんだからね!

 私は土間で正座して芋汁を啜った。その吸い込む勢いで芋汁が脳天を突き抜いて味噌汁になるかと思った。美味すぐる! 山岡さん! コレって……

日本人はなぜこんなに、ラーメンが好きなんだ。

美味しんぼ』38巻「ラーメン戦争②」

 ともかく私は芋汁を堪能した後、念願の米にありついた。ひと粒ひと粒が艶めいて独り立ちしていた。「母さん、もう仕送りはいらないよ」そんな声が聞こえて私は「立派になったねぇ〜」と目尻に涙をためた。

「お婆さん、ありがとう。もう僕には思い残すことはない。このまま塵芥となって消えてしまってもいい気分です」

「そうかい。残念だねぇ。デザートにと買い置きしていた業務用のレディーボーデンがあるんだけどねぇ」

「賞味しましょうとも!」

 そうだ。私にはまだ思い残したことがあるじゃないか。あのバケツかな? と思われる容器を抱えて掬うところ掬うところありとあらゆる場所全てがアイスクリームに包まれたアイスクリーム界の銀河レディーボーデン! 私はお婆さんから差し出されたバケツボーデンにスプーンを突き立てた。パキン。え?

「あれ。冷やし過ぎたかねぇ?」

「お婆さん代わりのスプーンを!」

パキン。

「あれ。カチンコチンだねぇ」

「お婆さん代わりのスプーンを!」

パキン。

「あれ。ユリゲラーだねぇ」

「ババア! どうすんだこれ! 全然溶けねぇじゃねえか! 謀ったな! 俺が地獄の長と知って始末してやろうて腹か!? いや、そうだね。絶対にそうだ! 俺がそうだと言えば白でも黒になる! 地獄の長は絶対だ! 白でもない黒でもないGLAY!」

「はて? なんのことかね? そろそろ頃合いボーデンだよ」

「あ、ほんとですねぇ。あんまい。おいふぃ。歯にしみるぅ」

 しかして私はお婆さんに一宿一飯の恩にと地獄行き確定チケットを一枚差し上げ、深々と一礼して村を後にした。お母さん、今日までいろいろあったけど、僕もう少し頑張ってみるよ。死神さん家のライト君とか、埋れ木真吾くんとも仲良くするよ。だから見ててよ。いつかビックリマンチョコのシールにラインナップされてみせるよ。神羅万象チョコじゃないよ。

えっくすでい

 引くほど超お金持ちの百五集院家に生まれた一人娘のレイカにはもはや欲しいものなどなかった。毎年この時期になるとパパやママが「レイカはサンタさんに何をお願いしたのかな?」とかまをかけてくるが結局のところ誰がサンタを担おうと欲しいものがないので答えようもないのだった。

「ペガサス」

 別に欲しいわけではなかったが世への憂いとでも言おうかレイカは無理難題を両親にふっかけることでこの因習に終止符を打とうと考えたのである。そしてこれが去年の話であり、レイカの傍にはペガサスが今も健在である。また今年もこの季節が来ると羽根の生えた馬を抱きかかえた血塗れのパパの姿を思い出して吐き気を催した。

「マキちゃん、ごめんね。私は一年経ってもあなたを愛せない」

 デウスエクスマキナと名付けて普段はマキちゃんと呼んだペガサスの轡を解き放ち外へと逃した。マキちゃんは粘り気のある唾を吐き散らすと何の未練もなく飛び去った。血塗れのパパが悲しそうに笑う。レイカは雑念を振り払うと食卓に向かった。

「レイカはサンタさんに何をお願いしたのかな?」

 来た、と思った。レイカはこの日のために用意した寄越せるもんならやってみろリストから最もヤバめなやつをピックアップした。とはいってもペガサスもそのはずだったのだ。そんじょそこらの無理めではこの親父はやってのけてしまう。更なる再考の結果レイカは一つの回答をはじき出した。

「透明プリン」

 そんなものあるわけがない。きっとこれは無理だ。レイカは信じた。透明プリンてなんやと思いながら。これには流石のパパも首を傾げた。この娘を病院にやるべきかという常識的な眼差しさえ携えていた。レイカはいいぞと思った。いいぞ透明プリンもっとやれ! と思った。

 百五集院家の朝、七面鳥が鳴き叫んだ。彼らは今夜締められる。そのことよりもよっぽど悲しいのは枕元に置いてあったリボンで結んだ箱の存在だった。莫迦な、まさかそんなわけ。レイカはリボンを解いて箱を開けた。そこにはガラスの器がポツンとあった。よもや、よもやそんなはず、そう思いながらレイカは器の上を指でついた。感触あり。泣いた。バチクソ泣いた。指先を嗅ぐとカラメルの匂いがした。カラメリーゼしていた。備え付けられたスプーンで空を切った。空を切るはずだった。なんかを掬った。口に運んだ。カラメリーゼからのカスターディン!! まっことプリンだった。透明プリンだった。あったんかお前! その様子をドアの向こうでうかがっていたパパが部屋に入ってきた。満面の笑みを浮かべていた。泣いた。またバチクソ泣いた。バチクソ泣きながら唇を噛んで血を垂らし渾身の「ありがとう」を刻んだ。対決は翌年に持ち越された。

 今日という日はいつしか特別となり、世界中の人々が雰囲気に酔いしれることを許される。愛と希望に満ち満ちた街は鐘の音にのせて幸福をイルミネイトする。メリークリスマス、誰にも祝福を。メリークリスマス、絶えることのない愛を。

世界は思うほど深く彫られていない

 片田舎にある寂れた旧い映画館。僕はふらっと訪れた町のその場所に気づくと腰を据えていた。他の客といえばここを根城にしているだろう映画などまるで興味なさげなキャップ帽のオヤジがひとり。こんなことで経営が成り立つのかは疑問だが僕には関係のないことだった。ともあれ室内は暗転して一瞬視覚が奪われると古びた建物の埃臭さが際立った。やがてフィルムを回す映写機の音が流れスクリーンに明かりが灯る。チケットは無駄にならなそうだ。

 

***

 

「あなた何度言ったらわかるの? あなたみたいな聞き分けのない子初めてよ! 皆さんもいいですか? 彼女のようにならないこと! 落ちこぼれは落ちこぼれらしくひとりぼっちで泣いてればいいわ」

 何を責められているのかわからなかった。これを理不尽というのだろう。けれど私は別段気にならなかった。この狭い山裾に為る村で私がどれだけ孤独に追いやられてもそれは生まれた時から当たり前のことだったから。とかくこのヒステリー気味なおばさんは村の中学校に最近になって赴任してきた教師で私のことを目の敵にしていた。私は私で寂しい人間という自覚があったけれど、この人もそんな人間だと思った。そう思うと私はどこかで彼女を憐れんでいて、ある意味彼女の態度は私に希望すら与えている節があった。逆効果ですよおばさん、そう静かに呟いて音にはしなかった。

 帰り道。村の端から端まで歩いても三時間とかからない狭い土地でそれを目にすることは珍しいことでもなかった。山の方から下りてくる緋色の集団。皆々女だ。彼女達は村人からは「宗教」と呼ばれていた。それはいち村人が神名を口にすることを愚かとするのか、それとも安に語彙に乏しいからなのか、ともかくただ「宗教」と呼んだ。彼女達は村の一員でありながら村人との交わりを絶ち村のはずれで独自に生活圏を作っていた。私は「宗教」を嫌悪していた。というよりはその中心にいる人物が憎かったのだ。彼女達の教祖、私の母。私が教祖の娘であることを知っているのは信者と私を引き取ってくれた伯母夫婦だけ。伯母は妹が教祖となって以来距離を置いていた。「宗教」と村人の関係は良好とは言えず、信者でない者は「宗教」を不気味がるか蔑んでいた。「宗教」がこの村に根付いたのは何時頃からだったか、とにかく私が生まれる前からそれはあって、私が生まれた時には母は信者の一人だったらしい。伯母と母は「宗教」を隔てて対立し、祖父母も伯母側の立場にあったので私を母から引き剥がしたという。伯母から母のことを聞かされるたび私の中にはいつしか母に対する憎悪の念が宿っていた。一方的な話だけならまだしもそれを裏付けるように母は一度たりと私に会いに来たことはない。狭い村なので顔を合わせないことは難しいけれど私は彼女の声を知らない。彼女を母などと呼称するのも憎らしく、血のもたらす呪いが私には悔しかった。

 帰路の中で一緒になった久美が信者の姿を見て「気味が悪い」と言った。信者達を侮蔑するような言葉を並べて顔を歪める。好奇と蔑みの入り混じった感情は信仰心なんてものが薄れた私達の世代なら誰もが持っていた。私は唯一といっていい友達がその中の一人であることを仕方ないとは思いながらも複雑な気分だった。それも母が悪いという感情に変わった。

 「宗教」のことを除けば久美と私はどこにでもいそうな友人同士だった。溌剌とした性格の久美は私に足りないものを全部持っていた。私が孤立していようがいまいが御構い無しに接してくれる。その優しさが村に残る理由だった。

 何もかもが永遠とは友情を結べない。私が好きだった人の言葉。今の担任がこの村に赴任してくるまで私の先生だった彼は放課後の教室でそう言った。私は先生にどう続ければ良いのかが分からず黙っていると彼はニッコリと笑って転任の話を告げた。とまらない涙を拭うように彼は私を抱きしめた。何もかもが永遠とは友情を結べない。その言葉が今になって私の心臓を握り潰すほどに響いた。久美が亡くなった。

 山中で発見された遺体は凄惨なものだった。切り裂かれた腹部からは内臓が取り出され、血の気を失った青白い肌は陽に照らされてぼんやりと光っていた。もう一言も言葉を持たない久美の表情は驚くほど安らかで行儀の良い標本だった。私は私がどす黒い闇に飲まれていくのを感じた。街からやってきた警察は異常者の犯行として捜査を始めたけれど私はこれが母の仕業に違いないと直感した。村人なら誰もがそう考えたはずだ。この村の狂気はそこに集約されている。直接的な交わりを避けてきた中で保たれていた日常は一気に瓦解した。久美の両親をはじめとする村人の集団が「宗教」の暮らす施設を襲撃したのだ。警察の介入でそれほど大ごとには発展しなかったものの、取り押さえられながら悲痛に叫ぶ久美のお父さんを私は見ていられなかった。母はそんな姿をただじっと見ていた。静かで冷たくてそれだけで魂を消せてしまうような視線。私はまた母を殺さなければならないと思った。

 警察は相変わらず山中に異常者が潜んでいる可能性を前提に山狩りを行なった。久美の無念を晴らせるのは私しかいないと感じた。私は台所の包丁をしのばせて母のもとを訪ねた。信者は私の言いなりだった。よもや教祖を殺されるなどと考えもしないふうで私を母がいる一室にまで通した。

「二人にして」

 そう言うと彼女達は引き下がった。

「何用でしょうか?」

 天幕の向こうで女が言う。

「あなたなんでしょ」

「言葉の意味が分かりかねます」

「しらばっくれないでよ! いったいどれだけ私を苦しめたいの!」

「……」

「ケジメをつけに来た。私と死んで」

「あなたが生まれた時、私は後悔しました。何故だか分かりますか?」

「うるさい」

「私は神に仕える者として愚かにも男と交わってしまった。それは一度きりのことでしたがあなたが残った。今もそれは消えない痣としてこうも近くにある。殺したいですか? ならそうなさい」

 私はもう私を止められなかった。もう一歩で切っ尖が届くところで信者が私を羽交い締めにした。そのまま施設の外へ引きずり出されて全身を蹴飛ばされる。教祖の制止でそれはようやくおさまった後、私はぼろぼろだった。霞む視界の中で憎しみを込めて女を睨みつけた。彼女達は私を置き去りにそのまま建物へと消え、私は気を失った。

 目が醒めると伯母の家だった。伯父から散々に叱られて二度と会うなと言われた。私は私が今日まで抱いてきた悔しさをぶちまけた。伯父も伯母も哀れみを私に向けた。何もかもが永遠と友情を結べない。私はいよいよ一人だった。

 ようやく身体の動くようになった頃、母が死亡したと聞かされる。私と伯母は身元確認として警察に呼ばれ母の最期の姿を見た。山中にある滝の麓、大石にぶつかって一部が潰れた身体はあの冷淡な母と同じ生き物ではなかった。赤い血がまだ染みついている。母の死をきっかけに施設にも捜査の手が及ぶとそこから大量の人骨が発見された。取り調べに対して彼女達は黙秘を貫いた。私は指針を失った弱き信者の一人を問い詰めた。まだ癒えきらない傷口を目の前に突き出し彼女の心理を揺さぶる。すると彼女は「宗教」の持つ猟奇性を暴露し始めた。「宗教」は村の外からも入信希望者があれば拒まなかった。時には信者が街に出て勧誘することもあったという。村では他者を敬遠する彼女達が社交性を備えているのは意外だった。全ては教祖、つまり母の指示のもと行われた。そして村の外からやってきた新たなる信者は最初の修行として無惨にも殺害されるという。尼僧達の纏う緋色の尼頭巾。その染料こそ生贄となって殺害された元信者の血液だった。つまり彼女達は信者を取り込み信仰にかこつけて殺人を行う狂気の集団だった。しかし何故久美まで殺されなければいけなかったのか。それはこの臆病な信者の知るところではないらしい。教祖の指示で久美を拉致した後、久美は母と二人きりにされたという。信者が呼ばれた時には久美は既に死んでおり、血液と内臓を抜き取るよう母から指示されたようだった。何にしても母はやはり気の触れた狂人だった。天罰などというものがあるのかはわからないが母の最期はこれまでの行いを思えばまだ生易しく感じる。私はあの女の血を引いているんだ。けれど私は私だ。そう言い聞かせるように呟きながら、気づくと私は母の死んだ場所に来ていた。

「残念だったわね」

 聞き覚えのある声に振り返ると担任の女がいた。

「何が……ですか」

「隠さなくてもいいのよ。みんな知ってるから」

「私は別に残念なんてこれっぽっちも」

「そうなの? あの人最期まであなたを守ろうとしてたのよ」

「何を言ってるんですか」

「あなたには次期教祖たる素質がある。教祖なんかにさせられないって」

 私にはこの女の言葉の意味がわからなかった。理解したくなかったのかもしれない。

「その気がないなら私の言うとおりその座を譲ってくれればいいのに。可哀想な人」

「母は……母はあなたが殺したんですか」

「そうよ。あの人は私が殺しました。そこから、ドーーン! って」

「母を殺して教祖になりたかったんですか」

「違う……違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違うッ! 私はあの人に認められて教祖になるはずだった! 信者同士の殺し合いでも全員返り討ちにした! 私こそがあの人の次でなければならないッ! なのに! あの人はお前みたいなガキが相応しいとしか言わなかった。そう言いながら二言目には呪われるのは私だけでいいなんて言う! 何故!? 苦しみは分けてくれたらいいじゃない? 私は何だって出来るのよ。あんたの友達なんか簡単に殺しちゃった。だってあの人あの子をあんたの身代わりにするとか言い出すんだもの! 五千万歩譲ってあんたが教祖なら許してあげましょう許さないけど! だけどどこにでもいるようなガキがなんで私を差し置いて教祖でオッケーなわけ? 意味わかんない! いーみーわっかんねえアハハハハハハハ!!」

「久美はどこにでもいる子なんかじゃない」

「ハア〜ァ?」

「久美はもういない。先生ももういない。……お母さんも。誰も永遠とは友情を結べない」

「なんのポエムかな? よく出来ましたよく出来ました! パチパチパチパチ! もういい? 死んでぇえええ!  って、え? 躱したらダメでしょ?」 

 女は勢い余って滝の中へ落ちていった。何もかもが虚しい。人殺しの集まりの中でしか生きることが出来なかった人。普通には理解し難い考えのその人の救いだった母。呪いなんて馬鹿げてる。なんで普通に出来なかったんだろう。どうして普通の親子じゃダメだったんだろう。母はどこで間違えて何を間違わなかったのだろう。私は……私は……。

 村に戻ると何人かの信者達が連行されていた。彼女達は驚くほどに人の顔をしている。どうしても人目を避けねばならず、どうしても人から蔑まれてしまう人達。彼女達は彼女達なりに生きる場を求めて飢えていた。

「ちょっと待って! あの……私は村を出ます。罪を償ってその後にどうしても行く場所がなかったら、その時は私を探してください」

 自分でもそれが何のためになるのかは分からなかった。ただ一瞬、母と共にいたこの人達について考えると私はこう投げかけずにはいられないのだった。

 

***

 

 気味の悪い映画だ。評価で星二つというところか。理解し難い。しかしこういった意味ありげな作品の前で僕のような人間は理解を及ばせようとしてしまう。結果として鑑賞のために支払った代金の意味を考えると後悔が残る。キャップ帽のオヤジがイビキを立てているのを見るとよっぽど有意義なもののように思えた。僕は二度とこの町に立ち寄らないだろう。しかしなにかの偶然であの村から立ち去った彼女に出くわしたなら言ってあげようと思う。世界は君が思うほど深く彫られていない。とても単純でとても複雑だ。永遠などなくとも終わりのその日まで生まれたものは君の中で消えたりはしないよ。

春の木漏れ日のなかで

 真冬だった。大雪だった。帰国便欠航。異国の言語が分からぬも雰囲気で案内されるがまま連れられたのは空港の外だった。まつ毛が凍り、涙が目尻に張り付いた。中に戻って抗議する。相手にされない。幸いのポケットWi-fi 。家族に電話する。出ない。現地の知り合いに電話する。出ない。人生は驚きの連続だ。これって恋人からのサプライズってやつですか? お一人様ご案内! 最上日出子は目の前が真っ暗になった。

 日出子がまだ六歳の頃。彼女はウシがキャトルミューティレイトされる事例に驚愕した。それがいつしか解明されて宇宙人の仕業などでないという結果が出たとしてもその時の衝撃は忘れないだろう。全身の血液が抜き取られる。そんな怖ろしいことがこの身に降りかかったら……そう思うと家のありたけの段ボールをかき集めて防具を作成していた。おかげで日出子はキャトルミューティレイトの恐怖を克服したが、散らかった紙くずの山とそれが段ボールだった頃に収納されていた実家のミカン畑から採れた出荷用のミカンを目にした母から多大なる制裁をくらい、闇とは宇宙より齎されるのではなくより身近なところに潜んでいるということを学んだ。

 その時の教訓が今日においてはいかされなかった。初めての海外。よもや帰れないなどと想像しない二十三歳の日出子を六歳の日出子は罵った。「全身の血液抜かれちまいな!」日出子は途方にくれた。寒さを凌ぐべく空港内のレストランでホットコーヒーを注文しこれからのことを考えた。旅行会社に問い合わせると別便の手配があるので現地の航空会社に確認を取ってくれと言われた。遅延する滞在期間については保険が適用されるとの連絡を受けてそれで終わった。現地の言葉は通訳のホアンさんを通していたので交渉能力を持たない日出子は日本語の分かるスタッフを探すことにした。よし! と一人決意のもと立ち上がる日出子に男が話しかけた。

「あの、あなたも飛行機欠航された方ですか?」

「え、そうです。もしかしてあなたも?」

「よかった。僕も一人でどうしたものかとあぐねいていたところで。失礼、僕は佐々木と言います」

「も、最上です」

「よろしく。振替えは出るみたいですが明日にならないとハッキリしないそうです……この大雪でタクシーも疎らだから立ち往生しちゃって。もしお時間よろしければお隣いいですか?」

「だ、大丈夫です!」

 日出子の心細さは一気に解消された。助かった。そう思った。佐々木なる男は素性を語り始める。職業は教師。冬休みを利用して海外に暮らす親戚を訪ねていたという。物腰の柔らかな雰囲気で、歳は四十代と日出子とひとまわりほど離れていたが若々しい顔つきをしていた。眼鏡がずれるのをなおす仕草。深みを持ちながらも嫌味のない声と口調。アクシデントの中で落ち着いた慣れのある態度。頼もしさみ。日出子の中のホレテマウヤロ酋長が敵将の首を天に掲げてウポポーーィ! と吼えた。

「僕は日本で国語を教えているんですが時折いまの国語教育の在り方について考えてしまいます。果たしてこれは彼らのより良い未来のために何か役立つのだろうか。もちろん意味はあります。しかしながら僕たちがそれに気づかせてやれるだろうか。おこがましいかもしれませんがその部分はカリキュラムが汲むところではありません。となると僕が出来ることは何だろうか。人は意味を持つことでそれが楽しさに到達するのだと僕は考えます。万人が足並みを揃えるのは難しいことです。ですが僕は少しでも多くのことを学びとってもらいたい。僕も学問に救われた一人としてそう思うんです」

「……」

「あ、すみません。つまらない話でしたね」

「ややや、そんなことないです。興味深い話です」

 国語と聞いてたぬきの糸車しか思い出せなかったが佐々木が話すだけで日出子は聞き入ってしまった。話を広げることは出来なかったが聞いていて心地好かった。

「これで大丈夫だと思います。ホテルはここからバスが出てますからそのまま乗っていけば迷うこともないでしょう。もし分からないことがあれば僕に連絡してください」

「何から何まですみません。助かりました。ありがとうございます!」

「いえいえ。困った時はお互い様ですから。では僕はここで」

「あの! 私は、その、勉強とか全然ダメですけど、だけど佐々木さんみたいな先生がいたらたぶんきっとまた違ったかもなって思いました!」

「……ありがとう。生徒たちにもそう思ってもらえるよう頑張ります。じゃあお気をつけて」

 日出子は災難の中で一握の喜びを感じていた。佐々木に教えてもらったホテルのベッドの上で彼の言葉を思い出す。人は意味を理解することで楽しさに到達する。誰かとは大違いだ。その時電話が鳴った。

「日出子。大丈夫か」

「お父さん? 大丈夫だよ。こっちで日本の男の人に助けてもらった」

「男!? 誰だそれは!?」

「お父さんには関係ないよ。お父さんと違って意味を大切にしてる人。意味があってこそ人生は輝くって考えてる人」

「意味? まったくもって違うぞ! 人間は本能的に快楽中枢を刺激しながら無意識にもドーパミンドバドバっ! ちょ、母さん! 何す」

「日出子? お父さんのことはほっといていいから無事に帰ってきなさいね。まったく、心配かけさせないでよ」

「ごめんね。お父さんにもありがとうって言っといて」

 日出子の父。ミーン・最上(旧姓イーミー)は無意味学を提唱する元大学教授のミカン農家。意味など不要と考える父とは対照的な佐々木だから惹かれるものがあったのかもしれない。考え方は様々だ。日出子は自分なりに生きれば良いとあらためて思った。とにかく湯船に浸かりたい。これは本能か意味の追求かはさておき、窓から見える雪がどこかほんのりと赤らんで桜吹雪のように見え、春の来訪を願うメタファーとして降り注ぐのだった。イミフ。

悲蛇 (前)

  スジャヌパッタは墓地の清掃係だった。今年で13歳になる。友達はリスのフィネガンと街で布屋を営むメリサおばさん。フィネガンはスジャヌパッタが森を散策した時にポケットに入り込んでいた。メリサおばさんはスジャヌパッタが8歳の時に出会ってそれから母親のように面倒を見てくれている。雇い主である牧師のマクスウェルとはあまり良い関係ではなかった。かといって悪いというわけでもなかったが雇用主と雇われ掃除夫の域を越えないドライな間柄だ。スジャヌパッタはそれを特に気にしてはいない。そういうものだと考えていた。

 マクスウェルは元々スジャヌパッタを雇う気などなかった。そもそも教会は清掃係など募集すらしていなかったのだ。マクスウェルとスジャヌパッタの出会いは5年前。スジャヌパッタがメリサおばさんと共に教会を訪ねた日に始まる。

 当時のスジャヌパッタはストリートチルドレン。街の片隅で家を持たずその日暮らしの生活をしていた。街には彼以外にもそういった子供は少なくはなく一つの社会問題となっていた。とはいえ彼らを全て救済、あるいは支援しようという動きは活発ではなく実質はほぼ放置状態にされていた。彼のような子供達は彼らなりに組織を形成していた。いくつかのグループがあり、中には盗賊紛いの過激な連中も見られた。スジャヌパッタ自身はそのどれにも属さず、基本はひとりで過ごしていた。その態度がひとつ幸福だったのかもしれない。街の人々はたむろする子供達をどこかで怖れていた。先述のとおり犯罪に手を染める者もいる中で彼らの印象は良くなかった。まるで野生の獣のように扱われた彼らの心と街の人間に齟齬が生まれるのは無理もない話だ。そんな中でスジャヌパッタはどこか異質だった。身なりこそ良くはないものの彼なりに矜持があったのか毎日必ず川で身体と衣服を洗い清潔を出来る限り保とうとした。他の子供からは冬の冷える夜でさえブルブルと身体を震わせてもそんな習慣をやめないスジャヌパッタを愚かと見る者もいた。けれどそれが彼と他の子供とに違った印象を持たせていた。ある日、スジャヌパッタが道端で眠っていた。夢の中で彼は火山に居た。遠くでマグマの飛沫を眺めながら彼はあの中は暖かいだろうかと考えていた。考えると確かめずにいられなかった。そういう向こう見ずな部分は彼の欠点でもあったがとはいえそれは夢の中だった。マグマの中は暖かかった。いつも浴びる川の水は冷たく、夏は暑いだけだった街で感じたことのない感覚だった。スジャヌパッタはこれが暖かいということだと思って目を覚ますと身体に布が一枚かかっていることに気づいた。風で飛ばされてきたにしてはやけに綺麗な布だった。スジャヌパッタがふと横に目を遣るとメリサおばさんがしゃがみ込んでいて「おはよう」と言った。もう日も暮れようかという時刻だった。スジャヌパッタはメリサおばさんに連れられて彼女の店を訪れた。そこでソーセージを挟んだ白パンスクランブルエッグをご馳走になった。スジャヌパッタはその間ひと言も口にしなかった。為すがまま流されるままといった感じでそれが美味しいだとか感謝の念だとかを特に感じてはいなかった。メリサおばさんも黙ってスジャヌパッタを見ていた。スジャヌパッタが食べ終えて初めて彼女は質問した。「家がないの?」スジャヌパッタは頷く。「いつから?」考えてみるが答えは出なかった。気づけばこの生活が始まっていたような気がする。あらためて考えてみると良く生きてきたなと自分でも関心した。スジャヌパッタは自分についてほぼ何も話さなかった。代わりにメリサおばさんに聞いた。「なぜ僕を助けたの?」彼女は答える。「君は困ってたの?」スジャヌパッタはこの質問に対して困った。困っていたかと言われればなんとなくやり過ごしてきた生活に嫌気がさしていたわけでもない。これまでがそうならこれからもそうだと考えていた。しかし自分から真っ先に出た言葉は「助けたの?」だったことに些か心理といったものを垣間見るくらいにはスジャヌパッタという少年は賢かった。だから困った。メリサおばさんは悩ましげな少年に微笑み返して一つ約束を持ちかけた。明日の昼、またこの店の前に来てくれたならこれから屋根の下で暮らさせてあげるとメリサおばさんは言う。スジャヌパッタは半信半疑だったが皿に残ったケチャップを指で掬って舐めると「じゃあ、また明日」と言って店を出た。

 約束の昼、スジャヌパッタはメリサおばさんの言う通り店の前までやって来た。メリサおばさんは既に待ち構えていて、どこか得意げな表情で「じゃあ行こうか」とスジャヌパッタの手を引いた。彼女に連れられてやって来たのは街の教会だった。それは日曜だというのにあまりにも寂れた雰囲気だった。メリサおばさんが教会のドアを叩くと向こう側、おそらく礼拝堂と思われる、から返事が返ってきた。

「今日は静かに淑やかに過ごされるべき祝福の日であります。私はその御言に従い粛々今日という日を祈りに捧げております。どうかお引き取りを」

 言葉の内容とは裏腹に随分と横柄な口調だとスジャヌパッタは思った。メリサおばさんはしつこくドアを叩き続けた。それが次第に我慢ならなくなったのかドアが開くと中から若い男が現れた。

「るせえなばばあ! 俺の返事が聞こえなかったか!? 帰れって言ってんだよ!」

「こんにちは牧師さま」

 メリサおばさんはずっと笑顔だった。男の脅迫めいた態度にもまったく物怖じしない。

「……なんだこのガキ」

 男はスジャヌパッタを見遣ると冷たく言い放ちどのみち答えには聞く耳持たない様子でふて腐れていた。

「マクスウェル、あなたのところでこの子を引き取ってほしいの」

 感情表現に差異はあれど二人は同じ反応をした。どちらも願い下げだと言わんばかりにメリサおばさんの発言に抗議した。スジャヌパッタにしてみれば突然連れてこられた教会で態度の悪いおよそ牧師などとは思えない男の世話になるくらいなら路上生活のほうがマシだったし、マクスウェルにはただただ面倒事でしかなかった。

「マクスウェル、お父様がお亡くなりになられてもう3年になるわね。そろそろ自覚をもって教会の復興に取り組まないといけないんじゃないかしら? この子はきっと良い助けになる。君はここでマクスウェルを助けながら勉強しなさい。君はまだ若い。それに賢いわ。マクスウェルはこんなだけど君の良き先生になる」

「「根拠!?」」

 二人は声を揃えた。メリサおばさんは微笑む。半ば強引に押し付けられた形でマクスウェルはスジャヌパッタを引き取ることになったが納得はしなかった。スジャヌパッタはスジャヌパッタで不良牧師に心を開く気などなく、お互いに会話もないまま時間が過ぎていった。その日、夕食として出されたのは白湯とパン屑だった。スジャヌパッタは文句を言うことなくそれを口にした。パン屑を白湯で濡らした手で握ってパンもどきにして食べるスジャヌパッタを見ながらマクスウェルは初めて彼に話しかけた。

「小僧、惨めな気になったなら出ていけ。メリサの言うことは間違いだ。俺がほんとうにお前の先生ならこんな仕打ちはしないだろうよ」

「そうでもないですよ。この屑パンでも食べようと思っても食べれない日なんてザラなんです。それにこの雨。せっかく水浴びしても服をまた洗わないといけない。そう思えばあなたは好きになれないけど感謝はします」

 マクスウェルはスジャヌパッタの生意気な言葉に腹を立てつつもストリートチルドレンの現状を嘆いた。自分には生まれながら親がずっとそばにいてそれが当たり前に10年、20年と過ごしてきた。父親を病気で亡くし教会を継ぐ身になった今、マクスウェルは自身がその身分にないと感じていた。とはいえ他に頼れる者もなく、遺された教会はマクスウェルの手に余る代物だった。スジャヌパッタの言葉にマクスウェルはそれまであった当たり前の環境を自分が無駄とは言わないまでも如何に考えを及ばせて過ごしてこなかったかを想起させた。マクスウェルはスジャヌパッタに部屋の場所だけ教えると自分は寝ると言ってその場を後にした。スジャヌパッタは食器を洗い、マクスウェルから説明を受けた通り礼拝堂の裏にある物置小屋のような部屋の扉を開けた。少し埃臭かったがスジャヌパッタは久しぶりに屋根のある所で眠った。

 翌朝、スジャヌパッタはマクスウェルに言われて墓地の掃除に向かった。教会も墓地だけは開放されていて時折誰かが御参りに訪れる。マクスウェルが牧師として成せることはこの墓地を管理することだけだった。他は何も知らない。だからスジャヌパッタにさせられることと言えば身の回りの世話か墓地の掃除くらいのものだった。マクスウェルはものになるまで賃金は払わないと言った。スジャヌパッタは特にそれを期待しなかった。むしろ働いて報酬を得るという仕組みに馴染みのないスジャヌパッタにとっては粗末な食事でもきっちり朝昼晩与えられ、住まう部屋も用意されている環境が充分な見返りになっていた。スジャヌパッタは掃除を終えるともうすることもないので部屋に戻ってそこに乱雑に積まれた本を手に取った。まるで読めなかった。字を知らなかった。いくつかはわかるものもあったが歯抜けになって意味が通らない。そこでスジャヌパッタはメリサおばさんを訪ねた。字を教えてほしいと願い出たのだ。メリサおばさんはスジャヌパッタに辞書を渡した。あとはマクスウェルに教えてもらいなさいとメリサおばさんは言った。スジャヌパッタは辞書を手に仕方なく教会へ戻るとマクスウェルが腕を組んで待ち構えていた。

「どこへ行っていた?」

「おばさんのところ。字を教えてもらおうと思って」

「勝手に出かけるな」

「いつでも出ていけって言うのに」

「出て行くなら戻るな。そういう意味だ。俺はお前に自由を与えてはいない。ただ選択だけを与える。選び方で先が決まる。生きることは許可だ。許可なくして決定はない。その手順をとばすととんでもない失敗をする。わかったなら部屋に戻れ。次に出かける時は俺に許可を取れ。気が向いたら許しをやる」

「あの……」

「なんだ」

「字を教えてください」

「許可しない。部屋に戻れ」

 スジャヌパッタには次第につまらなさが募るようになった。マクスウェルは言葉どおりスジャヌパッタに沢山の選択肢を与えた。スジャヌパッタはそれを決定するために度々マクスウェルに許可を取るのだが悉く認可されなかった。それまで気ままに暮らしてきたスジャヌパッタにはその制約がつまらなかった。いまだ読めない本の山は忌々しく、これならば本など見つけなければよかったとさえ思えた。墓地を掃除する毎日にも飽き始めた頃、スジャヌパッタは草陰から飛び出した蛇を見つけた。蛇の種類は分からなかったがなんとなく本能的に有毒の者と結びつけたスジャヌパッタはそれを追い払おうと箒で威嚇した。蛇は悠然と鎌首を持ち上げてなんと語り始めたのだ。

「お前さん、欲が芽生え始めたね」

 スジャヌパッタは耳を疑った。蛇の言葉がよく理解できるのはおかしなことだった。

「なんだお前!」

「おいおい、大きな声を出すな。おかしな奴だと思われるぜ」

「どうして、人間の言葉を話せる?」

「俺は何年も生きてきたからな。見様見真似さ」

「馬鹿な! そんなことあるもんか!」

「だからデカい声出すなって。いいことを教えてやる。この教会の西側に大きな森がある。そこには智恵のつく果実ってのがなった木が一本だけ生えていて、それはきっとお前さんの役に立つ」

「なんだそれ! 信じるもんか!」

「聞き分けないねえ。実際お前さんの信じられない事実がここにいるってのに」

 蛇の言葉には一理あった。蛇が喋れるならそれはその智恵の実とやらのおかげなのではとスジャヌパッタは少し思ったがその考えを振り払い箒で蛇を追いやった。蛇はシュルシュルと草陰の向こうに消えた。

「何を遊んでやがる!」

 マクスウェルこそとスジャヌパッタは思ったがそのまま掃除に戻った。その夜、スジャヌパッタは蛇の言葉を思い出していた。強ち嘘とも決めつけられないと感じていた。むしろ興味は森に誘われる。マクスウェルはきっと許可しない。まだ日が昇りきる暗がりの中、スジャヌパッタはひっそりと部屋を抜け出して森へ向かった。