モンターグの貸出票

返却期限を過ぎました。

いつもの

 二日ばかり家を空けていた。新郎の友人として結婚式に参加するからである。

 気づけば夏用の礼服を持っていない僕はそれを揃えるところから始めた。それから招待状に返事を書いた。許されると信じてふざけたことを書いた(描いた)。それをポストに投函した後、昔のことを少しだけ思い返した。やれるかどうかは二の次で夢のような話を口にした僕はもうその頃に居残ったままになっている。その頃に共有していた熱量みたいなものは今になって目を向けると本当にキラキラしていて、眩しくて小っ恥ずかしい。妙に年を重ねて素直でない僕だ。いや、もとより素直なほうではない僕か。なんにも変わっとらんなと思うと呆れて可笑しくなる。

 当日は朝早くに家を出た。それでも会場最寄の駅に下りてからまだ時間に余裕があって、他の参加者で友人の一人に電話を掛け合流することになる。しばらく待つとまた電話がなって顔を合わせる。つい数週間前に見た顔、しばらく見ない顔。いろいろだがいつもの面子だ。顔を合わせれば出てくる言葉はいつもの調子。机に座ってノートを広げ、スタジオに入って楽器を弾いたあの日から、笑って「またな」を繰り返し、今日までそれが続いている。かつて高校生の頃に、教師から「高校時代の友人こそが永遠の友人だ」というようなことを聞いた。その日、僕らの集まりは大学生になってから築いたものだ。先生、お言葉ですが友人関係にいついつだからということはありませんよ。そんなふうに思う。

 式場に着く。式が始まるまでのしばらくの時間、結婚について考える。それがどういうものであれ、このように遠方からも祝いに訪れる人達がいることは良いことではなかろうか。新郎新婦については一世一代の催しである。少しでも花を添えようと集まる人達もどこかで一つの目的を共有する。この一体感はその場でしか伝わらないだろう。それまでの僕らはいつも良いことばかりだったわけではない。時にはぶつかることもあった。わからないこともあった。今でこそつまらないことかもしれないが一緒に苦労もしたと思っている。無闇に美談とするのは憚られるが、そのような日々を含めて今日一日は最良となるべき昂まりを覚えるのだろう。

 緊張する新郎新婦を目の当たりにこちらもそわそわする。静かに見守るより他ない。

 挙式を終えて披露宴が始まる頃には少し和らいだのか、僕ら大学生だった頃の悪い癖。あの日のままとまでは言わないが行儀のよくなさが少しずつ滲んでいた。いつものノリというやつだ。テンションが上がる。僕自身も盛り上げれたならと妙な飲み方をしてしまい、挙句、親御さんに向けた手紙が読まれる間ずっと居眠りしてしまっていた。本当にごめんなさい。周りから叩かれたりしても起きない迷惑地蔵と化した僕を置いて会場は感動に包まれていた(らしい)。本当にすみませんでした。

 薄っすらと聞こえた声がある。親族の方にまで心配される僕を「いつものことだから」と笑ってフォローしてくれる声。新郎の彼だった。水を僕に手渡し階下の休憩所まで送ってくれた。途中エレベーターの中で謝った。彼は言う。「お前らがいつもの感じやから緊張がとけたわ。ありがとう」

 僕は泣きそうだった。申し訳なさもあるがそんなふうに言われるとは思っていなかったので。

 式全体が終わった後も彼は感謝の言葉をみんなにかけてまわっていた。個人的には不甲斐ない姿しか見せれなかった僕だけれど、良き日に立ち会わさせていただいたことをありがたく思う。

 これからも末永くお幸せに。

 

追伸:ようやく自宅に着いたら冷房がフル稼働していた。二日間ほぼ丸々な。些末なことです。

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生垣の果て

 そこは延々と生垣が続いていました。向こう側の御屋敷の敷地は一体どれほどあるのか。終わりの見えない生垣の端から端までを確かめるべく、私は生垣を沿って歩いたのです。もう何歩歩いたのでしょうか。腰につけた万歩計を確認します。そこにはGOOD LUCK !! とデジタル表示されていました。ああ、きっとこれは夢なんだなと思い、頰をつねると頰をつねった時くらいの痛みを感じました。

 さて、まだまだ続く生垣でしたが、私は生垣を沿って歩く途上で初恋について考えておりました。当時は私もあの子も園児でした。なんということでしょう。あれから三十年も生きてしまっていたのです。ジュラ紀には考えられないことでした。けれども齢にして三十路も過ぎた私と同じく、あの子も既に三十路を越えているのかと思うと上手く想像出来ないのでした。何せ六歳であの子の表情は止まっているのです。私が恋した理由。それはあの子が蟻の墓を拵えたからでした。その日、園で亡くなったウサギのゴメス。一説にはメキシカンとされたそのウサギは園児たちのアイドルで、ある朝カチンコチンで発見されたゴメス、その死に我々は大いに涙しました。けれどあの子だけはゴメスよりも蟻の死を悼んでいたのです。同級の女児はあの子がゴメスの死に無情だと批難しました。するとあの子はこう言ったのです。

「蟻はウサギより早く死んでいた」

 死は順序に従って弔われるべきであると。ゴメスの死には痛みを覚えても路傍の蟻、その死を見過ごしていた我々でした。けれども幼い園児たちにはあの子の理屈が理解できませんでした。ただ私はそんなあの子の態度に些か共鳴しました。三時のおやつの際、私はあの子に自分の分のヤクルトをそっと渡したのです。

「なにこれ?」「ほんのきもち」

 あの子はそれ以上何も聞き返さず親指で蓋を貫き、ペロッと指先を舐めてから、穿った蓋よりそれを一気に飲み干しました。ヤクルトの蓋はペリペリ剥がす派の私にとっては衝撃の初恋でした。

 まだまだ生垣は続くのでした。膝に負担を覚えた私はその場にしゃがみ込んでしまいました。すると前方から自転車が向かってきます。運転者は何故かホッケーマスクをつけていました。明らかに不審者でしたが真っ昼間ということもあってか私には危機感というものは希薄でした。キキーッと音を立て私の前で自転車を止めると運転者は礼儀とでもいうようにマスクを外して挨拶をしました。ちょうどマスクの穴の空いている部分に応じて日焼けした運転者の顔には小麦色に焼けた水玉模様が浮かんでいたのです。私は小麦色に焼けた水玉模様フェイスの男の挨拶に応じると、生垣の端は何処まで続いていたかを聞きました。男は此処に来るまで一キロ弱走ったと言いました。ならば私の冒険もあと一キロ弱で終わるのかと思うと少し寂しいのでした。私は男に感謝を述べて先を目指しました。

 男の言っていた一キロ弱を過ぎても、とはいえ体感でしたので実際は過ぎていなかったのかもしれませんが、未だに終わりの見えない生垣に私は嘘をつかれたのだと思いました。けれど男は何の為に嘘をついたのかが疑問でした。ただよくよく考えてみれば真昼にホッケーマスクを被って自転車を運転する人間性が彼だったのかもしれません。ともかく私は先を目指しました。もう足は限界でした。ウオノメとかもできていたかもしれません。そこに痛みが走りました。もう限界かなと思われたその時、見上げた空から何かが飛来したのです。それは地面に直撃した瞬間で爆ぜました。飛び散ったのはパズルのピースのようでした。私はそれを拾い集めて組み立てることにしました。日差しで額には汗が浮かびました。パズルのピースにそれが滴ります。ああでもない、こうでもないとはめ込んでいくうちに陽は落ちて、辺りはすっかり暗くなってきました。パズルの完成は困難でした。言ってしまえばパズルを完成させる必要などどこにもなかったのです。ただ私は生垣と違うものに没頭したかった。生垣もうええやろ、つまりうんざりしていたのです。いよいよ完成したパズルに携帯電話内蔵のライトをあててみると映し出されたのは生垣の写真でした。ひっくり返しました。踏みつけました。紙質がふにゃふにゃになるまで踏み躙りました。土と混ざってくちゃくちゃになったところを蹴散らしました。薄々気づいてはいたのです。緑色のピースの比率が明らかに高く、完成を目指すことは私にとって地獄だと。疲れ果てました。目を閉じました。目を閉じましたので星とかは見えませんでした。風がそよぎます。生垣が揺れます。いや、揺れはしませんでした。それくらい強固な生垣でした。緑が綿密でした。私はいったいいつからこうしていたのでしょう。何故生垣の果てを求めたのでしょう。考えをやめたくても考えは浮かびました。何故、どうして。ですが答えは見つかりませんでした。私は生垣の前に立ち、そっと手をかざしました。葉先が刺さります。(了)

 

「どう?」

「どう……って」

「入賞できる?」

「無理と思う」

「なんでよ!?」

「なんで……って」

「理由は?」

「見当たらへんほうが難しい」

「マキちゃん嫌いだよ!」

「ごめん、これアカンいうて嫌われたなら仕方あらへん」

「マキちゃんあきらめないで!」

「ヒロミ。悪いこと言わんさかい応募はやめとき。字数が足らんとかいう問題やないで」

「え。わたし……才能ないの? アカン……飛ばずにはおれん」

「?! あんたまたビオトープ飛び込む気か!? アホ! そうなんども骨折だけですまへんで!」

「はなして! はなしてマキちゃん!」

「はなさへん! 何べんいうたらわかるん! ここ2階や!」

「わたしには才能ないんや! 才能ないなら未来も絶望や! ほんなら飛び立つんは摂理や!」

「なにが摂理や! アホなこと言うな! おもんない話やったけどおもろいとこも! ……あったような気がしますクーポンマガジンのホットペッパー!!」

 「しょうもな!」

「は!? お前には言われたないねんけど」

「あーーー!」

「あーーー!」

 

 ほとばしる汗は青春が流さなかったかもしれない誰かの涙。あの頃のわたしは校舎の2階から校庭のビオトープに飛び込むのなんてへっちゃらだった。マキちゃんがいてくれたから、マキちゃんがあきらめないでくれたから、わたしとマキちゃんは永遠だ。永遠。終わらない生垣。

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正体の正体、その実態

 上野上みや彦。その正体は地獄の道化師ヘルピエロだった。みや彦の日課はインコの餌やりとポインセチアの水やりだ。普段は日常を日常らしく送りながらうどんより蕎麦を好んで食した。自治体の集会には必ず顔を出し、誰彼構わずすれ違う時は挨拶を欠かさなかった。近所の釣り好きジジイから筍を分けてもらった時はいい感じに醤油で煮て「少し作りすぎまして」と照れ笑いを浮かべジジイの家族にお返しした。愛読書にはフォークナーを挙げ、とりわけ「エミリーに薔薇を」が好きだと言った。なんじゃそりゃと理解のなさを示されても「なら読め」と強要したりしなかった。赤信号を無視したことは人生一度もなかった。パスタはアルデンテにこだわらなかった。先祖の墓は丁寧に磨いた。歯磨きを医者に褒められた。non・noのデルモに告られた。カラオケでは沢田研二を歌い上げ、一緒ににいた知人の涙を誘った。週末には「男はつらいよ」シリーズを鑑賞し続けいよいよ3周目に突入した。たまに変なティーシャツを着た。定時に退社しても白い目で見られなかった。挑戦を受ければいつ何時でも囲碁を打った。将棋もさした。烏賊漁にも参加した。天竺も目指した。ビックリマンチョコのウエハースは捨てなかった。乳搾り体験では俄かに興奮をおぼえた。カスピ海ヨーグルトを増やした。打ち上げ花火はテレビで見た。アスクルが当日来ても丁寧に応じた。プライム会員だった。ITバブルの頃には、株式を公開して莫大なキャピタルゲインをあげたベンチャー企業もあった。前年に比べて消費者物価コア指数と生産者物価コア指数は、ともに0.08%UPとわずかな上昇にとどまった。クララが立った。蒟蒻畑でフルーツとれた。ヘンリエッタブエナビスタ。パンナコッタ。ストップモーションアニメロボットパルタ。

 みや彦はいつのまにか自分が地獄の道化師ヘルピエロであることを忘れていた。憎悪に駆られ復讐の徒に堕ちたはずのヘルピエロみや彦。今やなんのためにこの地にやって来たのかすっかり思い出せなかった。ただ「へるぴえろみやひこ」と発音するとちょっとだけ楽しかった。インコに「へるぴえろみやひこ」と言葉をかけ続けると覚えて声真似してくれた。甲高い声色で「へるぴえろみやひこ! へるぴえろみやひこ!」と叫ぶインコと共にこのちょっとだけ楽しい暮らしをいつまでも味わっていこうと思ったのだった。

蜚語蛙鳴館 - 天國の前庭 異聞 - 其の三

 私が目の覚める頃、柑橘は家にいないということが続いておりました。無力な私はそれを見過ごすしかありませんでした。枕元に置かれた、以前よりも彩りの豊かな食事が私には忌々しく、荒んだ心持ちは感情のままにそれをひっくり返しました。またそれも私が眠ってしまったうちに妹が片付けておりました。同じ屋根の下に住みながら、妹との姿形はおぼろげになっていきました。事情を汲んで村長を説得すると云った鬱金は一体なにをしているのか。そもそも村の連中はどういうつもりなのか。何故私以外の誰ひとりとして禁忌、女の漁を悪しとしないのか。それらを確かめようにも私の身体はあまりに衰え過ぎていました。床に伏せたまま長い長い時間を過ごしていた気がします。ゆえに誰とも会うことはありませんでした。唯一の依処であったはずの妹でさえ。そのことに気づくと同時に私の元から離れていこうとする柑橘の幸福を願って「嫁に行け、私のことなど気にするな」などとかけた言葉の数々が単なる虚栄心だったと気付かせるのでした。私はひとりぼっちでした。その孤独の中で寸分残された誇りが今か今かと私を消滅させるべく囁くのです。楽になりたい、それが私の本音でありました。

 そんなときでした。ただ生きてそこに在るだけの私を訪ねて彼女は戸を叩いたのです。金糸雀でした。妹は漁に出ていたために私はその日も一人で留守をしておりました。訪ね人などあっても到底もてなす技量などありはしなかったのです。私は眠ったふりをして表にいる金糸雀が立ち去るのを待ちました。やがて呼び声は止み、私もほっとしたのか知らぬ間に眠っていました。夢うつつ、何故か枕元では金糸雀の声が再び囁きました。これは夢だなという心地が私には備わっておりました。夢の中ならまだ相手も出来ようと私は金糸雀の呼び声に応えました。

「お薬は飲まれなかったのですね」

「面目無い。まだ懐にしまっております」

「いえいえ。よいのです。見ず知らずの女が突然渡した得体の知れぬものを口にしようなどとは私とて戸惑います」

「そのようなことは……いえ、正直にお話ししましょう。私はまだ生きたがっているようです。妹との別れが惜しい。まして今のような仲を違うようなままでは尚更のこと。金糸雀殿にいただいた薬、幾度と口に運びかけては万に一つを怖れてしまいました」

「よいのです、よいのです。橙様の柑橘様を想われる気持ち、私の胸にもしかと刻まれました。私にも兄がおりました。まだ私が小さい頃に戦さ場で命を落としたゆえ顔も薄っすらとしか覚えておりませんが……きっと柑橘様は橙様のことを今も愛していらっしゃいます。私が私の兄に対してもそうであるように」

「ーー……」

 私は言葉を継ぐことが出来ませんでした。久しく触れていなかった人の優しさが肌に染む思いでした。

「橙様。橙様は《蛙鳴館》というものをご存知であられますか?」

「アメイカン……?」

 聞き覚えのない言葉でした。

 

 男はそこまで語ると少し黙った。私がどうしたのか? と聞くと申し訳なさそうに頭を下げた。何か厭なことを思い出す、そんな様子だった。蛙鳴館。私もそんなものは聞いたことがない。男が教えた字面から何やら建物かというくらいの想像は出来たがそれが男の話にどんな影響を与えるものかは見当もつかない。兎角、私は男に話を続けるよう云った。すると男は水を一杯くれという。私は話の続きが聞けるのなら二杯でも三杯でも汲んでやるという気で、男に少し待つように伝えて裏手から水を汲みに行った。再び部屋に戻ると相変わらず男は具合悪そうにしている。格子の隙間から水を渡すと男はそれを一気に飲み干した。かと思うと途端えづき始め、床に思い切り吐き出した。暗がりでよく分からないが胃液に混じって血の匂いがした。私は男に大丈夫かと聞くとまたもや申し訳なさそうに水のことを感謝して続きを語り始めた。

 げこ……

 男の話す声に混じって蛙の鳴き声が聞こえた気がした。確かにこの辺りは田畑があり、蛙なども寄ってくるのだろう。だが私は教会の中から蛙の鳴き声など今迄一度も聞いた記憶がなかった。だからその時になって蛙がこの辺りにいてもおかしくないということを想像させられた。しかし私の中では瑣末なこととして興味はすぐさま男の話へと移っていったのである。

蜚語蛙鳴館 - 天國の前庭 異聞 - 其の二

 山も朱づき神貢が明け、村では禁漁が解かれました。若衆は活気づき、外では舟出を祝う威勢の良い声が聞こえました。私はやはり惨めな思いでそれを聞いておりました。

 ある朝、柑橘は云いにくそうに私に告げたのです。私に代わりに漁に出るつもりなのだと。村で女が海に入ることは長い間かたく禁じられてきました。海には嫉妬深い蛟の化身がおって、女を見かければ舟ごと水底に引き摺り込んでしまうなどと伝えられていました。事実、掟を破って行方知れずとなった夫婦がいたことを村の大人ならば誰もが知っておりました。私は必死に諫めました。なにより妹を危ない目に遭わせたくなかったのです。ですが妹はこのままだと暮らしが行き詰まりになるといって聞きません。私は私のことなどよいからお前は婿をもらって幸せに暮らせばよいのだと云いました。柑橘はそれ以上何も云いませんでした。その時は分かってくれたものと信じておりました。

 普段の白粥に鯛の身が入っていたのに気付いた私は血の気が引くのを覚えました。信じ難いことでした。いくら妹が海に出ようなどとひとり宣うても、村のお偉方がそれを許す筈などございません。代々守られてきた習わしなのです。けれど妹の身体からは前にも増して潮の香りがするのでした。私は柑橘を問い詰めました。妹は涙を浮かべて何も云いません。それでも血が上った私は妹の頰を張ってしまったのです。今でも妹が私を睨んだその目を忘れません。良かれと思ってやった妹の善意を私は踏み躙ったのです。

 私は弱った身体を引き摺って久方ぶりに外へと出ました。陽の光は私の身体を貫いて、そこへ押しとどめようとします。ですが私は確かめねばなりませんでした。掟を破り妹が漁に出ることについて村長や周りの連中が了承したことが私にはどうしても納得いきませんでした。

 村長の屋敷に着くなり、私を出迎えたのは長の息子である鬱金でした。鬱金は爽やかで体格の良い、私とは正反対の男でした。

「村長殿はおられるか?」

「どうした橙さん? 悪いが親父は今おらん」

「今はどこに? 今日の漁はとっくに終わったろう。妹もそろそろ帰る頃だろうしな」

「なんだ? 随分ご立腹じゃないか」

 私は思わず鬱金に掴み掛かりました。そのとき袖から覗いた枯木のような私の腕はなんとも頼りないのでしたが、気概だけは勇んでおりました。

「お前も知っていて見過ごすのか! 村が守ってきた戒めは何のためだ!」

「履き違えちゃいけないよ橙さん。柑橘はあんたのために願い出たんだ」

「私は私のことなどどうなってもよい! しかし妹は違う!」

「……あんたこそ戒めだなんだと楯にして結局はてめえの都合じゃないのかい? 橙さん。今はもう古い因習に縛られる時代じゃないんだ」

 私の腕は簡単に振りほどかれてしまい、鬱金は子供をあやすように私に云いました。確かに妹や鬱金のような若い世代は考えも違うのやもしれません。けれど村長やその周りが許す筈などあるわけがない。彼らは知っているのです。かつて掟を破り海に出て帰らぬ人となった夫婦、それが私たち兄妹の両親であることを。当時の妹はまだ物心つかぬ赤子で、そのことを私は伏せておりました。それゆえ説き伏せようと必死な私の態度が柑橘には常軌を逸して見えたのでしょう。全てを知る村長たちならば私と同じことを云う筈なのです。

「なるほど……そうだったのか……橙さん。親父には俺から伝えておこう。それはそうとあんたに会わせたい人がいるんだ。せっかくだ。あがっていってくれ」

 私は鬱金に連れられて座敷に通されると、其処にはひとりの女が正座しておりました。枯草色の長い髪。両の眼は秋の紅葉の朱さでした。肌は透けるように白く、どこか現世離れした佇まいでした。

「お初に。私、金糸雀と申します」

金糸雀さんはね、山向こうから薬を売ってまわっているそうなんだ。ちょうど橙さんの話をしておったんだよ」

「ではこの方が? なんでも心臓を患っておられるとお聞きしました。よろしければお試しいただきたい薬がございます」

 私は金糸雀と名乗る女の垢抜けた美しさに見惚れていたのに気づき、慌てて言葉を継ぎました。

「薬……でございますか?」

 私の病は心臓にありました。そこが弱って身体に上手く血を巡らすことが出来ぬというものです。村長が連れてきた医者も手放した難病で、ゆえに金糸雀の言葉には些か疑いを持ちました。皮膚を裂いて臓を弄ると云われたほうがまだ私には信じられた。それが薬ひとつでどうこうとは到底思えぬのでした。

「ええ。これはまだ世に出回らぬ貴重なものです。ですから訝しむ心中も私はお察しします。なのでおひとつ特別に差し上げますからよろしければお試しください。それできっと良い兆候が見られると私には自信がございます。そうでなければお忘れください。もし私の申すとおりであれば今一度お声かけくださいまし」

 私は家に戻る道すがら、ずっと金糸雀の顔を浮かべておりました。恥ずかしながらこのような身体で色恋など遠に諦めた私でしたが、それがどこか疼くようでもどかしいのでした。

 家に着くと妹が飯を拵えておりました。互いに交わす言葉もなく私は別の靄を抱えたまま床に就き、金糸雀から貰い受けた薬の包みを見つめておりました。

 

 私は次第に男の独白に惹かれているのに気付いた。脅されて聞くより他ないといったつもりだったが、今や芝居の客のように固唾を飲んでいたのだ。さてこの男の罪とは如何なるものだろうか。私は推理を巡らせるも未だ不可思議に包まれて、次は? それで? と期待するのだった。懐から燐寸を取り出して火を灯す。咥え煙草のまま上目を遣るとぼんやり男の表情が前に浮かぶ。虚ろげで生気はない。だがその話術は私を虜にしていた。

 

蜚語蛙鳴館 - 天國の前庭 異聞 -其の一

 懺悔室。

 私は本物の神父ではない。信仰心を持ち合わせていないという点で本物ではないのだろう。そんな私が神父を騙るのは、誰かに救いを与えることで僅かな自己愛を獲得できるからだった。とんだ似非神父だと自ら懺悔してみせよう。神はお赦しくださるだろうか? それとも侮蔑を込めた高笑いを響かせてこの罪を誅伐なさるだろうか? 私は嗤ってしまう。信仰心がないと云いながら、その顔色を窺っている自分を。口寂しさから煙草を咥え、火を灯したところで告解部屋の扉が音を立てた。慌てて消したためかまだ少し煙たい。しまったと思った。迂闊だった。しかし私はそれで仮面が剥がれてしまうかもしれないことにさえ眩い光を見ていた。破滅願望。否、私はとことんに自惚屋であり、自己陶酔のためならば過程はどうあれ手段は問わないのだ。

 だが訪問者から部屋に篭った匂いについての言及はなかった。私は妙に残念な気持ちがした。訪問者は格子窓の前に立つと、何かを思案しているのか躊躇われるのかしばらく黙していた。私から声をかけると訪問者はようやく口を開いた。くぐもった低い声は聞き取りづらくどこか動物の鳴き声じみていた。電球照明がひとつぶら下がっただけの薄暗い部屋の中でその訪問者は黒染めの合羽を頭から被っており、こちらからはその口許だけが浮かんで見えていた。

 

 夏の季節。九つに躯劃(くかく)された體(まち)の中でも殊更暑さが厳しいこの地域では作物も出来がわるく、そのためか《神頼》は古くから住民の習慣であった。もともと別の地域からやってきた私にしてみれば、気候による不作を信心の深さで克服しようとする姿は愚かに見えた。ならば気候に合う種を育てればよいではないかと伝えてやることはできたが私はそうしなかった。代わりに簡易の教会を設立し、彼らの信仰心を食い物にしたのだ。おお! なんと傲慢な詐欺師か! しかし私は聖者と悪心を使い分けることで悦に浸ることができた。住民の疑いのない目を前にして獣である私を俯瞰して恍惚な気分を覚えていたのだ。ああ、神よ。この不徳な男をこれからも救い給え。

 

 訪問者にもう少しはっきりと話すよう、私は云った。申し訳なさそうに頭を下げて謝意をみせた訪問者は先ほど迄より大きく口を開いてみせた。歯と歯の間に唾が糸を引くのを目の当たりにして私は思わず眉を寄せた。この辺りの住民にこんな奇妙な風態の輩がいただろうか? 当然、私はこの躯(まち)すべての住民に精通しているわけではない。私と同じように信仰心など持ち合わせない者がいくらかいてもおかしくないだろうし、それらの理由から教会に赴かない者と私が接触する機会は極めて少ない。ともかく私が耳を傾けると訪問者はもう一度初めからから告白を始めた。

 

 雨季の間は漁を行いませんでした。これを私たちは《神貢》と呼んで、寒くなる時期に荒れる海でも無事に漁を行えるように願かけとしたのです。実際には鱶(ふか)の寄ってくる季節でもあり、満足に釣果を得ないという都合もありました。ですがそれを祈りとすることで私たちは息災でいられるのだと教えられてきました。

 私には妹がひとり。名を柑橘と云いました。柑橘は幼少から病弱であった私の面倒をよく看てくれておりました。気立てのよい娘で幾つか縁談をいただいたりしていたのですが、なにぶん父母を早くに亡くし、親戚もいない私たちでしたから不甲斐ない兄に代わって柑橘は私と家を守ると云って聞かないのでした。柑橘には自分の幸せを考えるように話していたつもりですが、どこかで妹を頼りにしている私自身が情けないのでした。

 男衆なら漁に出るのが習わしの村で私は肩身も狭く、私だけならまだしも妹までが気の毒な目で見られることを辛く思っていました。柑橘は兄に足を引かれて幸せになれないでいるなどと申す方もいて、私は妹に何度も頭を下げては叱られました。「兄さんはそんなことを気にしなくていい。私の幸せは私で決めているのよ」と云う柑橘に私は下げた頭を上げることが出来ず、有り難さと情けなさの混じった嗚咽を漏らしていました。

 漁を行わない神貢では無論、漁で得ていた益は一切がなくなります。だから女衆は普段から山に入って山菜や果実をいくらか蓄えているのです。私たちには作物を拵える習慣がありませんでした。體外れの村などには当たり前のように伝わっていない技術というものがあるのです。だから私たちは余計に自然からの恵みを最低限という形で賜っておったのです。

 私も遠い昔はまだ身体の融通がききましたので、漁こそは出来ませんでしたが山菜採りくらいは女連中にまざってやっておりました。しかし日に日に病状がひどくなって、いよいよ床から立ち上がることさえままならなくなり、私は村の中で荷物と同じでした。漁にも出ない、山にも入らない。無能な私には村からの配分が殆どありませんでした。まだ父母と仲のよかった知り合いがいた頃は温情で裾分けをいただき、妹と二人くらいならなんとか生きてこれたのですが、世代も代わって若衆が村を仕切るようになるとそういったこともなくなってしまい、私たちの暮らしは貧しくなっていきました。

 

 この男は私に愚痴を溢しにきたのだろうか。村のことやら妹のことやらと、話題が飛んで分かり難い。だとすれば私は面白くもない話をこれ以上聞くに堪えなかった。早々に救いを与えて引き取ってもらおうと私は男の話を制するように格子窓を前に手をかざし「もう少し端的に、罪だけを告白なさい」ともう一度云った。ところが男は私が見えていないかのように先ほどからの口調を変えず淡々と話し続けたのだ。私は肩透かしを食らったようで暫く唖然としたが更に大きな声で男の言葉を遮ると男はようやく口を止めた。男はなぜか後退りして暗がりに入ってしまい先ほどまで見えていた口許も暗中へと消えてしまった。私が云うのもなんだが不満足から告白を途中で放って帰るとは不徳な輩がいたものだと呆れ、再び煙草に火を灯した。途端、ドン! と音立てて格子窓が揺れた。其処に男の目だろうか、ギョロっとして艶がかる何かが光って此方を向いており私の心臓は止まりそうになった。

「お聞きください……どうか……どうか……お聞きくださいいいい!!」

 身慄いがした。

「……よ、宜しい。続けなさい」

 男は満足したのか初めの位置に戻る。咥えていた煙草は口から落ちて仄かに青い煙をあげていた。

 

 

 築不明年のボロアパート。

 破壊されたエアコン。

 ハネも電源もない扇風機。

 冷蔵できない庫。

 その手に握られしはスイカバー。

 私の唯一の避暑手段。

 この何もかも腐敗させそうな極暑にあってスイカバーだけが私を正気へと導いた。霜の降りた薄赤い部分へと口もとは吸い寄せられる。

 

 持っていかれた。唯一点の冷に私の唇の皮は盛大に持っていかれた。ひりつく皮膚は常温へとかえるにつれて痛みに変わっていく。ジェネラルルージュの凱旋。将の帰還ぞ! 道をあけよ! 真紅に染まる口もとから焼けたアスファルトに滴る血。ぽたぽたぽた……ぼたっ。一つの希望が揺れる音。スイカバーも落ちた。嗚呼! ああん! 待って待ってまだ待って! アスファルトは瞬く間にスイカを溶かしバーだけが残った。狼狽えている隙に神は死んだ。窪んだまなこに痩けた頬。私は失意のままラクーンシティを徘徊する。

 

 IKEAを発見した。私はIKEAに向かって残された力を振り絞った。けれど全く辿り着けない。冷房、冷房冷房冷房冷房冷房冷房冷房冷房冷房冷房冷房冷房冷房レイヴォーーーーーーォン!!

 蜃気楼。あれは幻だ。IKEAそれは君が見た光、僕が見た希望。私は膝から崩れ落ちた。アスファルトの熱は私の皮膚を焼いた。夢を見た。私はプールサイドだ。学校の。梅雨時にカエルやコイやヤゴを追い出して綺麗に洗ったプール漕の横で「熱ッ!! 熱ッ!!」などとはしゃいでいる。早く入りたーい、溶解ッ人間! 私は教師の制止を振り払いプールの中へ飛び込んだ。意識が回復した時、薬品の匂いがした。

「ワタシはダレ? ココアシガレット?」

熱中症ですね。点滴終わるまで安静にしててください」

 病院か。涼しいな。ふと涙が溢れた。

「引っ越そ」

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