アントーニオの肉一ポンド

返却期限を過ぎました。

悲蛇 (前)

  スジャヌパッタは墓地の清掃係だった。今年で13歳になる。友達はリスのフィネガンと街で布屋を営むメリサおばさん。フィネガンはスジャヌパッタが森を散策した時にポケットに入り込んでいた。メリサおばさんはスジャヌパッタが8歳の時に出会ってそれから母親のように面倒を見てくれている。雇い主である牧師のマクスウェルとはあまり良い関係ではなかった。かといって悪いというわけでもなかったが雇用主と雇われ掃除夫の域を越えないドライな間柄だ。スジャヌパッタはそれを特に気にしてはいない。そういうものだと考えていた。

 マクスウェルは元々スジャヌパッタを雇う気などなかった。そもそも教会は清掃係など募集すらしていなかったのだ。マクスウェルとスジャヌパッタの出会いは5年前。スジャヌパッタがメリサおばさんと共に教会を訪ねた日に始まる。

 当時のスジャヌパッタはストリートチルドレン。街の片隅で家を持たずその日暮らしの生活をしていた。街には彼以外にもそういった子供は少なくはなく一つの社会問題となっていた。とはいえ彼らを全て救済、あるいは支援しようという動きは活発ではなく実質はほぼ放置状態にされていた。彼のような子供達は彼らなりに組織を形成していた。いくつかのグループがあり、中には盗賊紛いの過激な連中も見られた。スジャヌパッタ自身はそのどれにも属さず、基本はひとりで過ごしていた。その態度がひとつ幸福だったのかもしれない。街の人々はたむろする子供達をどこかで怖れていた。先述のとおり犯罪に手を染める者もいる中で彼らの印象は良くなかった。まるで野生の獣のように扱われた彼らの心と街の人間に齟齬が生まれるのは無理もない話だ。そんな中でスジャヌパッタはどこか異質だった。身なりこそ良くはないものの彼なりに矜持があったのか毎日必ず川で身体と衣服を洗い清潔を出来る限り保とうとした。他の子供からは冬の冷える夜でさえブルブルと身体を震わせてもそんな習慣をやめないスジャヌパッタを愚かと見る者もいた。けれどそれが彼と他の子供とに違った印象を持たせていた。ある日、スジャヌパッタが道端で眠っていた。夢の中で彼は火山に居た。遠くでマグマの飛沫を眺めながら彼はあの中は暖かいだろうかと考えていた。考えると確かめずにいられなかった。そういう向こう見ずな部分は彼の欠点でもあったがとはいえそれは夢の中だった。マグマの中は暖かかった。いつも浴びる川の水は冷たく、夏は暑いだけだった街で感じたことのない感覚だった。スジャヌパッタはこれが暖かいということだと思って目を覚ますと身体に布が一枚かかっていることに気づいた。風で飛ばされてきたにしてはやけに綺麗な布だった。スジャヌパッタがふと横に目を遣るとメリサおばさんがしゃがみ込んでいて「おはよう」と言った。もう日も暮れようかという時刻だった。スジャヌパッタはメリサおばさんに連れられて彼女の店を訪れた。そこでソーセージを挟んだ白パンスクランブルエッグをご馳走になった。スジャヌパッタはその間ひと言も口にしなかった。為すがまま流されるままといった感じでそれが美味しいだとか感謝の念だとかを特に感じてはいなかった。メリサおばさんも黙ってスジャヌパッタを見ていた。スジャヌパッタが食べ終えて初めて彼女は質問した。「家がないの?」スジャヌパッタは頷く。「いつから?」考えてみるが答えは出なかった。気づけばこの生活が始まっていたような気がする。あらためて考えてみると良く生きてきたなと自分でも関心した。スジャヌパッタは自分についてほぼ何も話さなかった。代わりにメリサおばさんに聞いた。「なぜ僕を助けたの?」彼女は答える。「君は困ってたの?」スジャヌパッタはこの質問に対して困った。困っていたかと言われればなんとなくやり過ごしてきた生活に嫌気がさしていたわけでもない。これまでがそうならこれからもそうだと考えていた。しかし自分から真っ先に出た言葉は「助けたの?」だったことに些か心理といったものを垣間見るくらいにはスジャヌパッタという少年は賢かった。だから困った。メリサおばさんは悩ましげな少年に微笑み返して一つ約束を持ちかけた。明日の昼、またこの店の前に来てくれたならこれから屋根の下で暮らさせてあげるとメリサおばさんは言う。スジャヌパッタは半信半疑だったが皿に残ったケチャップを指で掬って舐めると「じゃあ、また明日」と言って店を出た。

 約束の昼、スジャヌパッタはメリサおばさんの言う通り店の前までやって来た。メリサおばさんは既に待ち構えていて、どこか得意げな表情で「じゃあ行こうか」とスジャヌパッタの手を引いた。彼女に連れられてやって来たのは街の教会だった。それは日曜だというのにあまりにも寂れた雰囲気だった。メリサおばさんが教会のドアを叩くと向こう側、おそらく礼拝堂と思われる、から返事が返ってきた。

「今日は静かに淑やかに過ごされるべき祝福の日であります。私はその御言に従い粛々今日という日を祈りに捧げております。どうかお引き取りを」

 言葉の内容とは裏腹に随分と横柄な口調だとスジャヌパッタは思った。メリサおばさんはしつこくドアを叩き続けた。それが次第に我慢ならなくなったのかドアが開くと中から若い男が現れた。

「るせえなばばあ! 俺の返事が聞こえなかったか!? 帰れって言ってんだよ!」

「こんにちは牧師さま」

 メリサおばさんはずっと笑顔だった。男の脅迫めいた態度にもまったく物怖じしない。

「……なんだこのガキ」

 男はスジャヌパッタを見遣ると冷たく言い放ちどのみち答えには聞く耳持たない様子でふて腐れていた。

「マクスウェル、あなたのところでこの子を引き取ってほしいの」

 感情表現に差異はあれど二人は同じ反応をした。どちらも願い下げだと言わんばかりにメリサおばさんの発言に抗議した。スジャヌパッタにしてみれば突然連れてこられた教会で態度の悪いおよそ牧師などとは思えない男の世話になるくらいなら路上生活のほうがマシだったし、マクスウェルにはただただ面倒事でしかなかった。

「マクスウェル、お父様がお亡くなりになられてもう3年になるわね。そろそろ自覚をもって教会の復興に取り組まないといけないんじゃないかしら? この子はきっと良い助けになる。君はここでマクスウェルを助けながら勉強しなさい。君はまだ若い。それに賢いわ。マクスウェルはこんなだけど君の良き先生になる」

「「根拠!?」」

 二人は声を揃えた。メリサおばさんは微笑む。半ば強引に押し付けられた形でマクスウェルはスジャヌパッタを引き取ることになったが納得はしなかった。スジャヌパッタはスジャヌパッタで不良牧師に心を開く気などなく、お互いに会話もないまま時間が過ぎていった。その日、夕食として出されたのは白湯とパン屑だった。スジャヌパッタは文句を言うことなくそれを口にした。パン屑を白湯で濡らした手で握ってパンもどきにして食べるスジャヌパッタを見ながらマクスウェルは初めて彼に話しかけた。

「小僧、惨めな気になったなら出ていけ。メリサの言うことは間違いだ。俺がほんとうにお前の先生ならこんな仕打ちはしないだろうよ」

「そうでもないですよ。この屑パンでも食べようと思っても食べれない日なんてザラなんです。それにこの雨。せっかく水浴びしても服をまた洗わないといけない。そう思えばあなたは好きになれないけど感謝はします」

 マクスウェルはスジャヌパッタの生意気な言葉に腹を立てつつもストリートチルドレンの現状を嘆いた。自分には生まれながら親がずっとそばにいてそれが当たり前に10年、20年と過ごしてきた。父親を病気で亡くし教会を継ぐ身になった今、マクスウェルは自身がその身分にないと感じていた。とはいえ他に頼れる者もなく、遺された教会はマクスウェルの手に余る代物だった。スジャヌパッタの言葉にマクスウェルはそれまであった当たり前の環境を自分が無駄とは言わないまでも如何に考えを及ばせて過ごしてこなかったかを想起させた。マクスウェルはスジャヌパッタに部屋の場所だけ教えると自分は寝ると言ってその場を後にした。スジャヌパッタは食器を洗い、マクスウェルから説明を受けた通り礼拝堂の裏にある物置小屋のような部屋の扉を開けた。少し埃臭かったがスジャヌパッタは久しぶりに屋根のある所で眠った。

 翌朝、スジャヌパッタはマクスウェルに言われて墓地の掃除に向かった。教会も墓地だけは開放されていて時折誰かが御参りに訪れる。マクスウェルが牧師として成せることはこの墓地を管理することだけだった。他は何も知らない。だからスジャヌパッタにさせられることと言えば身の回りの世話か墓地の掃除くらいのものだった。マクスウェルはものになるまで賃金は払わないと言った。スジャヌパッタは特にそれを期待しなかった。むしろ働いて報酬を得るという仕組みに馴染みのないスジャヌパッタにとっては粗末な食事でもきっちり朝昼晩与えられ、住まう部屋も用意されている環境が充分な見返りになっていた。スジャヌパッタは掃除を終えるともうすることもないので部屋に戻ってそこに乱雑に積まれた本を手に取った。まるで読めなかった。字を知らなかった。いくつかはわかるものもあったが歯抜けになって意味が通らない。そこでスジャヌパッタはメリサおばさんを訪ねた。字を教えてほしいと願い出たのだ。メリサおばさんはスジャヌパッタに辞書を渡した。あとはマクスウェルに教えてもらいなさいとメリサおばさんは言った。スジャヌパッタは辞書を手に仕方なく教会へ戻るとマクスウェルが腕を組んで待ち構えていた。

「どこへ行っていた?」

「おばさんのところ。字を教えてもらおうと思って」

「勝手に出かけるな」

「いつでも出ていけって言うのに」

「出て行くなら戻るな。そういう意味だ。俺はお前に自由を与えてはいない。ただ選択だけを与える。選び方で先が決まる。生きることは許可だ。許可なくして決定はない。その手順をとばすととんでもない失敗をする。わかったなら部屋に戻れ。次に出かける時は俺に許可を取れ。気が向いたら許しをやる」

「あの……」

「なんだ」

「字を教えてください」

「許可しない。部屋に戻れ」

 スジャヌパッタには次第につまらなさが募るようになった。マクスウェルは言葉どおりスジャヌパッタに沢山の選択肢を与えた。スジャヌパッタはそれを決定するために度々マクスウェルに許可を取るのだが悉く認可されなかった。それまで気ままに暮らしてきたスジャヌパッタにはその制約がつまらなかった。いまだ読めない本の山は忌々しく、これならば本など見つけなければよかったとさえ思えた。墓地を掃除する毎日にも飽き始めた頃、スジャヌパッタは草陰から飛び出した蛇を見つけた。蛇の種類は分からなかったがなんとなく本能的に有毒の者と結びつけたスジャヌパッタはそれを追い払おうと箒で威嚇した。蛇は悠然と鎌首を持ち上げてなんと語り始めたのだ。

「お前さん、欲が芽生え始めたね」

 スジャヌパッタは耳を疑った。蛇の言葉がよく理解できるのはおかしなことだった。

「なんだお前!」

「おいおい、大きな声を出すな。おかしな奴だと思われるぜ」

「どうして、人間の言葉を話せる?」

「俺は何年も生きてきたからな。見様見真似さ」

「馬鹿な! そんなことあるもんか!」

「だからデカい声出すなって。いいことを教えてやる。この教会の西側に大きな森がある。そこには智恵のつく果実ってのがなった木が一本だけ生えていて、それはきっとお前さんの役に立つ」

「なんだそれ! 信じるもんか!」

「聞き分けないねえ。実際お前さんの信じられない事実がここにいるってのに」

 蛇の言葉には一理あった。蛇が喋れるならそれはその智恵の実とやらのおかげなのではとスジャヌパッタは少し思ったがその考えを振り払い箒で蛇を追いやった。蛇はシュルシュルと草陰の向こうに消えた。

「何を遊んでやがる!」

 マクスウェルこそとスジャヌパッタは思ったがそのまま掃除に戻った。その夜、スジャヌパッタは蛇の言葉を思い出していた。強ち嘘とも決めつけられないと感じていた。むしろ興味は森に誘われる。マクスウェルはきっと許可しない。まだ日が昇りきる暗がりの中、スジャヌパッタはひっそりと部屋を抜け出して森へ向かった。

飾る花

 部屋に飾る花なんてなんだっていいんじゃないか? 僕は花屋でずっと悩んでいる妻に言った。彼女は「あなたってホントサイボーグ人間」と返す。僕は笑ってしまう。ようやく選び抜かれた白い小さな花弁のその花がなんて名前かは知らないし気にもしなかった僕だ。家に戻って花瓶にそれを移し替える妻。

「花に水をやるでしょ? そういう習慣って気分の浮き沈みが出ちゃうの。余裕がないときは花に対しても疎かになっちゃう。だから私はそういうのに気づくために花を生ける。植物は裏切らないから」

 僕は妻の言葉を何気なく聞いた。そういうものか。妻曰くサイボーグ人間であるところの僕は自分自身にも鈍感で感情の振れ幅は狭いと自分でも思っていた。

 それから数日後、妻は失踪した。理由は見当たらない。鈍感な僕だから彼女の機微に気づけなかったのかな。ともあれ契約要項を読んでもそのような事態に対する文面がなかったので僕はメーカーに問い合わせた。彼らの返事はシステムトラブルの可能性を示唆するものだった。僕は返金対応を承諾し独身に戻った。三年。それはひと時だったかもしれない。ヒューマノイドにサイボーグなんて言われた僕だ。思い出せる想い出がないわけじゃないが案外あっさりと受け入れてしまう。花が枯れていた。枯れた花は僕が気づく前に彼女が取り替えていたから枯れた花を見るとそんな習慣もなかったことになったんだなと思った。

 口座に入金があった。これで妻、だったヒューマノイドとは他人になった。僕の数少ない情動の中で珍しく興味を惹いたもの。それが喋る金属でも他人との共同生活の中で僕は自分自身が変われるのではないかと期待した。そんな期待がどうでもよくなるほどに彼女は僕の妻だった。当たり前になった。こちらが機械だなんて言われて言い返せないくらい彼女はひとりの人間だった。人の感情を相手に商売するならこういうエラーは困りものだと、僕はメーカー担当者にらしくない文句を言った。相手は素っ気なく謝罪するだけだった。その企業はそれから5年ほどして倒産した。彼女がどうなったかは知らないが、ヒューマノイド達を企業自身が面倒を見れないとして行政が代行回収しスクラップ処分するとの報道があった。

 僕は空になった花瓶を見た。今の僕に気分はどうだい? と聞いてくる。夕暮れの中、花屋はまだ開いていた。いらっしゃいませのその声は聞き覚えのあるそれだった。

「君は……」

「? どこかでお会いしましたっけ?」

「いや、知り合いに似てて。ごめんなさい」

「いえいえ。お花、お買い求めですか?」

「適当に見繕ってください。小さな花瓶に挿せるやつ」

「かしこまりました」

 しばらくするとその女性店員は赤い花を持ってきた。

「白、じゃないんですね」

「え? お気に召さないですか」

「そうじゃないけど。ありがとう」

「私が私に買うなら白にしたと思います。でもこれはあなたのための花だから」

「そう。妙なこと言ってすまない。ほんとにありがとう」

「また来てくださいね」

 赤い花を飾った。やっぱり僕には今の気分なんてわからない。こいつをいつ枯らしてしまうか。その時僕は何を思うのか。今は煌めくその花が教えてくれることはない。ただ、綺麗だと思った。

月の光で泣いてくれ

 仕事の帰りに立ち寄った本屋で偶然にも前に付き合っていた人に会ってしまった。もう長いこと顔を合わせていなかったのでこれといってバツの悪さもなかったけれどそれでもどうしてか緊張していた。当たり障りのないことを聞いたように思う。まるで出会う前のまっさらの他人に接するようなよそよそしさがあった。当初の目的がなんだったのか、僕は本屋にいながら本を手に取ることもせず彼女に挨拶してその場を後にした。

 玄関扉を開けると熱帯魚が泳ぐ水槽の照明がぼんやりと浮かんでいて、いつもここで魚の存在を思い出す。普段いろいろなことを忘れてしまっていて、ふとしたことでそれが浮かび上がる。本屋で彼女に会ったことで思い出されたのは、付き合っていた当時のどうしようもなく情けない僕の姿だけだった。

 魚にエサをやってから、電子レンジに弁当を入れて温めた。七〇〇円以上買ったのでクジを一枚引いてくれと店員に言われたのだが、僕はあれがどうも苦手でいつも断っていた。けれど今日ばかりはレジも空いていてなんとなく気分で引いてみると紅茶のラベルが貼られた水が当たった。無色の液体はたしかにレモンティーの味がして少し気持ち悪かった。昔はこんなものなどなかった。

 パソコンを立ち上げてメールを確認すると、つまらない広告の隙間に学生時代の知り合いからメールが届いていた。珍しいことだと思いつつ開いてみると久しぶりに会わないかという誘いだった。僕は疲れもあってかスケジュール調整しますなどと素っ気ない文面を返信してから眠った。

 翌朝は雨が降っていて、会社に傘を忘れていたことに気づいた。仕方なく近くのバス停まで走ったがジャケットに水が染みていくつも斑点を作ってしまう。五、六人を前にしてバスに乗り込むと中は既に混んでいて車内の後方で立つことになった。次のバス停で中年の女性が降りるために最後部の席から立っている乗客をすり抜けるように前方へと向かう。むせるような香水の香りに辟易しながら僕は躱せる範囲で身体を動かした。中年女性の顔が僕の肩くらいにあたってそこが白くなった。

 僕が会社に着くと同時に事務課長も出勤してコーヒーを淹れはじめた。社員全員分のカップと砂糖、ミルクの配分を確認して用意する。それが彼の日課だった。事務課長は既に定年を迎えた後に嘱託としてながらも今のポストに就いていた。本来なら正社員が後任を引き継ぐべきところを零細企業であるうちの会社は人材を確保出来ずに仕方なく彼に願い出て事務を任せていた。課長と言っても一応、彼の下にひとり若い女の子がついているだけで彼女もまだひとりではどうしようもなくそれでいて近々結婚する予定のため退職は濃厚であり、そう考えると事務課長があと何年ここにいなければならないのだろうなどと考えてしまうが彼はにっこり微笑んで「お疲れ様です」と言うだけだった。

 午前中は特にトラブルもなく、暇な時期であるためか実際仕事になっているのかもよく分からないような時間が過ぎた。食欲がなかったので昼食をとらないでいると社長とたったひとりの営業が飯に行くというので誘われたが断った。これで妙ないざこざが生まれないのがうちの良いところとも言えたが、その分互いに希薄な感じは否めなかった。事務の女の子がくれたビスコを齧って仕事に戻ることにした。

 午後からも変わらずという具合で、業務終了定時を迎える頃、事務課長は降り止まない雨を窓から眺めていた。僕はロッカーの中の傘を思い出した。帰りもバス停からして混んでいたのでまた歩いて帰ることにした。昨日立ち寄った本屋の手前で前から気になっていた本を探しにきたことを思い出しまた寄ってみることにする。今日は彼女もいない。いないことを確認していた。次に本を探すが見当たらず店長に尋ねてみれば入荷していないとのことだった。注文しておくかと聞かれたが断った。そこまで欲しいわけでもないことに気づいた。

 外に出ると雨は止んでいた。雲が晴れ月が見えていた。満月。夜にあってその輝きはこの辺りすべてを照らしているような気がした。もう思い出せることなど何もなくずっとただそれを眺めていた。なぜか一歩も動けずに立ち止まってしまった。本屋の店長が店じまいのために外に出てくる頃合いになっても僕はまだそこにいた。

「すみません。つかぬことを伺いますが昨日の十九時くらいにここにいたカーキ色の服を着た女性なんですけど、彼女ってよくここに来るんですか?」

「え? そんな人いたっけな? あなたがいらっしゃったのは覚えてますけど、なんせうちもちっさい店だから大体お顔は覚えますけどお客さんが言うような人はいなかったと思いますけどね」

「そうですか……妙なことを聞いてすみませんでした」

  僕は時折自分が何者かさえ忘れてしまう。一度は定年退職を迎えるも引き戻される形で居座ることになった。たった四人の小さな会社に毎朝誰よりも早く出社してコーヒーを沸かしながらシュガースティックの数を数えているとふとそれが一度は終わったはずだとまるで他人事のように思えるのだった。彼女がこの本屋に来ていたのはもう随分昔の話なのにそれはいつも昨日のことのようだった。もう店主も代変わりしてしまって当時の証人は僕だけだった。一人で住むには大きいからと売り払った一軒家。代わりに移り住んだマンションはそれでも広く感じられ熱帯魚を飼うようになった。

 

 

「よく来られるんですか? わたしもなんです」

「そうですか。駅前の本屋のほうが大きいんだけど落ち着かなくて」

「わかるわかる! 町の本屋さん、いいですよね」

 

 あの日と変わらないのは先程から見上げていた満月だけだった。

 

縁日

 狐、狐、狐。火男、おかめ、狐。狐。河童。面屋は言った。お好きなのをどうぞ。少年は言った。どれも要らない。面屋は言った。そうですかい。少年は言った。金魚はどこ? 面屋は言った。無えでさ。少年は何も言わずに走り去った。面屋の屋台の裏手から黒い浴衣の女が覗いた。差し入れといってラムネをひと瓶渡す。面屋は親指で栓になったビー玉を押し抜く。泡が溢れてビチャビチャと砂の上を濡らした。ゴク、ゴク、ゴク。喉を軽快にすり抜ける炭酸が蒸し暑い夜を俄かに冷やした。夜になっても蝉が騒いだ。しかし縁日の賑やかさはそれを凌いで気にさせなかった。面屋はラムネを飲むべくずらした狸を戻した。また表情というものから遠ざかった。浴衣の女は山茶花の香りがした。面屋は言った。場違いでねえか? 女は言った。うすらだぬき。女が先にラムネを飲み干すと面屋のそれがひと口以降減らぬのを見てまったくしょうない男だねと言った。面屋は黙って前を向いていた。首筋は人だったが張り付いた狸はもう面屋の一部に見えて傍目には不気味だった。しばらくすると先程とは別の子供が老人を従えて面屋の前に立った。おめん、おめん、と子供が強請る。老人はどれがいいかねと子に尋ね、面屋は決まり文句のように、お好きなのをどうぞと言った。

「どれも要らない」

 子供がはっきりと言った。声は後ろにいた老人のそれより低い。面屋は思ったより早いなと小声で口ずさんだ。女が身構えた。それを面屋は手で制すると椅子の下に隠した木箱を取り出した。

「ほんならこっちはどうでさ?」

 面屋は木箱の蓋を開けるとそこには綿が敷きつめてあり、真ん中に茶色いかたまりが乗っていた。子供はそれを見た途端、眉を吊り上げて怒りを露わにした。ケケケ。面屋は狸の奥でせせら嗤った。老人がみるみる萎んで細い棒になった。槍のように見える。老人だった棒を子供が掴んで拾い上げ、その切っ先を面屋の喉元寸前まで突き立てた。女には焦りが見える。山茶花の香りが強まった。

「何してんだい! さっさと渡しちまいなよ!」

 面屋は動かない。刃先は躙り寄る。

「お代、まだでさ」

 面屋が言い切るが先か、槍が頸から露わになるが先か。ともあれ喉を貫かれた面屋はゴッと一度咳き込むと狸の隙間から赤い血を垂らした。女は怒りの形相で子供ーーもうそれはそうでなかったーーに飛びかかった。子供は女を腕で薙ぎ払う。女は太い幹に叩きつけられ気を失った。

「お代、まだでさ」

 子供が一瞬、女に気を取られた間、槍の先に面屋がいないのに気づくのが遅れた。その時には頭を掴まれていて、手足をばたつかせてもそれは離れようとしなかった。

「坊んず、世ん中そんな甘あない。大人しい金魚でも掬いなし」

 子供はなにかを言いかけようとしたが先に頭を握り潰された。散り際に紅く光った。面屋が草鞋でつかつかと木の幹まで歩いて一匹の黒猫を拾い上げた。

「あんた、何がしたいのよ」

「ねんこが人ん言葉話さんな。まあ無事はなんより」

 辺りはこの騒ぎと無縁に祭りが続いていた。面屋は木箱をしまうとまた椅子に座って前を向いた。少年が金魚を嬉しそうに持って通り過ぎていった。黒猫はうんざりと言わんばかりにあくびした。

イチジクの味

私ひとりの一生の中だけでもそれほどに世界のひろさが変つて、物の考へ方はそれよりももつともつと変つて来てゐるのだと思ふと、何か笑ひたいやうなをかしな気持になる。

(片山廣子「トイレット」)

 

 実家に帰ると全く生活が足りてくる。普段から特別考えて生きているわけでもないが、それでも独身でいるということはある程度自らの指針によって左右されるのであってその程度には決定を行っているのだ。けれども実家にいると身体を横にしているだけで飯が現れ風呂が沸く。三十を過ぎてこんなことでよいのかと思いつつも心の弱い私は成り行きに身を任せていた。

 おかげで他に余裕が感じられる。普段隙間を這うように読書する私は気力に負けてサボり気味だったものをここぞとばかりにやってみようと思う。

 私は片山廣子のエッセイ、というか単純に語り口が好きで読む。「茄子畑」なんかはそこに自分の身を置いて考えてみたくなるような心地になる。知らぬ間に手に持った石を私はどうすべきかということを。「花屋の窓」これもよい。芥川最後の恋人と言われる片山が「芥川さん」としたためるこの時彼女は恋をしていたのだろうか。

 今は便利な時代で青空文庫のサービスから二篇とも読める。私も単行本は手にしておらず専らそこで拾って読んでいる。そこから「トイレット」という一篇を選び取る。話は逸れるが同名の荻上直子監督による映画を思い出す。もたいまさこがほぼ所作だけの演技でカナダ人の兄妹を振り回す静かな物語……だったように思う。内容ははっきり思い出せないが「トイレット」という響きにその映画が引っ付いていてふと立ち現れた。

 さてさて片山のそれだが、ふと思い出されるのだと言って前半は片山が十八まで暮らした家のトイレをひたすら描写していく。想い出話はやがて昭和二十七年に戻ってくるのだが、戦後の一度焼け野原になった東京が徐々に復活の兆しにあった頃のトイレ事情とかつてを比べて憂いたりするということもなく、冒頭に引いたような感想を抱く片山。何かが変化していくことにただ笑いたいようなおかしな気分になるというような態度が私が惹かれる部分かもしれない。

 

 朝起きてイチジクを食べた。久しぶりに食べたように思う。味はイチジクのそれで忘れていなかった。忘れていたが思い出しただけかともかく昔子供だった頃より好きな味に思えた。味自体は何も変わっていないのに。

その昔、レンタルビデオなどない頃

 爺さんは言ってた。人生はチョコレートの箱のようなもの、開けてみるまではわからない。僕は映画の受け売りでしょって言うと爺さんは舌打ちしてはにかんだ。亡くなって一週間。そんなことを思い出した。

 僕に限らず生活は誰にも当たり前のようであり、毎日違う顔とすれ違いながらそれが覚えていないだけなのかと考える暇もなく通り過ぎていく。爺さんが言ってたもう一つのこと。僕らはどうやら火星人らしい。

 火星。それは写真で見た。木星や金星と並べてどれが火星かと聞かれても答えられないと思う。そんなおぼろげな記憶に故郷があるのだろうか。仮にかつては火星人だとしても僕らは随分と世代を越えて地球人であることを自覚するまでもなくなってしまった。そんな中でかつて火星人だったと主張することになんの意味があるのだろう。

 僕は想像する。批判覚悟で言うがそれは刺激を求める本能ではないかと。つまり僕ら地球人は地球に飽いてしまったのではないかということ。そしてそれ以前に火星に飽いてしまった歴史があるのではないだろうか。

 かつての火星人たちは火星で暮らす中でその星では叶え得ない部分に到達した。困るほどではなかったけれどそのままでは何かが壊れてしまう不安があった。闇雲に追求する中でどうやら水に富んだ星があるという噂に辿り着く。初めは誰もが半信半疑だった。ひとりの火星人が言った。このまま黙って存在するだけの肉でいるか、はたまたその水とやらの味見に出かけてみるか。何人かの有志が集まった。保守派の連中は自前のプラカードで批判した。移住を希望する者たちが少しずつ増えるに従ってそれぞれの意見が取り入れられ計画は具体化する。彼らは知識のコロニーだった。ある日火星から一基の宇宙船が発進する。大きな火花を散らして、間近で流れ星を見るようだった。果たしてその賭けには勝ったのだろうか。

 それから幾数千年。数万年だろうか。爺さんは自分達が火星人だと言い残して世を去った。爺さんは今どこの星にいるのだろうか。僕はレンタルビデオ屋の帰りに夜空を見上げて火星を探した。

バーバリアン日和

 私と歌織とサウザーの三人は部活終わりに猪本酒店によってアイスバーを買った。私はイチゴ、歌織がチョコ、サウザーは宇治金だ。持っているだけで簡単に溶ける猛暑の中でサウザーは虚ろな目を宇治金に向け「これはあたしたちの青春」と発言し、私と歌織はサウザーを一瞥すると何も言わずにアイスを舐めながら自転車を押した。サウザーこと南十字登紀子もまたそれ以上は何も言わず自転車を押す。河川敷に差し掛かり黒かりんとうのような照りつきのアマチュアランナーが横を通り過ぎると歌織が我慢ならなかったのか世界の中心で愛を叫んでしまった。

「たあすけてくださーぁああぁい!!」

「うるせええ! 暑苦しい!」

「晴美だって暑いやろ? もうダメだ。家にはたどり着けないよ儂らは」

「私は帰るよ。チャリンコ捨てても帰る。サウザーは!?」

「質問の意図がわからない。あたしは帰ってる。これ帰ってるんよね?」

 カフカの小説に『城』ってのがある。私達は読んだことないけどクラス一の読書家でもある上善くるみが読んでいた内容を聞くに「Kという測量士が城にたどり着けないの。で未完なの」私はさっぱりわからないことにはいつも「ふうん」と答えてきた。当時頭の中では蜜柑を浮かべていたが今なら少しわかる気がする。確かにあるはずの自宅は遥か遠くに思われいつまでたってもたどり着けないのではないかという不安。歌織が発狂する猛暑は私やサウザーをも狂わせつつあった。

「晴美、とりあえずどっかで涼もう。もうダメだ」

「イニシャルKはお前だけだろ!」

「は? なんの話? わたしはただ涼もうって」

「二人とも喧嘩はヨセミテ国立公園。とりあえずそこにコンビニが見えるな。入店しよう」

 私も歌織もサウザーに従いコンビニに入った。

「しゃーせー」

 気の抜けた店員の声など気にもとめず私達はクーラーの恵みを全身に浴びた。

「しゃあああ集中力帰って来たあああ! 今なら東大受かる!」

「歌織東大行くんだ」

「行きません」

「トイレ借ります」

「どーぞー」

 サウザーのトイレを待ちながら私と歌織は店内のイートインコーナーでスマホを眺めた。まもなくしてサウザーからメッセージが入る。

「見た?」

「見た」

「さて」

「ああ」

「いよいよ帰れんぞ」

「店員さーん! なんかトイレの鍵ぶっ壊れてるみたいなんすよ!」

「はー」

 いかにも非力な見てくれの店員が力任せに引き戸を引くもビクともしない。

「暑い! 怖い! 小便漏れる!」

「おうおう丁度いいじゃねいか! そこは便所だ!」

「助けて! 助けて!」

 中からサウザーの悲痛な叫びが迸る。私達も開けようと試みるがまったくダメだった。

「あのーすんません。どうしたらいいんかな?」

「「あんたが考えろ!」」

 私と歌織は今日イチのシンクロ率だった。

「とりあえず店長さんとかいないの?」

「店長休みなんすよ。子供を遊園地に連れてくとかで、さっきも万引きされるとこ見たんすけど電話繋がんなくて」

「どうしようもねえな色々。なんか棒あります?」

 店員がうまい棒を持ってきたところで私と歌織はそれぞれバーバリアン一号、二号と化しそのイライラをトイレのドアにぶつけた。それでもドアは開かない。

「叩き壊すしかねえか」

「待ってよ君達。流石に壊すのは」

「だったらサウザーはどうなるんだ!?」

「暑い! 暑い! 漏れた!」

「待ってろサウザー! 今ぶっ壊すから!」

 私と歌織は店内で一番固そうなものを探した。赤い、それは赤い消火器でした。というナレーションとともに消火器が目に飛び込んでくる。

「うおりゃああああ!!」

「ちょ!」

 バチーーン!! という音がなる。ドアは?

「無事すぎる」

 はじき返された消火器はそのまま奇妙な挙動を見せながら猛り狂うようにホワイトブレスを吐き散らかした。

「「「ああああああああああああああああああ!!」」」

「え? 何? え? 暑い! 暑い!」

 歌織はあばれ消火器のチューブ根っこを引っ捕まえて取り押さえたがホワイトブレスはなおも吐き出され店員のヘソ下三寸を貫いた。

「ああああああああ! ヘヴン!」

「ごめんなさい! ごめんなさい! 止まんないよコレ!」

 惨状だった。商品はお釈迦様。別のお客さんが火事と勘違いして通報したため警察と消防が飛んできた。店長も頭になんかの動物の耳を模した帽子を被ったまま駆けつけた。そして膝を落とした。

「えっと南十字さんだっけ? ちょっと扉から離れててね」

 そう告げると消防隊員のお兄さんがサンダーというやつでトイレの鍵を焼き切った。トイレの中でサウザーはビデを操作しながらその噴水ぶりを静かに眺めていた。

サウザー!」

「ビデというのはねフランス語で子馬さんという意味なんだ。パッパカパー」

「ごめんなサウザー! 待たせてごめん!」

 私達は三人で抱き合う。きっと色々面倒な事後処理が控えている。今は全力で同情を買おう。ニュータイプの疎通力により私達三人はずっとずっと抱き合って泣いていた。