アントーニオの肉一ポンド

返却期限を過ぎました。

日替わりランチシステム

 歯医者通いに一区切りがついた。定期検診を受けなくてはならないみたいだけど一週間に一回みたいなスパンではなくなる。ほっとする反面、残念な部分もある。私は歯医者での治療が終わるちょうど昼過ぎにその足で向かう喫茶店の日替わりランチを頼むのがルーティンになっていた。日替わりランチは本当に日替わりで一週間経つとその先週とは違う料理が出てくる。これはいいぞと思った。元来自炊を諦める星の下に生まれた私のような人間にはうってつけの日替わりランチシステムだ。何も考えずに食べることができる。私には食べることへの見えない障壁があり様々な理由で食事が億劫に感じてしまう。日替わりランチはこれら全てを解決してくれていた。

 ところが歯医者への通院が減るとなれば話は変わってくる。通院と日替わりランチはセットでなくてはならない。これが別々個々の事象となればわざわざ喫茶店に行くだけというところで壁が立ち塞がる。本当に残念だ。もう私の日替わりランチは日替わらない。さようなら日替わりランチ。

 

 

 

 最近PS5を買った。大人になるというのは大変愚かなことで、子供時分にはまるで手が届かず指を咥えて眺めるしかないといった柔らかな感覚をいとも簡単に破壊できる。当然侘び寂びなどあろうはずもない思いつきの暴力によってPS5は我が家に届いた。ずっとやってしまう。社会人になってからしばらくはゲームと離れて生活してきた。高校で読書の楽しさを知り、大学で楽器を触ったせいで少し疎かになったそれを埋める日々を過ごしていた。ここ5年である。Switchライトを皮切りにSwitch、ゲーミングPC、そしてついにPS5まで買ってしまった。子供の私が足繁く通ったゲーム機をいっぱい持ってるお兄ちゃんの家。今私の部屋が完全にそれになっている。子供の私は毎日この部屋にやってくる。そして私に向かってこういうのだ。「ゲームやっていい?」私はこれを拒否できない。思えば若い頃の私は諦めと否定によって人生のピントを合わせてきた。おいそれと欲しいものが手に入るわけではない頃はそれで受け入れることが出来ていた。ままならぬことは忌み嫌い否定することで自身を肯定した。否定の多い日々の中で何かが麻痺していたのかもしれない。私はケータイ小説というもの或いはムーブメントが好かなかった。はっきり言って稚拙なものだと思ってきた。比較されるのは近代文学で、漱石に比べるとどれも日本語なのかさえ怪しいなどと思ってきた。それが今になって振り返ってみるとなぜそんなにも唾を吐きかけるような態度でいたのかイマイチ分からなくなった。もう何かをマイナスして自分をかたちづくることに意味を感じなくなったのかもしれない。嫌いなものを嫌いだと思える気持ちは大事なことだけれどそこは核じゃなくて一部でしかないと自覚すべきだったのかとりあえず今はそんな心地で、ケータイ小説の是非や近代文学の格式みたいなものは窮屈に思えて途端執着が消え失せてしまった。否定と諦めの中でゲームを忘れようとした私はもうなく部屋にやってきた子供と一緒にコントローラーを握るのだ。

和田島イサキ『セックス』を読む

𝙎 𝙀 𝙓 - セックス(和田島イサキ) - カクヨム

 私は考えていた。何言ってんだこの人。考えてはみたが辿り着きそうになかったので生まれてはじめてマックデリバリーというものを試してみようという気になった。個人情報を入力しながら先程までの考えがよぎり住所を間違えそうになった。こんなのではダメだよ、先ずは腹ごしらえさ、そうだろ松。ところがどっこい注文したからといって3秒で届くか?答えはNOだ。なので待つ間また考える羽目になった。何をかって?そうだな、忘れていたさ。和田島イサキ。知ってる?この人?

 

 私はこのブログを用いて何度も和田島イサキと対決してきた。もはやライフワークと言っていい。空想上の100kg級の和田島イサキがそこにいて『セックス』と題した小説をぶん投げてきた。私はその瞬間に範馬刃牙だった。

 とりあえずもう一周読もうと思い、実際読んでみると些か光明が差した気がした。いったい和田島イサキは何を書こうとしたのか。和田島さん、お久しぶりです。今年もこの季節になりました。リンクは冒頭に貼ってます。読みたきゃそこから飛んでくれ。だがいいか?相手はあの和田島イサキだ。半端な夢の一欠片で不意に誰かを傷つけることが出来ると専らの噂なあの和田島さんだ。じゃあそろそろ行くか。vs和田島イサキ『セックス』……字面がヤベェぜ。

 

私は嘘をつきました、と、その女は言った。

 

 女から嘘をつかれた男はそう言った。この冒頭始まりの一行。もう生粋の和田島フリークならこんだけで気づけるね。いつもの和田島さんだ。おかえりなさい。物語はこの女からパチをこかれた男子学生の語りで整えられている。男は成り行きで女と情事に及ぶ、これだけの話です起きたことだけを文字に起こせば。セックスというタイトルはまるで間違いではなく「ありのままの姿見せるのよ」「ハイ!」「ありのままの自分になるの」「ハイ!」「少しも寒くないわ」「なんなら火照りました!」という具合なので、な の で、分からないのだ。いったい和田島さんはこの『セックス』という物語によって何を描こうとしたのかが。おかげで私は即日二度読みする羽目になり、マックデリバリーまで頼んでしまった。だがおかげで見えたものもあるとは先程も述べたが、厳密に言えば「見えなかった」ものがあるってことだろう。それは何か。ズバリ「セックス」である。この小説にはセックスが見えない。いや事実それが起きたことは説明されているけれど本番自体には詐欺かと訴訟が起こって然りなほどのボカシが入っている。語り手の猿が如き男子学生自身に実感を持たせない。ただただ何やら凄かった風のことがフォークロアとして語り継がれる。そこで私は思いました。この『セックス』って小説の焦点はセックスじゃあねえなと。考えてもみればプラットフォームが天下のカクヨム様(今から媚びても遅くねえよな?)であり、性描写など露骨に描こうものなら即削除対象である。ただかといってコレがその限界に挑戦しようというような態度だったかといえばそうでもないように見えた。主題はもっと別のところにあるのではないかと考えるほうが真っ当な気がした。この物語のウォーリーはどこだ。それは事後の語りの中にいた。

 

「だって。平気でペットボトル共有とか、そういうのなんか、恋人みたいで」

 

やめてほしい。不意打ちでそういうラブコメ展開をされると、こちらもちょっと「あれっ上条って普通に全然アリかも」とか思っちゃうから。恥ずかしい。

 

 恋です。LOVEそう勘違いみたいな話ですがこれは肉欲を取っ払った恋。つまり人間です。すみません些か飛躍した言及になりますが和田島さんはセックスを使って玉ねぎを剥こうとして実際剥きやがりました。へえ、こんなふうに芯の部分抉り出していいんだ、目から鱗じゃん、空気に触れたとこが痛いよってくらい剥き出しの語り。男も女もやけに言い訳がましく、とにかくパイルダーオンにはこじつけて及ぶに及んでそっからようやくトゥンク、恋が始まるんです。これはなんだろう、成長譚?いや何か違うっていうか全然違うんだけど結果的に読者としては達成された何かを見させられた気にさせられてもうさせられ祭りです。

 

——だって、寂しかったから。

 産んだり増えたり地に満ちたりするのもいいけど、それだけじゃちょっぴり寂しいのが人の情というもの。

 

 もうふざけんじゃないよって笑っちゃいましたね。いい!本当にいい着地! 寂しさ。そうかなるほどセンチの!メンの!タル!バカ!おかえり!本当に心配したんだからね!これからもよろしくお願いします。

 

 

追記:物語の文末に説教こく作者はサイコパスと統計データがこれから出る予定です。

 

 

遠くの散髪屋

 昔、『美容室』というタイトルで小説を書いたことがある。ごく普通の日常の中に異質なものが入り込んできたときに自分ならそれをどう考えて何を言葉にするか、そんなことを書いた。

 

 それはそれとして私が子供の頃といえば美容室ではなく理容室だった。専ら床屋ではなく散髪屋と呼んでいた。家から少し離れたところにある、おっちゃんとおばちゃんが夫婦でやってる店で、席は二つしかなくて待つこともしばしばあった。待っている間、その散髪屋には雑誌や歴史の漫画が置いてあるのでそれを読む。置いてあった雑誌は当時でいう「月ジャン」。少年ジャンプでも週刊じゃなくてなぜか月刊のほうでマイナーな方だ。あとちょっとエッチな漫画の割合が多かった。

 店にはこれ見よがしの賞状が飾ってあり、その隣に外国人の女の人の裸の写真が載ったカレンダーがかけてあった。おっちゃんは無口で堅物な人だったけどしっかりスケベだったんだと思う。暇な時はいつもゲームボーイをやってて一生貸してくれなかった。おばちゃんは明るい人で産毛を剃ってくれた。昔ながらの剃刀で、私は正直なところこれにビビりまくっていた。子供時分は祖母とよく一緒に時代劇のドラマを見ることが多く、そのどれだったかは忘れたけれど、剃刀で喉を掻き切られるシーンを見てからトラウマになっていたのだ。だからおばちゃんに剃刀をあてられた時は飾られた賞状に祈った。剃毛(?)の技術を競う部門みたいなのがあって、その2位だか3位だかをそのおばちゃんが獲りましたみたいなことが書かれていたからだ。流石は2位だか3位だかの技術で、おばちゃんに産毛を剃ってもらって怪我した記憶は今もない。

 おっちゃんはさっきも言ったように相当堅物で、自分の気に入らない角度に首を動かすと結構な力で捻り戻されたりした。切ってる間は一言も喋らない。ただ黙ってグイッ。なので他の店の美容師さんがめちゃくちゃ喋りかけてくるのが最初は戸惑ったりした。このオヤジ本当に何も喋んないなとは思っていたがわりと心地良い時間でもあった。

 いつか帰省した時に店の前を通った。中学の終わりぐらいに通うのをやめてからはなんだかバツが悪くて近づきもしなかった。気づいたら店はもう開いていないのだった。月ジャンも今はジャンプSQになってしまった。遠いなと思いながら通っていた散髪屋は大人になると随分近所だったことに気づくのだけれど、それでもなんだか大分遠のいてしまったようだ。自分で剃刀を使ってみると失敗して血が出たりするとたまにおばちゃんの技術を思い出し、無口なおっちゃんが咥えタバコでゲームボーイやってる姿が目に浮かぶ。

草森ゆき『アンダードッグ』を読む

 

 田舎町を舞台に少年と犬好きの男の交流を描く。こう書くと実にアットホームな印象を受けるがそんなはずもなく。

 舞台となる町は鬱屈とした田舎特有の排他的な暗さがある。その町に育った少年オリバーは同郷である人間からの暴力に晒されながらゴミ漁りなどで生活をしのぐ中々に過酷な暮らしをしていた。そんなオリバーの唯一の安らぎが町の外れにある森の中にあった。いつからだかはわからないがその森にもう一人居着く者が現れる。ロベルトと名乗る彼は町の人間でなかったがこの付近で大事な飼い犬が行方知れずとなり離れられないでいた。ロベルトは犬を探すためにオリバーを協力させるのだが、このロベルトという男、口調はいかにも穏やかながら言動はやけに物騒で、オリバーに対しても協力を求めるというよりかは支配といった表現が正しい。普通ならばこのパワーバランスに耐えかねてオリバーが狂うか、もしくはもとより狂気的なロベルトの我慢が限界に達しそうなものだが、ここでオリバーの境遇が活きてくる。彼は常々虐げられて生きてきた。さらには無知無学でものを殆ど知らない。その染まり具合から本能的にはロベルトの狂気を悟りつつも常識に捉われずそれがかえって余計な物怖じをさせないといった噛み合わせを生む。奇妙な経緯ではあるが狂人に対して発揮される冷静さは物語後半にも活躍を見せる。ともあれオリバー少年のキャラクター造形は見事だと感じた。

 一方でロベルトはと言えば好きな人はとことん好きになるようなフェティシズムの塊みたいな作りになっており一般的にはいびつな性格と評せざるを得ないがこの作風の中では安心感として成立している。絶対に負けない(死なないとは言ってない)というような頼もしさが備わっていて、つまりその庇護下にあるオリバーにとっても強固な盾となりうる。ロベルトの狂気は田舎町の退廃した空気よりも暗く、圧倒的な格差で飲み込むことが出来るのだ。

 そんな無敵のロベルトの弱点として唯一置かれたのがこの物語の目的でもあり主軸となる行方不明の飼い犬である。その飼い犬の所在を掴むべく二人は協力関係を結ぶのだ。といっても行動するのはほぼオリバーとなる。オリバーはロベルトに命じられるまま彼の愛犬アレスの足取りを追うのだがこの辺りの場面には緊張感があって大変良い。ロベルトの立てたプランに沿う行動ながら無敵の盾であるロベルトと離れた状態のオリバーでは危険が伴うのだ。その緊張感の中でオリバー自身にも成長を感じる瞬間がある。オリバーはロベルトの言うままに行動する中で事の運びが上手く行きすぎることに関心するもそこへ自らの推理を足すのだ。これは今までカースト下位にいたオリバーにとって冒険である。ロベルトの手順に沿えば上手くゆくことを学びながらも自分を出すのだ。これもまた無学ゆえの行動とも取れるが同時に蛮勇なる言葉がある以上勇気でもある。

 やがて真相に辿り着く頃にはオリバー自身も窮地にさらされるのだがここでようやくアンダードッグである。流石はロベルトというところかオリバーの勇気も彼の手の内だ。けれど見せ場はロベルトだけのものでもないともう一展開。オリバー、やります出来る子です。そうして収束に向かう頃には随分と爽やかな印象がある。ロベルトがおらずともオリバーには幾らかその強度が継承された様子を表したように感じた。

 

 物語はノワール的な洋物サスペンスの空気を纏っており事件と捜査、そしてその解明までをコンパクトに収めつつもキャラクター性が豊かで読み応えがありました。すごいね草ちゃは! 一生ゴマすらさせてください! もうなりふり構わないよ! 宣伝もしちゃおう! 草ちゃこと草森ゆきさんの初書籍化作品『不能共』が本年4月24日にて発売決定しております! 紙の本で買いなよ(電子書籍もあります)

 

 

 

 

日記について

 そもそもこのインターネットで文章を書き始めたのが大学生の時だった。いまでこそ小説だなどと言って空想や絵空事を公開もしたりするが初めは日記だった。魔法のiらんどってサイトを使っていた。今もそうなのか分からないけれどこのサイトには禁止ワードが設定されていて卑猥な言葉を書けないって仕様だった。それは構わないけれど当時大好きだったザ・イエローモンキーってバンドについて書こうとしたら「エロ」の部分が引っかかって笑った。

 初めは自分の備忘録たる日記と題して書いていたが、なぜか当時所属していた部活の先輩に持ち掛けられてホームページを作るからそのワンコーナーとしてリンクを貼りたいと打診された。縦社会の中でうんもすんもなく話は現実となり、ホームページが出来上がるより以前の日付け記事が一気に日の目を浴びることになる。それからというもの、ときには本当にあった事を大袈裟に、それでもって間抜けにデフォルメしたものを上げていた。貧乏学生のろくでもない日常だけを人に読ませるなんてしのびないし先ずもって文章として保たないと感じたので。記事毎にタイトルをつけるのが煩わしいので文中の単語をそのままコピペして貼った。例えば今書いたばかりの「コピペして貼った」がそのままその日の日記のタイトルになる。これがだんだんテキトーになってきて「テキトーになってきて」でもいいのに「なっ」のとこだけ使ったりしてもう意味とか成さないんだけれど「『なっ』読んだよ おもろかった」みたいに言ってくれる人達には今更ながら感謝しなければなんて思う。主に同じ軽音部の人達が読んでくれたわけだけど、その人達の知り合いや彼氏彼女のお褒めの声まで届き出した時には焦りつつ小っ恥ずかしいのと嬉しいのとがない混ぜで端的に言えば気分がよくなっていた。そんなこんなで甘やかされながら2年とすこしそういうことを続けた。残念ながら今読めるのかどうかは自分でも分からない。消し去った覚えはないけれど卒業してからは当然部活のHPも一新され、それに伴って電子の海の藻屑となったってわけ。

 今思うとほんとにくだらないことを書いてたはずだけど読めないので残っているのは「おもろかった」って言ってもらえた経験だけである。その時の思い上がりと勘違いのおかげで今もこうして文章を書くのをやめれずにいる。続けているとおかしなもので同人とはいえ本に載っけてもらえたり、出会うはずのなかった人達と友達になれたりもした。好きな映画でもある『フォレスト・ガンプ/一期一会』の冒頭でガンプが言う。

ママがいつも言ってた 人生はチョコレートの箱のようなもの 食べるまで中身はわからないってね

 チョコレートだろって突っ込みはそれがチョコレートの箱だって知ってる人間の言い分だ。少なくとも私は日記を書いてただけでそれがチョコレートの箱だなんてわからなかったです。ありがとうございました。

 

 

追伸:せっかくなので日記を書いてみるかと思ったけど「朝から頭痛がする」ってだけだったので試合終了です。重ねてになりますが対戦ありがとうございました。

 

 

 

炊飯器と詩集

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 最近の話。炊飯器を買うことになった。ずっとなしでやってきたのだから今更という気もするが話の流れで買ってもいいかなと思うようになった。以前持っていたものはずいぶん古いもので予約も保温も出来なかったため、炊いて残った分はそのままラップに包んで凍らせていた。その間に転職や引っ越しなどを経るうちに生活のリズムも変わって何もかもがめんどくさく感じる期間が続き、ご飯をラップに包んだりするのも億劫で、米を炊くどころか買うこともなくなって、気づけばなんの反応もしなくなった炊飯器だ。それから10年は過ぎたと思う。本当に今更だ。ただまあまたやってもいいかなと随分偉ソーな気分ながらそう思うようになった。

 映画を観に行くことにした。雨の朝である。やめようかとも思った。外に出ても空振ることも多い。それだけ長く住んだ町で飽きつつもある。ただ出た事実も大事かと思い、決めたことをやるのも大事だと思ったのでなくなく出ることにした。靴を下ろした。履き慣れなさと濡れた地面で滑って転びかける。あと思ったより大きい。何食わぬ顔をする自分に笑いそうになる。誰に見られて困るわけでもないのに。カパカパと靴を鳴らしながらまだ時間があったので本屋に寄った。連城三紀彦の短篇を買って映画館の近くのスタバで読んだ。スターバックスのことは大した理由もなくあまり好きじゃないんだが、まだ朝も早く他に開いてる店もないので仕方なく入った。本を読んでいると前の席に小さな女の子を連れた父親が二人きりで座った。女の子にしてみれば椅子が高く一人で座れない。お父さんが座らせてやると女の子はありがとと可愛らしく言った。お姫様のようだと思ったが、私みたいないい歳の人間があまりじろじろと眺めるのも良くないと思い読書に戻った。連城の短篇は「黒い真珠」といって不倫する女と本妻の邂逅で生まれる会話劇のような話だったが二転三転ある中で要所に挟まれる作者の表現にため息が出た。綺麗とも汚いとも言えないただ真っ直ぐに感覚に突き刺さる言葉の感動がある。そこに浸っているとカタンと音が鳴って、音のするほうへ目を遣るとお姫様がコーヒーカップをひっくり返してお父さんが慌てていた。お父さんは怒るでもなく店員さんにタオルを借りて机を拭いたり服を拭いたりしていた。ごめんと言ってニカっと笑うお姫様にお父さんはもう何も言えずに笑い返すしかなかったようだ。

 

 遠方から友人が近くに遊びに来ると聞いた。実際に会ったことはそんなにないというか面と向かって言葉を交わしたのはそれまで一度きりで、それでも友達というのだから不思議な時代だなと思う。付き合いだけで言えば長く一緒の本に載せてもらったりもした。そんな方たちなので生憎仕事中の時間だったがなんとか時間をつくることにした。待ち合わせたのは葉ね文庫の前。近くに住んでいながら一度も訪ねたことがない。町に飽きたとはどの口が言っているのかと思う。初めて入った店内では常連の方なのかわからないが詩(短歌?)の話で盛り上がっている人たちがいて、私には詩情みたいなものがないから何の話だかさっぱりだったものの楽しそうな雰囲気は伝わってきた。部室のような空気感があり、大袈裟な話にはなるが誰かにとってはヨスガのような場所なのだろうと感じた。店内には幾つも短冊が飾られていて、中の一つに「炊飯器になりたい」とあった。なければなればいいのかという気づきがある。存外得たものは大きかった。

 三人でプリンを食べた。アイスはいらないねと話してアイスがないセットを頼んだ。かための美味しいプリンだった。プリン屋を出たあと、せっかくだからと写真を撮ってもらうことにした。通りすがりの方が快く引き受けてくれる。「入れたい景色はありますか?」と画角まで気にしてくれる親切さには失礼ながら噴き出しそうになった。

 二人を見送ってから数日して古本屋で小笠原鳥類の詩集を見つけた。「小笠原鳥類面白いんですよ、課金します」と言って葉ね文庫で数冊、氏の本を買われていた友達の笑った横顔が素敵だったのを思い出し、これも何かの縁だなと思い買って帰ることにした。まだあまり読めていないがお守りとして仕事鞄に入れてある。

狐『ビタースイート・モラトリアム』を読む

 

 

 去る2月14日、聖ウァレンティヌス(羅: Valentinus, ? - 269年頃)、或いはヴァレンタイン(英: Valentine)殉教の日。今日においてはその日をバレンタインデーと名付け、ウァレンティヌスが恋人達の守護聖人とされたことから愛を祝う日としてきた。ここ日本ではいつからか女性が男性に向けて想いを伝えるべくチョコレートを贈る習慣が生まれ、本命以外にも渡す「義理チョコ」なども存在する。更に時代は流れ文化の変遷を経て現在では愛の捉え方も多様化し「友チョコ」なるものも現れてくる。チョコレート、その甘美にして仄かな苦味を残す菓子のような小説が、同じく令和5年の2日14日に爆誕する。

 

 

 作者は「バレンタインなので恋愛小説を書きました!!!!!!!!!」と語る。それは当然の成り行きである。何せバレンタイン、即ち聖ウァレンティヌスは愛と恋に殉じた守護聖人である。作者は自らバレンタインを名乗りいで、今世に於いてもその信念をまっとうすべく降り立ったのだ。紺、おまいだったのか。いつも愛(≒栗)をくれたのは。私はその愛を噛み締めながら今作の頁を開き始めた。

 

待ち合わせ場所はいつもの改札口で、約束の時間より早くそこに着くことが僕の日常だった。カバンの中に荷物をしまい、いつものようにスマホの画面を覗く。最後に送ったメッセージが既読になっていることを確認した瞬間、聞き覚えのある声が僕の耳に届いた。

 

 冒頭の一節である。語り手の名はトーキ。大学生。因みに運やタイミングを狙い、短期的な価格の変動を予測して取引をする投機売買とはなんら関係ない。そんなトーキの元へ一人の女性が現れる。彼女はおまたせと言い、トーキは全然待ってないからと返す。いや待ってただろ。お前、待つのが日常なんだろ。強がるなよ。とは思いつつもその健気さが伺える一場面である。

 彼女はトーキにとって先輩にあたるユウさん。タートルネックの白いセーターにベージュのダッフルコートを羽織り、寒そうに手をポケットに突っ込んで悪戯っぽく笑う2歳年上の聖女。トーキはかつて彼女を「木嶋先輩」と呼んでいたが高校卒業を機に「ユウさん」と呼び方を変えたとある。割礼である。これは決して包茎手術といった肉体的な意味合いでなく、ある種の入門、即ちワンステップの距離詰めを指す。トーキにとってはたかだか2歳とはいえ大人の女性であるユウさんを「先輩」または姓で呼んでいた段階から名前で呼ぶ段階に意味がないわけがない。トーキから見たユウさんはもう木嶋先輩ではなくユウさん、つまり(にょ)となったのだ。ところがその勇ましき道程はその先にはまだ進まない。これがトーキの慎重で、同時に臆病な小動物的性格を見事に言い表している。何せ相手はまだトーキに対して可愛い後輩どまりである。傍目からはデートに見えてもその重みは当人同士でもまだ異なるのだ。ったくじれってえな! 俺、ちょっと行ってエッチしてきます!

 

 

目的地に着くまでの道のりは、バレンタインギフトが鎮座する駅前ビルのショーウィンドウと手を繋いで歩く無数のカップルで占拠されていた。

季節柄仕方ない。そう思いつつも、僕の視線は前を歩くユウさんに向かう。カバンの底に眠ったままの荷物と、冷たいままの僕の手。たまに後ろを振り返りつつも軽やかな足取りで進んでいく、キャメルのショートブーツの足音。

 

 さて、ようやくデートが開始される。街はバレンタインシーズンでムラムラしている。ここでなぜかブーツを履いたラクダの足音が聞こえだすのだが本文にもあるように季節柄仕方ない。ユウさんが「そっち車道! 危ないよ」とトーキを庇う。一般的かはともかく男性側が身を呈すのが流れだと感じるトーキにとってユウさんにまだまだ子供扱いされているといった心情は歯痒いはずだ。軽い冗談の中にも先述したとおり二人のこの日に抱く重みには差異があり、トーキはこのやり取りの中で彼なりに決意に火を灯す。この時期に遊びに誘った理由なんだけどさあ、そう口にし始めるトーキ。ヘタクソすぎる。匂わせもクソもない。急加速。今までの慎重ぶりはどうした? TRANS-AM(トランザム)か? 機体内部(太陽炉本体及びGNコンデンサー)に蓄積されていた高濃度圧縮粒子を全面開放することで機体が赤く発光し、一定時間そのスペックの3倍まで出力上げ残像が生まれるほどの高速機動が可能となるあのトランザムなのか! ところがそこはお約束的にユウさんもひらりと躱す。天才的なまでのナチュラルボーンマタドール。カラオケが始まる。

 

大人になる。

モラトリアムには終わりが来て、僕たちの関係は不変ではなくなるのだ。

 

 アミューズメント施設のカラオケコーナーに入ったトーキはそのポエジーをいかんことなく発揮する。裏を返せば大人になれない僕らの強がりをどうか聞いてほしかったわけだがまだ届かない。とつおいつ、今日まで続いてきた関係に不安を感じ始めるトーキにとってはこのバレンタインデーで決めなければという思いがあったはずだ。逃げたら一つ、進めば二つ。もうやるしかない。無意識の悪魔の所為でラブソングを連発してしまうトーキ。店員の入室に恥ずかしくなってトーンダウンする気弱さ。因みに筆者は店員さんが入ってくるとテンション上がって声デカくなります。ついでにカルピスも頼む。それはさておきトーキとユウさんは大人の恋について語り合う。トーキにとっては当事者でユウさんにとっては相談だ。

 

モラトリアムは子どもでも大人でもない時間だ。大人になっていくユウさんの背を追いかけて生きてきた僕にも、否応なく大人になる時間がやってくる。

 

 いいかボウズ、大人になるってのはな、加齢だ。そこにはなんのセンチメンタリズムもねえ。老いて朽ち果てていくんだ。しのごの言ってねえで決めろ!

 ここから怒涛のトーキ、俺のターンが始まる。

「寒いならさ。手、繋ごうか……?」まだ弱い。

「ユウさん、ハッピーバレンタイン」もう一声!

 

「これからも一緒にいてください。今日からは友達じゃなく、恋人として」

 私はここで一時停止ボタンを押し、熱くなる目頭も押さえて「ようやった……」とかすれた声で囁いた。ビタースイート・モラトリアム、ここに成る。

 

愛の言葉は舌先を離れるまで苦く、一度放たれれば空に溶けていく。返事を聞かなくても、彼女が僕に絡ませる指で答えは理解できた。

きっと、これが大人になるということなのだ。

 


もうすぐ冬が終わり、春が来る。季節と共に僕たちの関係性が進むことを祈りながら、僕は静かに訪れる夜を穏やかに迎えた。

 

黙れ。