アントーニオの肉一ポンド

返却期限を過ぎました。

カシュニッツ「白熊」

 夫が帰宅する。自室は暗く声だけが聞こえる。暗がりの向こうからそれ以上近づこうとしない夫の声は彼のものだが姿は一向に見えない。妻は夫の態度を不審に感じる。会話だけが続く中暗い部屋とは反対に徐々に浮かび上がる二人の背景。動物園で出会った二人の過去と「白熊」の意味。やがて不安はピークに達するとひとつの結果として事件を起こす。事実は過去にあり、現在は未だ幻覚の中のよう。

 先日、友人の薦めで購入したドイツの作家カシュニッツの短編集『その昔、N市では』より最初の一篇「白熊」のあらすじである。サスペンスフルな会話と舞台で明暗を表現する旨さに引き込まれた。女の持つ後ろめたさは第三者から見れば既に過去のものであり、正直なところ非難されるような罪ではない。しかしながら彼女は夫の問いかけにそう反応するように未だ過去に縛られている。男の嫉妬はその登場から結末までひどく情念的で見方を変えれば同情するというよりかは醜いものだと感じる。ただ夫婦同士の中には男の卑屈さによって女が拭いきれない疾しさを刺激される構図が出来上がっている。ところが物語は進み終盤になってくるとこの図式が一方の背徳と罪悪によって培われた感情であることが分かる。事実としてその答えが出たにもかかわらず当事者は劇中で表現される水場から上がった「いつまでも左右に首をふる白熊」のようにそれを直視出来ぬまま幻惑していくのである。

 めちゃくちゃいいなと思った。僕自身も会話劇を好んで書いたりする。その中で直接的な表現は避けて意味を読んでくれた人に委ねるといったヤラシイことをするけれど、それ以前に心理を読み解く、その立場を理解しようとすることが好きなのでカシュニッツの「白熊」はまさにそれをさせてくれるのだから愉しくないわけがない。明るいいい話だとか暗いやな話だとかの次元ではなく巧妙な人間心理におぼえる震えのようなものをこうしてカタチにされて参った。こんなのがあと何篇もあるのかと思うと薦めてくれた友人には感謝しかないと思うばかりです。……あ、あけましておめでとうございます。ほんよろ〜。一応までに。

 

 

 

 

はじめましてと非実在性-文フリ大阪に際して-

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 晴天。台風の影響もまるでなくとりあえずは一安心といったところで、前日までに原稿(それは苦しい)を仕上げた私に死角はなかった。ならやってもええだろとSwitchを起動してハマったゲームのイベントに馳せ参じる。それでも時間には余裕があって、なんなら腕時計の電池交換もしてしまおうかと町の時計屋に足を伸ばした。見てもらうとどうも専用の器具が必要でそこでは難しいとのこと。ただ店主の穏やかさに絆された私はおいくらですかと問う。まあまあ手間をおかけしてタダで見てもらうのも気が引けたので。しかしながら店主「治してこそ頂戴しておりますので」とかえって頭を下げさしてしまい、私はおでこを掻いて申し訳なさそうに笑った。そこで連絡が入る。予定が変わったできれば早めに来てほしい、と。私は今一度おでこを掻いた。その日は文フリ大阪だった。

 とはいえどう見積もってもお昼前が関の山かと申し入れ、とりあえず時計はあきらめてポケットにしまう。二、三おつかいを頼まれたのでそれをこなした後、取り出してみた動かない腕時計の針を眺めながら頷いてタクシーに乗った。

 東京の時とは異なってスッと入場出来た。とはいえ会場は既に賑わっており、東京の時から懐かしさすら覚える次第。渡すものもあったので真っ直ぐに我らが「みみず書房」のブースへ向かう。お元気そうで何よりです。今回みみずの本を販売するはもとよりお菓子をくれた方にはオマケで未発表原稿をお渡しするとTwitterでは掲げたものの店先には報せもなくまさに隠れメニューとして企画を忍ばせていた。おかげで体調かんばしくなかった部分はあれど相変わらずの文化祭的空気感に少しずつ元気を取り戻す。といったところで早速栄養補助食品をいただいた我々。なんだろう懐かしい形。私は栄養補助食品を愛していた。

 時間は緩やかなようで速い。歳のせいかそんなことを思いながらも本は売れて有難い。そうこうするうちに売り子を手伝っていただける方がはるばる東京から大阪へ到着されたのだが伝えた地名に手違いあって見事迷宮入りされた。土地勘のない人にとってはどこを歩いているかもわからない大阪のいいところ。なのでお迎えにあがりますと歩いて向かう。この街に来た頃の自分がひたすら右往左往していたのを思い出した。

 目印のネコを見つけ、かるく挨拶を交わした。Twitterにいる人は本当にいる。非実在性(見るまではそれはない)にしたがって認識をあらためる。はじめてのはじめましてがその人同士の中でこの世には一度きりしかない。尊い瞬間である。

 布陣を揃えて死角のなさに強度が増したゆえ、飯を食うかと階下のコーヒーショップに。そのタイミングでまた非実在性の接触非実在性のまま確認する。ホットサンドを詰め込んだハム太郎の私は急いで会場に戻り、Twitter経由で知り合えた方々と対面した。いるんだ、そうだよな。Twitterの私はあくまで公共広告機構であり、実在とのギャップは俄かに否めないがどうやら狂った人枠として捉えられていたようで手応えを感じた。真っ当に生きていきたい。当代きっての人見知りゆえ、それを隠そうとせんばかりにテキトーな弁を立てつつ感謝があったことはここに表明しておこう。

 

 さてさて会場も佳境。長らくFF内と界隈で囁かれる間柄の大阪の首魁M氏に挨拶へ。また初対面であった。相方の友人はM氏の中でイメージと繋がったようだが私は今まで粗野という感じだったらしい。「粗野かー」と私は言った。優しくいじっていただいて誠に感謝を。またいつかどこかでこんな場に立ち会えたらと思いながらも店じまい。

 

 文フリが終わった後は渋い茶店でお茶を嗜み、キラキラした少女の熱いテニプリ談義を拝聴しどうにかこうにかいつも真っ新な気持ちで泣けるという巻数までは辿り着きたいと気持ちは駆けた。さらには何とは言わんが家元と人たらしの青年に合流し肉を食べる。味見したタンを「生ですな」と網に戻して止まった換気扇の向こう側で蜃気楼と化した私は何を言ってるのかわからねえと思うが蜃気楼だったのだ。

 蜃気楼というとまさに一日が朧げに始まりまた浮遊感を持って終わろうとするその様に喩えられ、そうであってもこれはあったのだと、一足先に大阪を後にするともに本を売った可憐な友人を見送ってからるつえぢ二人で歩いているときに思い返していた。はじめてのはじめましてはその一度きりだが縁は続くものと世の摂理である。私はつくづくこれが大事なものだとあらためて痛感する。全ての出会いに感謝を、と何やら宗教的様相を見せ始める前に床に就こう。

 

追伸:ふみちゃんの持ってきたぬいぐるみクッションがすみっコぐらしとすぐに気付けなかったことだけが悔いです。家族なのに。

私と希望ヶ峰学園 

 始めてしまいました。ダンガンロンパ

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 なぜ今ダンガンロンパか。モンハンがひと段落したからです。モンハン、ダンガン、ダンロン。似ていますね。

 知らない人のために言っておくとダンガンロンパは希望ヶ峰学園と呼ばれる、何かしらの才能に特化した高校生達を集める特殊なエリート校を舞台に繰り広げられるサバイバル推理アドベンチャーの皮を被ったシューティングゲーム或いはジャンルにおける一部システムを踏襲した音ゲー

 何年も前のゲームですから詳しい説明は省きますが、私今日まで未プレイでやって参りました。それが盆休みの気の迷いで新しいゲームやるかってなってたところに目についたのがこのダンガンロンパだったのです。

 

 はい入学。

 

 私はダンガンロンパシリーズ第1作目にあたる今作の主人公、苗木誠くんを操作することになりました。正直なところこのダンガンロンパについてはところどころ知ってる部分がありました。アニメもやってたからね。2からはまるで知らんのですけれど、知ってるものを敢えてやるみたいなことに二の足を踏んでおった私でした。

 

苗木くん:それは違うよ

私:え どゆこと?

苗木くん:それは違うよ

私:だからそれっていうのは

苗木くん:それは違うよ

私:えっと

 

 理解しました。私が知ってる苗木くんは「それは違うよ」しか言わないのです。まるでロンパ出来ないんです。つまり私は真の苗木くんをまるで知らないんです。だったらダンガンロンパの何がわかるってんだ!

 

 編入

 

 というわけで入学初日。集められた「超高校級」を冠する若き才能の持ち主達は見た目にも曲者で一見してなんの能力に特化してるのかわかんないキャラクターも見受けられます。"超高校級の御曹司"なんてのはただただ両親による後光ではないのかってのはさておき、我らが苗木くんは超高校級の幸運としてここ希望ヶ峰学園に参戦しております。一般人が努力しても辿り着けない各分野のナンバーワンだけが集う学校です。そこに抽選で選ばれた冴えない彼は運においてナンバーワンなんじゃね? ってハナシ。ところが彼自身もゲーム開始すぐに振り返ります。実は超高校級の幸運なんじゃなくて超高校級の不運なんじゃないか、と。何せこれから始まるのは楽しい学園生活、その青春などでなく同級生同士のコロシアイなのですから。

 

 ゲームの雰囲気は理解しました。というかだいたいこの辺のあらすじは知ってました。なので特に新鮮みもなくスッと受け入れられたのは反面残念とはいえ仕方ないです。なのでいったんシナリオ面はさておきシステムについて話すと、最初はデスゲ主催のぬいぐるみ、モノクマの思惑に乗っかるまい、或いはこの状況に半信半疑な生徒達は大きな動きを見せません。でもそれじゃあ始まらないのである種プレイヤーのために彼らは悲惨な道を進みます。つまり事件が起きて捜査をして裁判が始まり推理によってクロを告発するってのがダンガンロンパの大まかな流れ。最初の事件で早速疑われた苗木くんのために私は捜査を開始します苗木くんを操作します。

 校内を散策する時は自視点で歩き回るんですけれど早速酔いそうになりました。似たような場所をぐるぐる回ってると吐きそうになりました。同級生(ゲーム内)の死体を見てもなんとも思わない冷酷な私がです。ただマップ画面からショトカもできるので極力使っていきたいと思いました。開始直後調べられる場所はさほど広くないですが記憶力が死んでるのと深読みしたがる性格の所為で何度も同じ箇所に意味を見出そうとしてしまい、場所によって「関係ない」とゲームシステムから指摘される始末でした。

 一通り証拠になりそうなものが集まると強制裁判が開始。雰囲気的には人狼+逆転裁判みたいな感じなんですけれど、未プレイの時には知らなかったこのゲームの特色にぶち当たりました。それはキャラクター達の議論の中に潜む矛盾点に先程の捜査パートで得た証拠の中から適切なものを突き付けるのですが、物理的にぶつけます。苗木くんは何故か銃を持ってます。おそらく比喩ですがプレイヤーから見ればばちばちリボルバーのシリンダーが映ってます。集めた証拠がその弾ってわけ。でそれぞれの発言が文字として立体化して流れてくるのでそこを狙って弾をぶち当てるんです。○pexやん。コレは知らなんだ。挙句ボタン連打しすぎたせいでゲーム側が最初にしてくれるつもりだった説明も拒否してしまったために初見なにしていいのかよくわからないまま勘で終わってしまいました。他にもネプリーグみたいなことをさせられたり安い音ゲーみたいなことをしながら割とボリュームある最初の裁判を終えたのです。今回は最初の事件だったのでヒントがわりと簡単でした。それにそんなん関係なくネタバレ踏んでたからねアニメで。

 

 知ってる部分はあってもゲーム性は面白いと思いました。実際夢中になって一日が終わろうとしています。どうしよう。明日も休んでいいですか?

 

苗木くん:それは違うよ

 

 

 

 



 

 

 

朱坂ノクチルカ『苗代沢事件簿─はぐれ者どもの300日戦争─』を読む

"俺は……! 巨乳でふわふわの髪のッ! いい匂いのする女の子が好きでしゅ!"

 

  えー、これが苗代沢千佳ちゃんです。

 

 というわけでして今日(2022/6/5現在)は朱坂ノクチルカさんの『苗代沢事件簿─はぐれ者どもの300日戦争─』を読んでおりました。今作はまだ連載中であり、とりあえず第一章にあたる「Case.1 ウェルカム・トゥ・アンダーグラウンド」までの感想になりますが紹介していきたいと思います。

 冒頭に引いたのは作中のセリフにあたります。主人公である苗代沢千佳、カナをふるとこれを"ナシロザワカズヨシ"と読みますが、共通言語として彼のことは"チカちゃん"と呼ぶように。もうまずここですね。サブタイトルにもアンダーグラウンドとあるように、今作は日常の裏で蠢めく闇社会にスポットを当てたものとなります。ゆえに殺伐とした雰囲気が描かれるわけですが、その中にあって主人公のチカちゃんのファニーさが一筋の癒しとなっている。アウトローとは縁もゆかりもない一般人。おっぱいが好きで彼女いない歴=年齢の20代の若者が紡ぐ「事件簿」なわけです。他の登場人物に関しては生粋のヤバい方々なわけですが、彼はそこに飲み込まれそうな途上にあるフツーの若者です。ゆえに一般社会の視点を持ちながら一般的でないものを映し出すカメラの役割を担っている。しかしながら彼も人ですからただただ闇社会を描写するのでなく、そこに己が感情を投影させるわけです。つまり、ここは、ヤベー……と狼狽える様が大変エンターテイメントとなっておるんですね。アウトローの衝突を描けば自然と作風、文章というのはシリアスに走りだし重くなっていくものです。ノワールはそれでよいという向きもありますが、私自身は同じシリアスを描くとしてもどちらかといえばジョークを伴うものが好きなので、チカちゃんの存在が中心に据えられていることに感謝さえありました。とてもいいキャラクターだと思います。

 若干のネタバレを含むとそんな彼がそれまでいた世界を文字通り吹っ飛ばして、アングラにウェルカムするんですけど、その手助け(?)をした人物がこれまた素敵に描かれております。ミソノさん(偽名)はチカちゃんにとって天使か悪魔かとこのへんも見どころだと思うんですけれど、今わかることで言えば彼は闇社会の右も左もわからないチカちゃんにとって頼れる灯りであります。人類は火をなくして今日には至れなかったわけですからミソノさん(偽名)の存在は人類の宝!ナイス発明!と言って過言ないわけで、朱坂さんもう特許取りましょう!……取り乱しました。ともかく、ミソノさんとチカちゃんが今後バディとなってなんかしらの事件に挑んでくんだろうな素敵、、と思うていたら流石主人公、早速ヤベー話に巻き込まれヤベー奴に目をつけられます。

 正義のヤクザ、タカ。関西弁で熊のような凄みがある。なんだかポケモンの解説みたいになってしまいましたが当人はかなりバイオレンスなご様子でチカちゃんもビビり散らかしておりました。ただヤクザなりに矜持を持っているようでチカちゃんがカタギなら見逃すと弁えがある話せるヤクザでした。よかったねチカちゃん!

 

 

 そうはイカの塩辛です。これは事件簿。バイバイねアリガトねで帰れる電車はもうないんです。現場にミソノさんがご到着されすったもんだのキリキリマイが、今、始まる。この場面への導入が無茶苦茶よかったです。章のボスとしてタカが君臨するとこは痺れました。バトルものの様相も呈してきて穏やかじゃねーなとなったところでいよいよ発揮されるチカちゃんの主人公ヂカラ! 私のために争わないでのヒロイン力! ヤクザを前に根性見せたらァァの英雄的素養。君が主役で本当によかったと思わせてくれる。そんな勢いに巻かれたというか乗せられたというか彼は引き返せなくなりましたヤッター! バンザーイ!×三唱。

 

 物語はまだ続くわけですが、強固なキャラ造形と軽妙なテンポの良いストーリー。これからも目が離せませんねハイッ!(リンク貼っておくので読んでみてください!イラストも素敵ですよ〜 ギャラ? もらってないもらってない!)

苗代沢事件簿─はぐれ者どもの300日戦争─(朱坂ノクチルカ) | 小説投稿サイトノベルアップ+

 

10年ぶりの東京の話

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 およそ10年ぶりに東京の町へとやってきた。文学フリマってイベントに行くために。成り行きとはいえ決して安かない切符を買うための手はちょっと震えていた。後悔とかはないんですけどね。

 

 新幹線に乗るのも社会人となればなんだかごく普通のことになった。近所に出かける感覚で、車中がゆったりするせいか落ち着きさえある。適当に摘んだ文庫本を開く。三島由紀夫の短篇「岬にての物語」これを読むのは何度目だろうか。初読の印象は三島ってこういうのも書くんだだった。少年の通過儀礼としてある幻想風景、言葉で書けばありがちな話だが描かれた文章は丁寧である。大人びた少年は少年であることを自覚して大人になる。そのための装置は些か突飛であるけれど装飾された舞台は大変美々しい。どこか微睡みを覚えてかちょっと眠ってしまうともう横浜あたりまで来ていた。

 

 着いてみたはいいが実感がない。ほんとに近くのジュンク堂に来た程度の気分だ。雲ひとつない空は少し暑いほどで、人盛りこそあれど駆け足で会場に向かう中、東京らしさみたいなものは感じなかった。

 実のところ、友人がこの文フリで出店していて、どうも心細うにしていたので、などと節介な気持ちでここまで来た。贅沢をしている気分もあった。会場入りまで休憩所のようなところでノートを開いて落書きしているといつのまにかすごい列が出来ていて、この列の先には流行りのラーメン屋でもあるのかと思いながら自分も並んでみることにした。

 

 文学フリマに参加するのは初めてだった。所謂同人即売会。そこに集まる人の思いはそれぞれであるが、私はそんな創作の熱量が幾分停滞する自身を後押ししてくれるのではないかという期待もあった。とりあえずは友人のブースを目指す。しらこい態度で「ちょっと拝見してもいいですか?」と声をかけた。彼は「なんで居るの」と驚く。驚かせようと思ったのも確かだが小っ恥ずかしさから「人違いじゃないですか?」と返した。あまりダラダラ話しても他のお客さんに迷惑をかけてしまうからまた後でと別れて会場をひととおり回ってみる。いろんなアプローチに関心する。大型書店でも様々なジャンルの本は置いてあるがそういうことじゃなくて、では何が違うのかと言われればそれぞれひとつひとつを担う人がその数だけいるというところだろう。であれば作品の向こう側の作り手がすぐそばにあり、熱のこもり方、その感じ取り方が鋭敏になる。この日のために作品を用意し出店している方々、そこに対して良き作品に出会いたいと来場する方々。「本を買いに」来たつもりの自分は先程本屋に来たのとそれほど変わらない気分だと言ったけれど、実際の会場はそれ以上に人対人の世界でここにしかない在り方だと思った。簡単に言えば文化祭的な懐かしさだろうか。それを大人が本気でやってんだということにちょっと感動した。

 

 せっかくなので手伝うことにした。押しかけておいて恩着せがましさ甚だしい私を快く迎えてくれた彼です。売る側の見え方は貴重だった。皆いろんな理由で来店される。作品への興味はもちろんとして、その外側にあるつながりもまたプロモーションとなる。このイベントは普段SNSでしか対話していない人と実際に対面するような場でもある。私はただただ皆実在するんだなと当たり前なことに感動した。来てよかったと感動しっぱなしだった。

 売り上げは本人曰く上々のようだった。もともと儲けド外視とのことだが横で見ている限り得るものは何も金銭だけではないところに良さがあるんだろうと感じた。商業的には綺麗事になるがその不器用さはそのまま温かさだ。そういうことを笑うんじゃなくて大切にしたいと思った。

 

 とんぼ返りの道すがら、書いてもらったひと言を読み直した。そうだなと頷いてみても今だけちょっと眠ることにした。

 

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和田島イサキ『泣かないで青葉さん、どうしても泣くならそれ僕にだけ見せて』を読む

 1969年生まれ。父ブランブルー、母タニノチエリ。

 異父兄に2冠馬タニノムーティエ

 兄タニノムーティエ菊花賞を最後に引退した翌年にデビューする彼は兄の雪辱を晴らすことを期待されていた。しかしながら3歳でデビューするも4戦1勝と成績は振るわず、骨折で休養、さらには休養中にまた骨折と結果的に1年半以上の休養を余儀なくされた。

 一度は引退も覚悟されたがスタッフの献身によって5歳で復帰。彼は遅れを取り戻すように重賞を連覇。ようやく射した陽の光。迎えた有馬記念は健闘むなしく4着に終わり再び休養に入る。

 その一年後、6歳になった彼はもう古馬である。ところが京都大賞典、オープン競争を連勝し再び有馬に挑むこととなる。スタート直後から一気に先頭に抜き出た彼はそのまま2着馬を5馬身差で突き放し圧勝。前年の雪辱は果たされ、その後の成績は兄タニノムーティエを越えるものとなった。

 

 タニノチカラ。今なお語り継がれる伝説の走り。英雄はいつも遅れてやってくる。

 

 

 さてさて今年もこの季節がやってまいりました。何の季節かって? では先ずはこちらをご覧ください。

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いずれ来る鮫の迎えの鉄仮面わらべは見たりその花咲むを - 泣かないで青葉さん、どうしても泣くならそれ僕にだけ見せて(和田島イサキ) - カクヨム

 

 そう! vs和田島イサキ! そうこなくちゃ! 新年度、参ります。ネタバレ? ……御無礼!(ネタはまあバレます。だから読めな↑↑↑)

 

 

 舞台は近所のスーパー「いなとく」。ここでなぜか泣きそうになっている(というか泣いている)学年一の才媛、青葉さんを発見する「僕」。応対する学生バイトの女性も戸惑っている様子だ。こんな時、人は天を仰ぐかスマホで盗撮するほかないと「僕」。はい、いいですよ。ちゃーんとおかしいお前。和田島イサキそうこなくちゃ!

 普段、そのような顔を見せない青葉さんのレアリティは悟空が天使の輪っかつけて空からアバヨのポーズしてる絵のカードダスくらいキラキラしているのだからそりゃ手中に納めたいのが男の子というもの(※盗撮は犯罪です)。当然ながらそれは罪として裁かれ床に正座させられ怒られが発生する。バイトの女性もどうすんだという感じ。そんな今日は実はスーパーいなとくの大創業祭。祝祭の地に小さな黒点、歪さは滅びの音か、それとも新たな伝説の始まりか。

 

 ともあれ不可解な状況は一つずつ解きほぐしていかねばなるまい。とりあえず何故泣いてたかくらいは聞いてみようかと「僕」。対して泣いてた青葉さんの風体は日頃優等生として凛と佇む彼女の面影をジェノサイドしてしまっていた。「すごい服着てるね」紳士たれば思ってはみても言ってはいけない。彼女は上手いんだか下手くそなのかわからないアヒルの絵がプリントされたオーバーサイズかつ真っ黄色のフーディ、確かにすごい服を着ている。でもいいじゃないか。制服というのは個性と引き換えに便利ではあるけれど、私服はそういう冒険の歴史に学ぶある種より教育的な側面を持ったものなのであって青葉さんは冒険の中で、いま一番技量の適正化された装備を纏っているのだから。可愛いねと言ってやれ!

 すみません。些か取り乱しました。気を取り直して読んでいきましょう。「僕」もそれはそれでオシャレだと認めた様子で、すみませんほんとオタクがいきがっちゃってさ早とちりでした。ギャップに理解のある彼くんで良かったです。

 ここでロードバイク一輪の存在が明かされるわけですけれど、それが示すところは彼女がそれに乗って遥々住まいから遠いスーパーいなとくの支店にやって来たのだという気づきです。ここにも冒険の示唆があると同時にまた青葉さん+自転車=一輪の花=孤高といったメタファーが見えてくるわけです。さあ! もう! ここで断じてしまいましょう! これは奇跡と英雄の物語である! ポエティックファンタジア! 伝説の幕開けでございます!(息切れ)

 

 とはいえまだピースが足りません。何が奇跡で何が伝説で何が英雄かはまだここまでではわかりません。そのところを今から説明していきます。

 青葉さんが遠くのいなとくにやって来たのは福引を引くためでした。大創業祭に際して行われる地方の小さなクエストです。青葉さんが手にした福引券の数は尋常ではない様子で、その懸ける想いもまた一入であるってわけ。ところがやっぱり出る杭は打たれる運命にあり、それだけの数の福を引いたならもうこの店は使えねえなと人の目を気にしてしまうお年頃なわけで、やってることは草場を根絶やしにして移動するバイソンの群れに等しいですが思春期の気まぐれと許してやってくださいね。でまあ遠路はるばるあらたな狩場にやってきた青葉さんは現時点で負け越しておりました。狙うは無論一等賞でありますが目に映るのは無垢で頼りない白い玉ばかりです。残された灯火は風前の三枚。彼女は孤独と戦ってきたのです。漫画『金色のガッシュ』の主人公がひとり、清麿少年のように孤独な。ですが清麿が出会いと別れを繰り返す中で助け合うことの尊さを学んだように、青葉さんもまた「僕」と出会ったのであります。

 

引かせてくれないか?

 

 皆さんは覚えていらっしゃるでしょうか? 私が冒頭で述べましたように、英雄は遅れてやってくるのです。青葉さんから繋がれた希望の三枚。男は戦さ場に立つ。やってやるぜ、だからスマホ(盗撮ツール)を返してくれと。

 ところがこの彼、トリックスターでした。英雄譚にはいつだって掻き回し役が存在し、苦難の旅路へと誘導してくれます。そして奇跡は容易く起こらない。白き珠三つ降り立ちて勇ましき者の膝を折る。敗北です。

 

 はいおわり終わりー撤収撤収ーッと撮影クルーが片付けを始めていた最中、ひとりのスタッフがこれまで確かに映っていたけれどスルーしていたところに気がつきました。監督は慌ててカメラをまわせ! と映し直した先にいたのは学生バイトの女性だったのです。青葉さんがこの遠くのいなとくで出会ったのは何も「僕」だけではありません。バイトの女性、完全にモブに徹していた彼女がすべてを回収し始めます。奇跡も、英雄も、物語も。どんな宝石よりも輝きを放つ胸元のネームプレート。

しまむら笑顔で接客中」

 辺境の無銘、ここに真名を授かって英雄を為す。アーサー王が引き抜いたあの剣、RPGの初めに出てきながら中盤終盤まで屑鉄のようなあの装備。それはすべてのピースを獲得した時、苦難の旅にあって強力な友となり得るのです。ここから先の奇跡については原作を読んでください。これは紛れもなく戦いと奇跡のファンタジア。私が語れるのはここまでです。ありがとう和田島イサキ。課金させてくれ。

装置か人か -シェイクスピア『ヴェニスの商人』

 また気まぐれで白紙に戻してしまった。ここは元々読書の感想や日記を残す場として設けたもので、それがなぜだかどうして創作などするようになって気づけばなんでもありの雑記帳になっていた。何度か名前も変わった。もう殆ど憶えていないがひとつ前は「恐竜は絶滅しました」だったと思う。特に意味もない。今だってなぜ「アントーニオの肉一ポンド」なのかと聞かれても答えに困る。その場限り、僕の悪い癖だ。

 

 ただせっかくなので、というか今この瞬間何を書いてみればいいのかが特にないので、この場の名前に纏わる作品の話をしようと思った。

 

 『ヴェニスの商人』はW・シェイクスピアが書いた喜劇である。これは喜劇。作者がそういうのだから。とはいえシェイクスピアが初めて上演した日から五百年以上の年月が流れ、社会の価値観が変遷する中で残った作品の解釈も多様化する。ヴェニスを喜劇として観るのは歴史的背景はあれど構図は単純である。商人アントーニオを善、高利貸しシャイロックを悪とする勧善懲悪。完膚なきまでに打ちのめされる悪を目の当たりにするエンターテイメント。ところがいつしか誰がいい出したか、人はシャイロックの目線でヴェニスを捉えてみることにした。その時見えてくる差別的な表現の数々には正義の揺らぎがある。令嬢ポーシャが結婚相手を選ぶための儀式として三つの箱を用いる。金の箱には黒い髑髏、銀の箱には道化の人形、鉛の箱にはポーシャの写真がそれぞれ収められており、見かけに惑わされず鉛を選んだ者が婚約に値するといった仕組み。これひとつとっても排他的な白人主義が見え隠れする。髑髏は黒人、道化はイスラムを表し、それをその出自である王族達が選択し敗残する。結局ポーシャが結婚相手に選ぶのは友人の命と引き換えに手にした金で求婚を願い出た特に高い身分でもないバッサーニオ。彼は王家などでなくともヴェニス人だからである。鉛の箱はご都合主義によって選択される。とはいえこれは喜劇であるからそうでなければ話は進まない。聴衆にはウケねばならないから。

 

 そしてシャイロックである。彼は冷酷な高利貸しであり、卑属な悪人として描写される。その性格がユダヤの出と起因するかはともかく、アントーニオは彼を軽蔑し対立する。物語としてのヴェニスシャイロックの善に対する憎悪と復讐によって大きく動くものの最終的には悪が敗北し幕を引く。裁判でアントーニオの、心臓の肉一ポンドを要求したシャイロックだが法官になりすましたポーシャの機転で「但しその血は一滴たりと流すことなかれ」と請求の隙を突かれ刃を突き立てることさえ叶わなかった。それどころかキリスト教徒であるアントーニオの命を脅かした罪は重いとされ財産は剥奪。命こそアントーニオの慈悲という形で留めるもそれで尊厳さえも失う。シャイロックひとりが割を食うのだ。

 その後、この演目は世界各国で上演され、無論白人主義圏外でもそれは行われた。それが唯一シャイロックに照らされた光明である。シェイクスピアが作り上げたシャイロックは装置でしかない。劇中では重要な役柄であれど聴衆を盛り上げるための起爆剤だ。ただ人物である。これが喋る路傍の石ならば同情もなかったやもしれない。やり口は狡猾であり、復讐心から視野を狭め脇の甘さを突かれて全てを失うシャイロックではあるが「やりすぎではないか」との声もあり、彼がユダヤ人であることから物語の外に批判を生んだ。シェイクスピアは喜劇としてシャイロックを生み出したものの受け手の感性はそれにとどまらなかったのである。

 

 さしたるシェイクスピアも以下のセリフをシャイロックに与えている。

 

"Hath not a Jew eye’s? Hath not a Jew hands, organs, dimensions, senses, affections, passions?"

 

 ユダヤ人には目がないというのか?手がないというのか?耳も口も五体さえ?感覚、感情、情熱がないというのか?

 差別される人種の悲痛な叫びは『ヴェニスの商人』の目的を越えた本音のようにも聞こえる。シャイロックは装置か人間か。この議論はヴェニスを語るうえで意味のないものかもしれないが物語を読むとは一見そのように見えているものを拾い上げてやることだろう。