アントーニオの肉一ポンド

返却期限を過ぎました。

中井尚子「古い傳説」を読む

非の潜勢力からの疎外ほど、人を貧しく不自由にするものもない。自分ができることから分離されている者は、それでも依然として抵抗すること、しないことはできる。それに対して、自らの非の潜勢力から分離されている者は、何よりもまず、抵抗する能力を失う。

(ジョルジュ・アガンベン「私たちがしないことができることについて」)

 

 中井尚子「古い傳説」については、みみず書房刊行の「魚は銃をもてない Vol3 No.1」に収録された作品である。同誌は架空の文藝誌として2020年11月1日に発刊されたもので、架空のものが世に出るという人を食ったようなコンセプトを内包するが強くは言及しない。発行元の語る架空性はともかく、中井氏の作品は同誌を手にすれば読める。"ない" ものが "ある" とだけ。

 

 今日はこの「古い傳説」について考えてみたいと思う。中井氏の文章は流麗にして繊細であるが、言い換えてみれば捉えどころの見え難い難解さがある。背景的なものを無視しながら読めばおそらく目が滑る部分も否めない。そこで私なりに幾らかでもこの作品から救い取れる部分が増すことの助力になればと、これは建前で自分なりに少しでも読む努力を高めたいのがおおかたの理由。

 本作は4つの節に分かれている。

 

その1 天国へ出ていく

その2 リリス的な何かがみた夢

その3 一種の天井浅敷(つまりくだらない、あれやこれや)

その4 或る助手の独り言

 

 これら4つの手がかりといった詩篇から「古い傳説」とは何かを紐解かねばならない。

 

その1 天国に出ていく

 ここでは先ず、"G.A" という文字が出てくる。つづく「の書く童話」とあるように、一見して何者かのイニシャルだと想像がつくも、これは最終節まで明確な具体名が示されない。代わりに「G.A的天国」という言葉は度々現れて、どのような領域かという説明は為される。G.Aの正体について踏み込むことは作品の世界観を理解する上で重要であると同時にそのヒント、或いはモチーフの少なさから暴きだすことの価値もまた少ないのかもしれない。1節目から抜き出せばG.A的天国では死者は「雨と涙」として出会うとされている。また雨は心地よさ、慰めであるとするに対して、今生においては懲罰として象徴される。観念で見ればこの対比に「死」への憧憬、または「死」することの救い、その期待が窺える。

私の行く天国の海は

G.Aの書く海にすることにした

 ここからわかることはG.Aが「私」の道標となるような精神的支柱であるということ。また何かしらの思想としてG.Aがあり、それは希望的であること。「私」はその希望に基づいて天国を思惑していくというのが1節目である。

咀嚼が

はじまる

海老の天麩羅その尻尾の旨味に似た

赤ん坊の骨のような柔らかい骨の味

永遠のプロトタイプとして生きて死んだ

その思い出の欠片の味

永遠のプロトタイプとしてしか生きも死にも出来なかった

その哀しみの血の滴り

 今作の特徴として文体の調子に揺らぎがある。ムラと言ってもいいかもしれない。片や天国を言及すべく神話じみた語り口が在れば、上記の引用のようにコミカル、というのは不適切かもしれないが、であるから身近な生々しさをも伴う。「海老の天麩羅」というものはどうにも現実的で、だからこそこの辺りの主張がより痛切に響く。「永遠のプロトタイプ」とは何か。そのようにしか為れなかったという口ぶりからは認められなかった者であろう。それは咀嚼という段階を経て消滅し、悲壮な現実と反転するG.A的天国では「奥へと進むことが出来る=認め」となるわけだ。叶わなかったものへの許し、それはあくまで思惑の産物であれど、現実に置き換えれば、生きていく我々の"抵抗"である。

 

その2 リリス的な何かがみた夢

 リリスという言葉を用いる以上、「古い傳説」というタイトルに片山廣子が書き遺した同名のエッセイを関連付けないことは難しい。片山廣子歌人、翻訳家、随筆家として知られ、芥川龍之介最後の恋人などとも云われるような人である。彼女のエッセイを纏めた月曜社刊行『燈火節』の中に「古い伝説」という一編がある。内容は片山があるキッカケをもとに思い出した伝説について。

 

いつ、どんな本で読んだ伝説かはつきり覚えてゐない、夢のなかでどこかの景色を見て、蒼ぐらい波の上に白い船が一つみえてゐたやうに、伝説の中の女の姿を思ひ出す、美しい女である。世界最初の女、イヴよりもずつと前にこの世界にゐた美しいリリスである。

 

 片山はここでリリスの誕生とその終わりを聖書から引いて説明する。創世最少の女(イヴ依然)として創造されたのがリリスであった。彼女は他の創造物と等しく、魂を持たない存在であり、生まれながらに満たされていた。満ちるというのは一見恵まれた環境に思えるが、言い返せばそれしか知らない平坦さがある。その中でリリスは一つの感情に出会う。それは「疲れ(本文では"くたびれた"と表現)」である。リリスは満たされ続けることに疲れてしまい溜息をつく。これが神にしてみれば失敗作との判断になり、リリスは神の手によって消されてしまう。リリスの不出来さ、また最初の者という境遇は何処か1節目で見た「永遠のプロトタイプ」に重なる。2節目はそのリリス的ななにかが見た夢と冠するが、舞台はどこかの美術館にはじまる。1節目と較べてやや解像度の上がった、詩というよりかは物語としての切り口に近い。その美術館の館長に案内されて出会う一人の少女の絵。この対面を境に再び幻惑していく。少女の絵は鑑賞者に語りかける。それは片山が記した伝説のリリスが辿った道のようでもある。絵の少女は自らを「夢を見ない花」とし、鑑賞者を「明け方の夢」とする。この出会い、本来ならば叶わぬ交わりによって地上にはじめて雪が降ると。それははじめての涙でもあり、はじめての表情でもあるなどとして「はじめて」といった言い方を繰り返す。つまり絵の少女=リリス的であり、鑑賞者は出会うはずのなかった同胞である。これによってリリスは知れざる感情を獲得し在りうべからざる未来に到達するというわけだ。節の最後で描かれる館長の死は神からの逸脱とも読み取れる。

 

その3 一種の天井浅敷(つまりくだらない、あれやこれや)

 3節目はおそらく自死を決意した者の語りである。生きていた頃などと言っているところから今まさに実行したばかりなのかも知れない。語り手には妙に暢気とでもいうような軽さが窺えるところからも。これが決意した者の強さか或いは開き直りかはさておき、語りの中身はかつての登山合宿の思い出だ。ここで得た4つの体験について。一つ目はこの世でもっとも純粋な食事が雪であるという知見。曰く、雪はどれだけ汚れたもの上であろうと降り積り、また誰かが汚す前のそれ。ここでも「はじめて」という言い方にこだわりが見える。はじめての雪を食したのは誰か、それははじめて散った花と同じほどのーーなど。二つ目の経験は高地の酸素が薄いこと。これは当たり前と言えばそうなのかもしれないが経験に重きがある。語り手は経験によって理屈ではなく、そこがさも禁足地かのような感想を持った。想像と生の体験の隔たりが短い中にうまく表現されている。三つめは山を登りつづければ雲の上に行き着くこと。二つ目と似通った部分もある。語り手は山の神秘性に気圧されてそれがどこか恐怖感として焼き付いている。自分では、少なくとも生きている間は敵いそうにもない圧倒的な自然という脅威に。それがこう死を以て一気に噴き出たような印象を受ける。4つ目。最後は夜。これもまた怖さの切り口で語られる。山の夜はそれほど暗さを感じない、なぜなら星の存在が顕著だから。けれどその星の輝きもどうにも人外的で照らされる者にしてみれば畏怖が先にあると。美しさは同時に得体の知れなさであり、その圧倒は受け手の姿勢によって苦痛ともなり得るという。この一連の告白が意味するところは難しいが、今こうして文章を前にする読者への警句のようにも聞こえる。

 

その4 或る助手の独り言

 生きているというのは後悔の連続だ。などと言えばネガティブだと捉えて反論もあるだろう。しかしながら何事にも悔やまず生き続けるというのは一般的な視点から言って非常に困難なことであり、切り離せない感情である。その大小に関わらず。ただその中で果たせなかった瞬間は別の場面で花咲くための経験であることもまた然り。希望し、絶望してを繰り返し、かつては見えなかったほどの小さな幸福に意識が向くということもある。そう信じなくてはやっていられないだろう。溢れてしまいそうな折には必ず助け手というものが差し伸べられており、自らもまたそれを裏切らぬようにしていれば「ただ生きた」だけでなく生き死にだけの極論の世界から自由になれるのではなかろうか。うまく纏められないが、私は中井尚子の「古い傳説」を読みながらそんなことを考えた。長くはなったがこんなものでも何かの助け手になれば幸いだ。

 

そんな事が頭にうごいた拍子に、私は今日の貧乏生活が非常にありがたく新しいものに思はれ出した。裸かのまづしい日々に、何か希望をもち、そして失望し、また希望し工夫をし、溜息をし、それを繰り返しくり返して生きることは愉しいと私は急に元気が出た。

(片山廣子「古い伝説」)

 

はねやすめ

 "夕闇迫る雲の上 いつも一羽で飛んでいる

 鷹はきっと 悲しかろ" -手嶌葵「テルーの唄」-

 

 仕事中にみつけました。段ボール箱の上にとまった蝶。私はかなり近づきました。テルーの唄を歌いながら。テルーの唄とは手嶌葵さんが歌う映画『ゲド戦記』の主題歌でもあった曲で優しくもせつない切なげで優しい曲です。だからきっと蝶も聴き入る=落ち着く=逃げないだろうといった算段があってテルーの唄を歌いながら近づいたのです。惜しむらくは私が手嶌葵さんではなく一般おじさんなのでテルーの唄の優しくもせつない切なげ優しい感じを純粋に再現できないところでしたがそれでも蝶は逃げずに段ボール箱にとまったまま私の接近を許しました。本来ならば業務中にテルーの唄を歌いながら蝶に接近を試みることは規定違反にあたるので私はなんらかの処分をうけて然りでありますが、その日は私ひとりの出勤日ということもあって咎める者もいませんでした。かといって良識を貫くならばテルーの唄を歌うべきではなかったし蝶に近づくべきでもないのです。ただ事実として私はテルーの唄を歌っていたし蝶にも近づいていました。ここだけの秘密にしてください。

 さて、なぜ私は蝶に近づこうと思ったのかを振り返ってみます。それを初めて見る子供だったわけではありません。殊更昆虫が好きなわけでも。だったならなぜ蝶に近づこうと思ったのか。それはきっとこのどうも乗り切れない周りが休んでいる中で一人業務にあたっている時間に張りがほしかったのだと私は思うわけです。テルーの唄もなんとなく歌いたいというのが前々からどこかにあって私はそういった小さな欲望を仕舞った箱を開けたいと蝶を見つけた瞬間に思ったわけです。ルールでは縛れない偶然性に誘発するパワーです。

 それから蝶はずっと飛び立ちませんでした。そこに蜜などあろうはずもなく何故かと思えば翅休めだったろうとは想像します。もしくは歌がうけたのか。けれど幾分私も業務中であるうえにテルーもフルコーラスしてしまったわけで、ならお互いに自由にしようと話し合って窓を少しだけ開けて仕事に戻りました。

 業務を終えて戸締りをする頃には蝶もいなくなっておりました。充分に休まったのでしょうかね。入れ替わるようにして私が休む番が回ってきたわけですが私には私を落ち着かせようとテルーの唄を歌いながら近づいてくれるような蝶、もしくは人などいないわけで、いたらいたでどうなんだというのもありますがそんな機会に恵まれたなら私はきっとすべてを察して優しく笑うと思います。本日もお疲れさまでした。

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和田島イサキ『アリス・イン・ザ・金閣炎上』を読む(改訂版)

 日本国内における西洋医学浸透に多大なる貢献をした杉田玄白はこう云う。

己上手と思わば、はや下手になるの兆としるべし。

 『まんがで読破-解体新書』に書いてあった(気がする)。超訳すると「限界を自分で決めるな!クソタレめ!」という戒めである。

 

 また日本を代表する偉大な声優の一人、杉田智和はこう云う。

ここじゃない何かになりたい。めちゃくちゃな破天荒な家族と制限だらけの田舎と。そういうところじゃないところにいきたい。漫画とアニメとゲームって理想の世界だったから。モビルスーツが出てきて、こんな二足歩行のものに乗って戦うんだって(あにてれ『声優ケンユウ倶楽部』第58回 ゲスト:杉田智和 #2 )

 

 二人の杉田は諦めないことの重要性を説く。

 

 ここにとある小説作品を紹介したい。

アリス・イン・ザ・金閣炎上(和田島イサキ) - カクヨム

 

 私はこの和田島イサキなる人が書いたとする小説について何度か感想を書こうと決意し、そして諦めた。ふつふつと湧いてくる何かをどうしても上手く言葉に出来ず、言葉にならないもので水を差すくらいならばいっそ沈黙こそが堅実に思われた。しかし二人の杉田は言っている。限界を超えろと。諦めるなと。止まるんじゃねえぞと。

「もう遅えかもしんねえ。あの初めて読んだ時の気持ち、今どれだけ思い出せるかわからねえ。けどさ、和田島さん。俺は……俺は……俺はさアアアア! 今からこの『アリス・イン・ザ・金閣炎上』をターヘルアナトミアする!! するったらするんだそれでいいんだよな杉田さん これで、いいんだよな和田島さん……」

 

 というわけで真剣に、かつ真摯に『アリス・イン・ザ・金閣炎上』と向き合っていきたいと思います。ネタバレ、深読み、超訳、拡大解釈上等なのでこの先は覚悟と共にお進みください。逆に覚悟以外は何も要らない。未読でも覚悟があれば大丈夫です!

 

 先ずは物語のあらすじについて。話は語り手である「私」(名前は後述する)が自身の性について葛藤している場面から唐突に始まる。「私」は目の前で寝ている女を襲いたいと考える。男性の強みはこういった場合に本能に身を委ねることができる、つまりリビドーの赴くままに寝込みを襲える!などという極端な視点を持ち、ゆえに自らが男性であればこの葛藤は解消されるとする。つまり「私」が女性であることが明らかになるも、同時に只者ではないことが予見される。「私」はこの瞬間まさに事に及ぼうとする欲求と「私」の抗えない女性性からくる理性の狭間でトチ狂いそうになっている。対してそんな「私」の心情を知ってか知らずか野獣の本能を刺激する女は「私」の友人であった。彼女の名はアリス。「私」をもって「小さな天使」「途轍もない美人」「あっこれならOKです人生踏み外しても」と言わしめる美貌の持ち主だとされる。ここまでの僅か数行から浮き彫りになるのは女性間に生ずる恋愛感情そう(大声)ッ!! 端的に申すと「百合」である。

 

 戦前、開祖吉屋信子による少女小説を源流とした女同士の強固な絆を描く芸術的流派は時の流れに廃れる事なく今日まで受け継がれてきた。近年、その理解は深まりを見せてきたとはいえ女性が女性を愛するという行為(はたまた男性同士においても)をまだ倒錯と見る向きもある。こと創作においては現実で乗り越えにくいハードルを下げるだけでなく、その世界観の提示によって理解或いは救済を求めるための志しとも考えられた。ただそのようであるがゆえに百合には未だファンタジー、或いは広義のマジックリアリズムの側面を可能とし理想郷としてのヨスガを構築できるのだ。

 

 さて、些か話は逸れたが、「私」はミッション系女子校の出身である。補足するとミッションスクールとはキリスト教の教えを理念として運営される私学のことです。はいはいなるほど皆さんのお考えはわかります。えーえー私はこの物語を解体するとまで言いましたね。であるならばキリスト教が絡んできた今、参考図書としてそこに聖書を挙げねばならないのではないかということですね。いやー皆までDon'tセイッ!わかりますわかります。匂わせモチーフならいざ知らずミッション系女子校なんてそのものが提示されてんですから旧約から行けよ!と仰る。ですがね考えてもみてください。タピオカの流行を白亜紀まで遡って考察した学者がいますか?私は知らない。だからこのまま行きます。

 山奥の女子校で小中高とエスカレーター的に過ごした「私」。そこには無論異性の同年代は介在せず、従って恋愛感情みたいなものは身近な女子に向けられる。先述した吉屋信子よろしくのエス小説ではよく見られる場面だ。「私」の男性観もこういった環境で養われ、それはどこかで幻想に抱く憧憬のようでもある。但しまだ「私」はアリスと出会わない。「このままだと何か大事なものを踏み外したまま大人になる気がする」そう感じた「私」は都会の大学へと進学する。そこに天使がいた。ヒンチクリフ・アリス。たんぽぽの綿毛のような女。

 当時のアリスはこの大学におけるヒエラルキーの上層にあり、並の学生が近づける存在ではないものとして描かれる。そこに何やら物々しい言い回し「殺人ブルドーザー」を自称し接近を試みたのが「私」(この辺りで彼女の姓が黒岩と知らされる。以後カギかっこ付きで私と書くのがめんどいので黒岩とする)だった。黒岩にとってこの時の邂逅は黒歴史とされており何が起きたのかは明かされないがアリスは満更でもないような素振りを黒岩に対して見せたらしい。ともあれこれによって黒岩あるところにアリスありと学内に浸透し二人の距離は接近していくのだがやがて黒岩側のラインが決壊する。

特にすることもなく取り残された夕暮れの和室、安心しきった寝顔を間近に眇める私の、その胸の裡(うち)に湧き上がる未知の情動。この汚れひとつない無邪気の塊を、簡単にその身を預けてしまえる雛鳥の無垢を、でも特段の理由なく滅茶苦茶に穢(けが)してしまいたくなる、このどこまでも粗野で根源的な人間の本能。

 「やってしまうことにした」黒岩の情動が驚くべき流暢かつ流麗に描かれる。この一文には大きく「やりたい」と仮名を振ることが出来るもそうはしなかった乙女心の表記揺れと私は見た。単なる欲の動物には知り得ない詩人の魂がここにある。散らかった部屋を対比にしながらそれより汚れていると自身の心内を形容するが、そうありながらも飾り立てることを諦めない切なさに私は泣いた。そして迎える二十歳の誕生日。二人は黒岩の自宅で誕生日会を開始する。

 アリスは黒岩を玲ちゃんと呼ぶ。黒岩玲。良い名だ。だから私も以降は玲ちゃんと呼ぶことにする。玲ちゃんは「酒の力」を冷静に分析しながら酔う前に覚めてしまい二十歳の自分自身も相まって恥モードに突入してしまう。玲ちゃんはその中でアリスの言葉を思い返す。

大人は嘘つきなのではなくて、ただ間違いをするだけなのです

 いろんな意味で玲ちゃんを勇気付けたこの言葉は二十歳の夜の今の今まで彼女の信仰としてあり続けた。しかしながら後押しの魔法になるはずだったお酒は期待に応えてくれず、大人へのクラスチェンジは花と散り、結果的にアリスに踊らされてしまった玲ちゃんはそこから連なるアリスの態度や仕草の諸々を内省するうちに情念のモンスターを蘇らせてしまう。

男だった。私の、ではなく、私が、誰かの。なり損ないにせよ紛い物にせよ、でもそうあるべしと定めたのは紛れもない事実。

 かつて一人の少女が置かれた場所で咲こうとした結果それは生まれた。

でも君にならとその掌にそっと握らせてやる。そんな安いような重いような作り物のドラマが、どんな通貨より力を持つ世界だった。

 そのような場所から命からがら逃げ遂せた先に現れた天使は救済となるはずで、それは決して間違うことなく玲ちゃんが玲ちゃんであることを認めてくれていた。だからこそ正しくあるべしと本願を遂げる相手はアリスでなくてはならなかった。もうここはボロ泣き展開なのだ。欲動はその天使の犠牲によって成就する。物語はクライマックスへと向けて疾走感を友人に動き出す。振られた指揮棒に合わせてけたたましく鳴り響くフィナーレの音を目前にしてレコードの針が飛ぶ。モンスターは生まれて初めて見る景色の前で呆然と立ち尽くすこととなる。再び意識がお帰りなさいした時、玲ちゃんの情動はあらぬ方向へと向き始める。

 

私はたしかに生きるために金閣を焼こうとしているのだが、私のしていることは死の準備に似ていた。

 ここで敢えて本家(?)『金閣寺三島由紀夫が書いた一文を引用する。玲ちゃんが為そうとすることはここに全てが込められている。冷静を欠くゆえか死生渾然一体の境地に辿り着いた彼女はもう止められない。万華(修飾表現)でキャンドルサービスしてしまいました。

 金閣炎上はあらゆるトリガーになり得る。この先の二人は是非とも本文を見届けてほしい(最初の方にリンクも貼ってる親切設計)。私はここまで読んでみて敢えて言うが玲ちゃんが女で生まれてくれてよかった。そうでなければこの物語は成らなかったのだから。

 

追伸:実はこの文量をカクヨムくんのレビューとしてぶっ放そうとしたのだがどうも強度が耐えられず全文消えてしまったのでブログの方に(若干の手入れをしつつ)書き直した。私に勇気を与えてくれた二人の杉田さん。それからこの作品を産み落としてくれた和田島イサキさんには感謝してもしきれません。