アントーニオの肉一ポンド

返却期限を過ぎました。

装置か人か -シェイクスピア『ヴェニスの商人』

 また気まぐれで白紙に戻してしまった。ここは元々読書の感想や日記を残す場として設けたもので、それがなぜだかどうして創作などするようになって気づけばなんでもありの雑記帳になっていた。何度か名前も変わった。もう殆ど憶えていないがひとつ前は「恐竜は絶滅しました」だったと思う。特に意味もない。今だってなぜ「アントーニオの肉一ポンド」なのかと聞かれても答えに困る。その場限り、僕の悪い癖だ。

 

 ただせっかくなので、というか今この瞬間何を書いてみればいいのかが特にないので、この場の名前に纏わる作品の話をしようと思った。

 

 『ヴェニスの商人』はW・シェイクスピアが書いた喜劇である。これは喜劇。作者がそういうのだから。とはいえシェイクスピアが初めて上演した日から五百年以上の年月が流れ、社会の価値観が変遷する中で残った作品の解釈も多様化する。ヴェニスを喜劇として観るのは歴史的背景はあれど構図は単純である。商人アントーニオを善、高利貸しシャイロックを悪とする勧善懲悪。完膚なきまでに打ちのめされる悪を目の当たりにするエンターテイメント。ところがいつしか誰がいい出したか、人はシャイロックの目線でヴェニスを捉えてみることにした。その時見えてくる差別的な表現の数々には正義の揺らぎがある。令嬢ポーシャが結婚相手を選ぶための儀式として三つの箱を用いる。金の箱には黒い髑髏、銀の箱には道化の人形、鉛の箱にはポーシャの写真がそれぞれ収められており、見かけに惑わされず鉛を選んだ者が婚約に値するといった仕組み。これひとつとっても排他的な白人主義が見え隠れする。髑髏は黒人、道化はイスラムを表し、それをその出自である王族達が選択し敗残する。結局ポーシャが結婚相手に選ぶのは友人の命と引き換えに手にした金で求婚を願い出た特に高い身分でもないバッサーニオ。彼は王家などでなくともヴェニス人だからである。鉛の箱はご都合主義によって選択される。とはいえこれは喜劇であるからそうでなければ話は進まない。聴衆にはウケねばならないから。

 

 そしてシャイロックである。彼は冷酷な高利貸しであり、卑属な悪人として描写される。その性格がユダヤの出と起因するかはともかく、アントーニオは彼を軽蔑し対立する。物語としてのヴェニスシャイロックの善に対する憎悪と復讐によって大きく動くものの最終的には悪が敗北し幕を引く。裁判でアントーニオの、心臓の肉一ポンドを要求したシャイロックだが法官になりすましたポーシャの機転で「但しその血は一滴たりと流すことなかれ」と請求の隙を突かれ刃を突き立てることさえ叶わなかった。それどころかキリスト教徒であるアントーニオの命を脅かした罪は重いとされ財産は剥奪。命こそアントーニオの慈悲という形で留めるもそれで尊厳さえも失う。シャイロックひとりが割を食うのだ。

 その後、この演目は世界各国で上演され、無論白人主義圏外でもそれは行われた。それが唯一シャイロックに照らされた光明である。シェイクスピアが作り上げたシャイロックは装置でしかない。劇中では重要な役柄であれど聴衆を盛り上げるための起爆剤だ。ただ人物である。これが喋る路傍の石ならば同情もなかったやもしれない。やり口は狡猾であり、復讐心から視野を狭め脇の甘さを突かれて全てを失うシャイロックではあるが「やりすぎではないか」との声もあり、彼がユダヤ人であることから物語の外に批判を生んだ。シェイクスピアは喜劇としてシャイロックを生み出したものの受け手の感性はそれにとどまらなかったのである。

 

 さしたるシェイクスピアも以下のセリフをシャイロックに与えている。

 

"Hath not a Jew eye’s? Hath not a Jew hands, organs, dimensions, senses, affections, passions?"

 

 ユダヤ人には目がないというのか?手がないというのか?耳も口も五体さえ?感覚、感情、情熱がないというのか?

 差別される人種の悲痛な叫びは『ヴェニスの商人』の目的を越えた本音のようにも聞こえる。シャイロックは装置か人間か。この議論はヴェニスを語るうえで意味のないものかもしれないが物語を読むとは一見そのように見えているものを拾い上げてやることだろう。