アントーニオの肉一ポンド

返却期限を過ぎました。

遠くの散髪屋

 昔、『美容室』というタイトルで小説を書いたことがある。ごく普通の日常の中に異質なものが入り込んできたときに自分ならそれをどう考えて何を言葉にするか、そんなことを書いた。

 

 それはそれとして私が子供の頃といえば美容室ではなく理容室だった。専ら床屋ではなく散髪屋と呼んでいた。家から少し離れたところにある、おっちゃんとおばちゃんが夫婦でやってる店で、席は二つしかなくて待つこともしばしばあった。待っている間、その散髪屋には雑誌や歴史の漫画が置いてあるのでそれを読む。置いてあった雑誌は当時でいう「月ジャン」。少年ジャンプでも週刊じゃなくてなぜか月刊のほうでマイナーな方だ。あとちょっとエッチな漫画の割合が多かった。

 店にはこれ見よがしの賞状が飾ってあり、その隣に外国人の女の人の裸の写真が載ったカレンダーがかけてあった。おっちゃんは無口で堅物な人だったけどしっかりスケベだったんだと思う。暇な時はいつもゲームボーイをやってて一生貸してくれなかった。おばちゃんは明るい人で産毛を剃ってくれた。昔ながらの剃刀で、私は正直なところこれにビビりまくっていた。子供時分は祖母とよく一緒に時代劇のドラマを見ることが多く、そのどれだったかは忘れたけれど、剃刀で喉を掻き切られるシーンを見てからトラウマになっていたのだ。だからおばちゃんに剃刀をあてられた時は飾られた賞状に祈った。剃毛(?)の技術を競う部門みたいなのがあって、その2位だか3位だかをそのおばちゃんが獲りましたみたいなことが書かれていたからだ。流石は2位だか3位だかの技術で、おばちゃんに産毛を剃ってもらって怪我した記憶は今もない。

 おっちゃんはさっきも言ったように相当堅物で、自分の気に入らない角度に首を動かすと結構な力で捻り戻されたりした。切ってる間は一言も喋らない。ただ黙ってグイッ。なので他の店の美容師さんがめちゃくちゃ喋りかけてくるのが最初は戸惑ったりした。このオヤジ本当に何も喋んないなとは思っていたがわりと心地良い時間でもあった。

 いつか帰省した時に店の前を通った。中学の終わりぐらいに通うのをやめてからはなんだかバツが悪くて近づきもしなかった。気づいたら店はもう開いていないのだった。月ジャンも今はジャンプSQになってしまった。遠いなと思いながら通っていた散髪屋は大人になると随分近所だったことに気づくのだけれど、それでもなんだか大分遠のいてしまったようだ。自分で剃刀を使ってみると失敗して血が出たりするとたまにおばちゃんの技術を思い出し、無口なおっちゃんが咥えタバコでゲームボーイやってる姿が目に浮かぶ。