アントーニオの肉一ポンド

返却期限を過ぎました。

日替わりランチシステム

 歯医者通いに一区切りがついた。定期検診を受けなくてはならないみたいだけど一週間に一回みたいなスパンではなくなる。ほっとする反面、残念な部分もある。私は歯医者での治療が終わるちょうど昼過ぎにその足で向かう喫茶店の日替わりランチを頼むのがルーティンになっていた。日替わりランチは本当に日替わりで一週間経つとその先週とは違う料理が出てくる。これはいいぞと思った。元来自炊を諦める星の下に生まれた私のような人間にはうってつけの日替わりランチシステムだ。何も考えずに食べることができる。私には食べることへの見えない障壁があり様々な理由で食事が億劫に感じてしまう。日替わりランチはこれら全てを解決してくれていた。

 ところが歯医者への通院が減るとなれば話は変わってくる。通院と日替わりランチはセットでなくてはならない。これが別々個々の事象となればわざわざ喫茶店に行くだけというところで壁が立ち塞がる。本当に残念だ。もう私の日替わりランチは日替わらない。さようなら日替わりランチ。

 

 

 

 最近PS5を買った。大人になるというのは大変愚かなことで、子供時分にはまるで手が届かず指を咥えて眺めるしかないといった柔らかな感覚をいとも簡単に破壊できる。当然侘び寂びなどあろうはずもない思いつきの暴力によってPS5は我が家に届いた。ずっとやってしまう。社会人になってからしばらくはゲームと離れて生活してきた。高校で読書の楽しさを知り、大学で楽器を触ったせいで少し疎かになったそれを埋める日々を過ごしていた。ここ5年である。Switchライトを皮切りにSwitch、ゲーミングPC、そしてついにPS5まで買ってしまった。子供の私が足繁く通ったゲーム機をいっぱい持ってるお兄ちゃんの家。今私の部屋が完全にそれになっている。子供の私は毎日この部屋にやってくる。そして私に向かってこういうのだ。「ゲームやっていい?」私はこれを拒否できない。思えば若い頃の私は諦めと否定によって人生のピントを合わせてきた。おいそれと欲しいものが手に入るわけではない頃はそれで受け入れることが出来ていた。ままならぬことは忌み嫌い否定することで自身を肯定した。否定の多い日々の中で何かが麻痺していたのかもしれない。私はケータイ小説というもの或いはムーブメントが好かなかった。はっきり言って稚拙なものだと思ってきた。比較されるのは近代文学で、漱石に比べるとどれも日本語なのかさえ怪しいなどと思ってきた。それが今になって振り返ってみるとなぜそんなにも唾を吐きかけるような態度でいたのかイマイチ分からなくなった。もう何かをマイナスして自分をかたちづくることに意味を感じなくなったのかもしれない。嫌いなものを嫌いだと思える気持ちは大事なことだけれどそこは核じゃなくて一部でしかないと自覚すべきだったのかとりあえず今はそんな心地で、ケータイ小説の是非や近代文学の格式みたいなものは窮屈に思えて途端執着が消え失せてしまった。否定と諦めの中でゲームを忘れようとした私はもうなく部屋にやってきた子供と一緒にコントローラーを握るのだ。